私の愛しい中心


 誕生日は365日のうち、たった一日だけの特別な日。しかし忠は自身の誕生日に関しては昔からまったく頓着せず、無関心な男だといえた。
 気鋭の若手政治家、神道愛之介を支える議員秘書として抜群の記憶力を持つ忠。だが、それらが自らに向けられることは極端に少ない。
 自身の生まれた日を祝うよりも仕事を優先させ、強制的に休ませない限りは働き続ける。生粋の日本人を体現したような忠実な姿勢に、とうとう仕えている主人から命が下った。

「今日はもう休め、忠。これは命令だ」

 陽が沈んだ早々に下された、強制休養宣言。忠は急にリードを外された犬のような顔となる。

「失礼ながら申し上げます。来週開催される議会の資料作成は、本日中でないと間に合わないかと」
「もう素案は出来上がっているだろう。後は僕が目を通して修正し、清書しておく」
「しかし、それでは愛之介さまのご負担が増えてしまいます」
「いいから任せろ。僕は二度も同じことを言わせる秘書を持った覚えはない」

 愛之介はそれだけ告げると、忠が作成した書類に目を通し始める。謁見の時間は終えたと言わんばかりの、主人然とした面差しだ。忠は頭を丁寧に下げ、主人の気遣いに感謝した。

「愛之介さま……お気遣い、ありがとうございます」
「礼はいい。ちなみに明日は何の日か、知ってるか?」

 上機嫌なまま放たれた主人の問いに、忠は明晰な頭を悩ませた。そして回答を見事に間違えていく。

「……いい夫婦の日、でしょうか」

 彼は極めて真面目に答えたつもりだった。だが、敬愛する主人の機嫌は瞬く間に急降下していく。盛大な溜息と鋭い目線を送られたのは、言うまでもなかった。

「もういい。下がれ、忠」



 叱られた大型犬の表情のまま、忠は自室にたどり着いた。気をつけていても主人の機嫌を損ねてしまうことは度々あり、その度に自省していた。もし彼に大型犬の尻尾がついていたなら、尻尾はしょんぼりと垂れ下がっていたに違いなかった。
 ネクタイを丁寧に解いていると、ふと恋人の顔が浮かんだ。

「名前は、まだ仕事中だな……」
 
 ラインのアイコンをタップする。しかし忠は仕事の邪魔になると悪いと思い、気遣いからメッセージを送らなかった。
 政治家秘書としての仕事は年末にかけて量を増し、名前に会える時間も比例して少なくなっていた。ラインの画面は朝に挨拶を交わしたのみとなっている。

「……会いたいな」

 口からこぼれたのは、恋人との甘い逢瀬の渇望だった。貴重な休みを名前とできるだけ、共有したい。そんな愛情と切望に満ちた言葉を、文字にして打ち込むことが忠には出来なかった。
 名前のフルネームが書かれた画面、空白のコメントボックス。既読表示。朝に忠へと送られたメッセージは『今日も一日お互いに頑張ろうね』という優しいものだった。
 忠はその文字列を改めて見返し、幸せな心地になった。

「そういえば愛之介さまは『今日はもう休め』と仰ったな。つまり明日は照査の日。仕事を完璧に精査し、今以上に励めということか……それなのに、私はいい夫婦の日などと妄言を。迂闊だった」

 彼は急に、すべての謎を解き明かした探偵のような表情となる。政治家秘書に求められるのは、あらゆる状況に対処できる機転と高いスペックだ。忠はシャワーを浴びた後、睡眠を摂った。そして23時頃に目覚めてスーツに着替え、ラベンダー色のネクタイを美しく締めた。

「あと一時間で休みが終わる。次の仕事に備えないとな」

 名前と過ごせる時間は結局、確保できなかった。ラインに通知はなく、メッセージは届いていない。いつもなら愛しい恋人から夕方頃に労いの言葉が送られてくるが、今日に限ってなかった。

「……タイミングが悪いな。私らしい」

 自虐を込めたつぶやきをして、ずっと開いていたラインの画面を閉じる。昔から何事もタイミングが悪く、最善だと思った行動が裏目に出てしまう不器用さ。生まれつきの憂い顔は、満開の微笑みよりも控えめな謝罪に向いている。忠はそんなネガティブなメンタルになりながらも、仕事の準備を丁寧に進めていった。
 そして時計の長針が0時を打つ10分前、控えめなノック音が響いた。こんな夜更けに誰だろうと忠は応対する。

「こんばんは。夜遅くにごめんね。寝てた?」
「……名前。いや、起きていたから大丈夫だ」

 訪問者は名前だった。手には紙袋を提げている。忠は会いたいと切望していた恋人がいる感動よりも、驚きが大きかった。つい業務的な口調になってしまう。

「どうした。急用か?」
「急用って……もしかして、明日が何の日か忘れてるとか?」

 名前はまるで悪戯を仕掛けた幼女のように微笑んだ。それは究極の謎かけをされたように、忠を悩ませた。明日は何の日か。何が正解なのか。
 やがてシンキングタイムに終わりを告げるように、時計の長針が0時へと到達する。

「忠くん、お誕生日おめでとう」

 紡がれたのは、祝福の言葉だった。自身の誕生日という極めてシンプルな答え。ジグソーパズルのピースが一片たりとも欠けることなく収まったかのような、感動。忠は胸の内に込み上げる、温かな嬉しさを確かに感じていた。

「そうか、今日は私の誕生日か……名前、ありがとう」
「どういたしまして。誕生日に疎いのも、なんか忠くんらしいね。これはお屋敷のみんなからのプレゼントだよ」

 名前は紙袋からプレゼントを次々と展開した。プレゼントには主人たる愛之介からの物、使用人たちからの物も含まれていた。いずれも美しくラッピングが施されていて、メッセージカードが添えられている。
 サプライズの連続で驚いている忠に対し、名前は優しく咎めていく。

「律儀にスーツを着てるし……『今日は休暇を貰ったけど、時刻が明日になったら仕事しないといけない』とか考えてたでしょう?」
「違うのか?」
「もう……違うよ」

 生粋の仕事人間の発想に、名前は微笑んで否定した。忠の手を取り、優しく宣言していく。

「私からのプレゼントは明日、一緒に過ごす時間。一緒にスケートしたり、好きなところにドライブしよう。生まれてきてくれてありがとう。……その、愛してる」

 恥ずかしそうに愛を告げ、そっと名前は忠を抱擁していく。柔らかな体温が心地良く、幸福感のままに吐息がこぼれていく。片手を絡め、唇どうしを甘く触れ合わせた。

「名前、ありがとう。同慶に至るとは、このことだな」

 11月22日。菊池忠にとって過去最高の誕生日となったのは、言うまでもなかった。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -