陽射しと影


 菊池家は代々、神道家に仕える使用人の家柄だ。主人を光とするなら、従者は影。忠はこの世に菊池家の嫡男として生まれた時から、影のように生きることを望まれてきた。
 陽当たりの良い絢爛な家で、彼は幼い頃からひたすら従順で優秀な従者となるべく育てられた。すべてはより主人が光り輝くためだ。忠は自らの生き方を疑わず、主人である愛之介を影から支え、周囲の期待に応えた。
 しかし期待というのは時に強い重圧となる。仕事を終えた彼は清廉に整った容貌に、いつになく物憂い雰囲気をやどしていた。そこに色濃い疲労の影を感じとり、名前は優しく声をかけた。

「忠さん、だいぶ疲れてるみたい。」
「……そうですね。今日は結構疲れました。」

 そっと抱擁してきた忠を、名前は快く受け入れた。静かな抱擁は彼なりの甘えたいサインだった。それを心得ている名前は体温を感じながら、慈しむ。

「今日はどんなお仕事を?」
「朝は議会の資料作成と視察対応の送迎を。昼から夕方は国会の答弁資料作成に、地元の有権者や他の選挙区の議員の方々との会談の同行。夜は立食パーティーの送迎と明日の"S"の諸準備……でしょうか。」
「そんなに……かなりボリュームがあって、忙しかったんだね。お疲れさま。」

 政治家秘書の仕事に加えて、"S"の運営者としての業務も行っている。分刻みのスケジュールが常態化していて、かなりの激務であったことは名前にもつたわってきた。彼女は口もとを緩ませ、労るように忠の背中を撫でた。

「忠さん、ゆっくり休んでね。明日も大変だろうけど、私も頑張るよ。一緒に頑張ろうね。」
 
 名前の優しい言葉が、砂が雨水を瞬く間に受けいれるように浸透していく。見えずとも優しく朗らかな笑みをしているのが、忠にはわかった。
 彼は名前を穏やかな陽のようだと常々思っている。まぶしくて、なにより暖かい。色濃い疲労の影が和らいでいき、胸があたたかに満たされていく。

「名前さん、ありがとうございます。」
「いいえ。どういたしまして。」

 口を突いたのは、心からの感謝の言葉だ。名前と触れあっているだけで、疲れきっていたはずなのに不思議と活力が湧いてくるようだった。
 忠は名前の髪や首もとへと鼻先を寄せ、まるで甘える犬のように嗅いでいく。陽射しをたっぷり浴びたような、清潔でやわらかな匂い。それは彼にある形容の言葉を発させた。

「いつも思うのですが、」
「うん。」
「名前さんからは、おひさまの匂いがします。」

 ずいぶんと愛らしい表現である。忠は決して語彙力が乏しいわけではない。議会や国会での答弁資料を作成する仕事もしており、むしろ豊富な語彙力を持っている側だといえる。それにもかかわらず、まるで幼い子どものような形容をする彼が、名前にはたまらなく可愛く思えて仕方がなかった。

「おひさま……ふふ、忠さんは可愛いね。」
「……失礼しました。今のは忘れてください。」

 やや早口で忠は発言の忘却を願った。疲れていたとはいえ、とても幼い言葉で名前をたとえてしまったことが遅効性の恥じらいを生んだらしい。
 それを眺めていた名前は、大人を困らせる悪戯を思いついた童女の顔になる。稚気に満ちた様子で、問いかけをしていった。

「忘れたくないと言ったら?」
「交渉します。今の私の発言を忘れる対価として、名前さんの好きな菓子を何でもお取り寄せしましょう。」
「それは買収というものでは……?」
「その通りです。私は政治家秘書ですから、スキャンダルを処理するのも仕事のひとつです。」
「面白いことを言うね、忠さんは。」

 軽やかな冗談が交わされ、和やかな雰囲気となる。忠は抱きしめていた腕を緩め、至近で名前を見つめた。
 慈しむような母性を持ちながら、奔放な幼女のような悪戯めいた一面もある名前。そんな彼女を忠は心から愛していた。彼がやわらかな頬へと手で触れると、嬉しそうに名前は掌を重ねた。
 
「その交渉なんだけどね。お菓子と一緒に、またこうして忠さんが会いにきてくれたらそれでいいよ。」
「わかりました。交渉成立ですね。」
「でもさっきの言葉、とても可愛かったから……もう一度言うのは、」
「駄目です。」
「だめなの?」
「はい。」

 おひさま発言はすっかり彼のなかで禁句になったらしい。名前が再び弄ろうと唇を開きかけた時、やわらかな感触がそれを阻んだ。愛しむように一方的に何度か触れ、唐突にそっと離れていく。

「口止め料です。」

 忠は甘やかにそう告げた。稚気をこめたような響きに、名前も笑みを深めていく。
 
「足りないよ、忠さん。これだけじゃ、私は黙らないよ。だれかに喋ってしまうかも。」
「困りましたね。では、あなたが満足するまで……もっと塞がなくては。」

 彼らは戯れのように唇を触れあわせ、やがて真摯に舌を差しこんでいった。疲労の影は互いに薄れ、陽を浴びたように心地良い気分で体温を共有していく。まるで陽射しと影のように寄り添い、ふたりはしばらく離れなかった。




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