愛は忠犬を狂わせる


 菊池忠は、表情の変化に乏しい忠犬のような男だった。神道家に仕えている彼は、主人たる愛之介に影のように寄り添い、基本的には躾られた犬のように与えられた命令に背かない。
 忠は盲従を強いられてはいるが、時には愛之介に忠言することもあった。決して反抗的ではなく、仕える主人に対する心配や気遣いといったものを控えめに吠える。しかし、絶対たる主人には夜中に吠える駄犬にしか映らないらしい。

「犬のくせに。」

 愛之介の罵倒の文句は決まってこうだった。首輪が付いているのに主人に向かって吠えるとは何事だと、忌々しそうに睨みつける。こうなれば、もう忠は何も言えない。更なる意見を言ったところで、傲岸な雰囲気のまま黙殺されてしまう。だから彼はいつも頭を下げ、伏せを命令された犬のように受け入れた。
 躾られた犬は逆らってはいけない。主人の望む態度と働きをするのが当たり前なのだから。

「喜べ、忠。お前に見合いの話を持ってきた。好きな女を選ぶといい。」
 
 ある日、機嫌の良い愛之介がそんなことを忠に言った。それは吠えるのも尻尾を振るのも自由にしていいと、許可を出したことにひとしい。仕事を済ませた夕暮れ時、彼は自室にて複数の写真や経歴書をテーブルに広げ、生涯番う女を選べと忠に命じた。
 断るという選択肢は元より与えられていない。相手は由緒正しい名家や資産家出身の令嬢ばかりで、神道家のより強固な人脈の基礎や財源となるべく選別された女たちだった。華やかな野心と権力欲に満ちているのは、自信溢れる表情から読み取れる。
 忠は特に感情を示さないまま、次々と目を通していった。そうしてある写真を見た時、ひとりの女に興味を示した。

「……この方に興味があります。」
 
 その女は見合いの写真だというのに、全く微笑んでいない。無機質な証明写真のように唇を引き結んでいる。そして静かな反抗のような意志が感じられる、まなざし。この女が欲しい、と忠は一目で焦燥にも似た衝動を掻き立てられた。

「そうだと思ったよ。お前らしい。」

 初めから選ぶことがわかっていた。そんな予定調和の口振りで愛之介は笑った。
 斜陽は美しく、主従関係にある者たちの顔に濃い陰影を落としていく。忠はこれから自身と同じ庭で生涯番うかもしれない女の写真を眺めた。家柄という首輪をつけられているのに盲従はしていない。差し出された手には前脚を出すのではなく、今にも噛みつきそうだった。そんな反抗的な犬の雰囲気を宿した女の名を、忠は胸中でこっそりと呼んだ。名前、と。



 見合いは意外にも順調に進み、忠と名前はすっかり婚約者として打ち解けていた。犬は番うべき相手を見つけると、一途に添い遂げようとする性質がある。彼らはまるで番いのように、行動をともにすることが多くなった。神道家という絢爛な庭で彼らは散歩をしたり、コーヒーを嗜んだり、ささやかな時間を共有していた。

「忠さんがどうして私を選んでくれたのか、今でも不思議に思うんです。」
「不思議ですか?」
「そう。あの頃は政略結婚とかお見合いが嫌で、ずっと反抗的な態度だったから。」

 名前は苦笑しながら当時を振り返る。忠が室内飼いの忠犬だとしたら、名前は外飼いの社交的な犬だといえた。大人しいかと思えば皮肉を交えた返しをしたり、誰に対しても人懐っこいかと思えば軽く噛みついたりもする。つまり名前は忠とは正反対の気質の持ち主だ。そんな彼女との会話はいつも新鮮で、彼は不思議な居心地の良さを感じていた。

「……私にはないものを、あなたは多く持っていました。だから惹かれたのだと思います。」

 彼は静かに答えを紡いだ。家柄や立場に縛られる身でありながら、名前は自分が正しいと思ったことをはっきり主張する。それが忠にはひたすら眩しかった。主義主張など黙殺されてきた彼にとっては、名前の朗らかな笑みを見ているだけで新鮮だった。

「名前さんこそ、私で良かったのでしょうか。」
「もちろん。今では相手が忠さんで良かったと、心から思います。」

 名前もまた、物静かだが確かな愛情を以って接してくれる忠を愛しんでいた。同じコーヒーを飲み、相愛であることを確認するような甘い目線。もしふたりに犬科の尻尾がついていたなら、穏やかに振っているにちがいなかった。

「今日、忠さんは一日お休み?」
「はい。仕事をしようとしたら愛之介様に『たまには尻尾を振ってこい』と言われ、追い出されました。」

 忠の仕える主人は、癖のある気遣いを見せる人物だった。愛之介は忠を犬扱いする上に、発言の撤回など決してしないが時々、褒美といわんばかりに思いっきり甘やかすようなことをする。
 彼が見合いを勧めてきたのは政略結婚を口実にした、忠実な秘書への気遣いだったのかもしれない。結婚するなら自分が好いた女を選んで伴侶にしろ、という彼なりの不器用な配慮。忠はそう考えたくなった。単に神道愛之介という主人は犬の扱いにすぐれていて、飴と鞭の使い方が恐ろしいほどに上手いだけともいえたが。

「厳しいのか優しいのか、よくわからない方ですね。」
「愛之介様は聡明でお優しい方ですよ。私が至らないせいで、不興を買ってしまうことはありますが。あの方ほど優秀なひとを私は見たことがありません。」

 忠は主人がいない場でも、決して不満や悪口は言わない。仕えていることを控えめに、それでいて誇らしげに吠える。まさしく忠犬の鑑のような男だった。

「なんか嬉しそう。忠さんは表情が豊かですね。」

 表情が豊かであること。名前がいつもそう評することが、彼にとっては心からの疑問だった。常日頃から愛想が枯渇しているだとか、表情筋を動かせと愛之介に言われている身である。コーヒーを飲み終わった忠は、名前の評価をそっと否定した。

「……逆ではないでしょうか。表情の変化に乏しいと言われることの方が多いのですが。」
「そう?すぐ顔に出る方だと思うよ。」
「では私が何を考えているか、わかりますか?」
「わかるよ。おかわりのコーヒーが飲みたい。それから、」
「それから?」
「……キスがしたい。当たってる?」

 ご褒美として撫でられるのを待っている。そんな表情で名前は敬語を外し、忠を見上げる。愛しいと感じない方が無理だと、彼は身を寄せた。甘やかな期待をしているのは名前だけではないと伝えるために。
 
「正解です、名前さん。」

 唇でそっと触れ、あたたかい感触を共有しながら、忠は緩やかに目をほそめた。片手を繋ぎ、やがて深く絡まりあうキスに没頭していく。彼らは神道家という庭で戯れ、実に幸せそうに尻尾を振り合っていた。婚約者という首輪すら愛しいといわんばかりに。



「忠、お前は変わったな。」

 政財界の大立者と呼ばれる人物が主催する、立食パーティー。その帰りの車の中で、愛之介はそう呟いた。提供された赤ワインが彼好みだったこともあり、少しばかり酔っていたといえる。舌先も軽やかに、運転席にいる忠へと絡んでいく。

「……私がですか?」
「そうだ。雰囲気が以前と違うのは、女の影響だろうな。」

 街灯と夜色に交互に照らされながら、愛之介は愉快そうに結論付けた。否定の言葉が運転席から返されないことに、更に笑みを深めていく。

「お前が夢中になるほどの女だ。優秀で気遣いもできて、可愛らしい声で鳴くんだろう。今更ながら興味が湧いたよ。」
「愛之介様、それは」
「忠。お前は婚約解消しろ。代わりに僕があの女、名前を娶る。不服か?」

 後部座席で優雅に足を組み、愛之介は自らに忠実な犬を観察する。ほのかな酔いに脳髄を蕩かされながらも、運転席にいる男の動揺と困惑を見逃さなかった。選択肢を与えているようで、与えていない。昔からわざと飼い犬を困らせようとする悪癖が、愛之介にはあった。忠誠を試すような言動をし、どう吠えるかを眺めていた。

─── いいえ。私に意見はありません。

 忠はいつも控えめにそう吠えて、伏せるばかりだった。主人に逆らわない、思考放棄した従順さで。
 今回もそうだろうなと、愛之介は白けたように目元を歪めた。愛した女ですら自分のものだと吠えず、主人に差し出すだろうと。長い沈黙が続くかと思われたが、忠は意外にも早く口を開いた。

「お言葉ですが、愛之介様。名前さん……彼女はとても手がかかる人です。我儘で自分の言いたいことは主張する上に、時間をかなり拘束してきます。彼女のことは私にお任せください。もっと愛之介様に相応しい素敵な女性を私が探します。どうか、考え直していただきたいと思います。」

 静かに紡がれた言葉たちは愛之介の予想を、裏切った。名前は愛之介の相手には相応しくないと主張し、彼女と番うのは自分に任せてほしいと断言したのである。忠犬の初めての反逆は、名前への深い愛ゆえのものだった。

「……犬のくせに。」

 お決まりの常套句を愛之介は告げる。しかしそれはいつもの罵倒というには、親愛をたっぷり込めた響きがあった。

「これだから愛というものは面白い。……いいだろう。名前は忠、お前が責任を持って一生愛するんだろうな?」
「はい。それは必ず。」
 
 忠は確かな意志を込めて、そう告げた。忠実な男の反抗の一噛み。愛は確かに忠犬を狂わせたのである。



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