後編:パレハは愛に踊る


 自家製のきれいな天国で育った、仮面を外さない女。
愛之介は名字名前と初めて会った時、そんな感想を抱いた。
 名前は美しく聡明で、立場をわきまえている温室育ちの令嬢。その性質は従順で、目上の人間には決して逆らわない。神道家に子を成すためだけに連れてこられた、お飾りの婚約者だった。
 愛之介は最初、名前に全く興味がなかった。何も関心がないからこそ、すらすらと苦労なく褒めそやすことができた。

「僕は幸せ者です。こんなに美しく聡明な方と、生涯をともに出来るのですから。」

 愛之介は息を弾ませて、熱心に見つめた。もちろん演技だが、これだけで有権者や女たちは充分に彼に蕩ける。しかし名前は一瞬だが、表情を強張らせた。それは直ぐに笑顔になったが、その表情は仮面じみたものだった。

「神道家の妻として恥じぬよう、あなたを支えて、いっそう家名を高めていきますね。」

 模範回答のような返事だった。この女もまた仮面を被っているのだと、愛之介は白々とした思いになる。出会ってから何ひとつとして本心を語っていない。それはお互い様だと、愛想のいい虚飾の仮面を彼も被り続けた。
 サンルームで柔らかな陽射しを浴びながら、翳りがまたひとつ増えたような錯覚を彼は感じた。ファーストコンタクトは実に義務的な、愛もなにもないものであった。



 婚約者となった名前は大人しく賢い女で、叔母たちにもそつなく愛想を振りまき、愛之介には全く干渉してこなかった。彼女に変化があったのは、土曜日の朝のことだった。

「愛之介さん、日曜の夜は空いていらっしゃいますか?夜景が素敵な場所があるんです。連れて行ってくださいませんか。」

 それは、思わぬ誘いだった。名前からデートに誘われたのは初めてのことで、愛之介はその意外さに目を瞬かせた。日曜の夜は愛抱夢として決闘(ビーフ)をしなければならない。彼はすぐに断りの返事をした。

「嬉しいお誘いですが、申し訳ありません。日曜の夜は外せないパーティーがあるんです。」
「そうなんですね。楽しんでいらしてください。」
「埋め合わせはします。僕も、貴女と二人だけで出かけたいですから。」

 社交辞令の微笑みが交わされ、会話が終了する。日曜の夜、という限定された日付指定に愛之介は警戒心を抱いた。
 この女は"S"を知っている。ひいては先程の質問で己が愛抱夢であることを勘付いたのではないか。彼の明晰な頭脳はそんな思考を紡いだ。

「ありがとうございます。いつか、連れて行ってくださいね。」

 そう告げた名前は晴れやかな表情をしていた。演技ではない、純真な言葉。いつ埋め合わせをするか明言してないのに、それを信じる優しい瞳をしている。愛之介はただその様子を眺めていた。もし気持ちというものが泉だとしたら、少しづつではあるが水が湧き始めたようだと、彼は食事の最後のひと口を収めた。
 しかしその意を削ぐようにこの日から、愛之介が家で名前に会う機会は格段に減った。食事を始めとした交流の時間がことごとく合わなくなったのである。偶然と片付けるほど楽観的ではなく、避けられていると気付かないほど彼は暗愚ではなかった。

「愛之介坊ちゃま、お帰りなさいませ。」
「名前さんは?」

 老執事に対し、愛之介は真っ先に名前の予定を聞くようになった。以前は叔母たちの予定を一番に聞いていたことを考えると、大変な変化といえた。

「本日は叔母様がたと外出されています。お戻りは夕方7時頃だと仰っていました。」
「……そうか。予定がつくづく合わなくて、残念だな。」

 そんな言葉が自身の唇から滑り落ちたことに、彼は内心驚いていた。この一週間、同じ家で暮らしていながら名前と会話らしい会話をしていない。愛之介は次第に苛立ちを覚えるようになった。
 "S"の愛抱夢としての顔を知ったにしては、何ら行動を起こさないのも妙だと、彼は自室に足を進める。叔母たちがいないおかげか、いつもよりも彼は快適に過ごすことが出来た。
 ここ一週間、彼は名前だけでなく叔母たちにもほとんど会わない。干渉されることなく、自分の時間をかつてないほど自由に使えていた。

「まさか、彼女が叔母様たちを牽制しているのか?」

 そうとしか考えられない、とほぼ確信めいた考えを抱いた。だがそうするメリットが愛之介には分からなかった。年配の叔母たちは名家出身の上流階級(ハイソ)という肥えた自意識で行動し、神道家の栄華と発展にしか興味のない人種である。婚約者を歓迎するどころか、真っ先に値踏みするにちがいない。まさか、そんな叔母たちと居ることが心から楽しいわけではあるまい。

「……君は何故、そんなことをする。」
 
 愛之介は呟いた。名前は更に愛之介の負担を減らすべく、あらゆるサポートもしていたのである。秘書の菊池と密かに連携して、雑事をこなしていた。まるで少しでも多く、愛之介に自由な時間を与えたいかのように。
 気づけば愛之介の足は、名前の部屋に来ていた。部屋の持ち主が不在なのは知っていて、彼はドアノブに手をかけた。

「鍵をかけていないのか。」

 無用心にも、あっさりと扉は愛之介を歓迎した。名前の部屋はきれいに整理整頓されていた。女性の部屋を物色するのは流石に躊躇われたが、彼はどうしても知りたいことがあった。
 名前は明らかに以前とは変わった。たまに愛之介に会えば柔らかな表情をするようになり、話しているだけで嬉しいのだと瞳で語っているようだった。しかしそれとは矛盾するように愛之介を避けている。彼は名前の心境と行動が変化したきっかけが知りたかったのである。
 意外にも答えはすぐに見つかった。名前の机の上には一冊のノートが置いてあった。外出時に慌てていたのか、無防備に開いた状態である。
 彼はそれを見ることに葛藤したが、やがて意を決して目を通すことにした。その内容は驚くべきものであった。

『愛抱夢のレースを今日、初めて見た。とても恐ろしいのに華麗で魅了されてしまった。』
『もしかしたら愛抱夢は、私のよく知っている人かもしれない。普段の彼とは真逆だけれど、だからこそ真に迫るものを感じた。』

 録画できない代わりに、ノートには愛抱夢の滑りが詳細に記録されていた。その筆致は愛抱夢に強く惹かれ、焦がれているのが読む者に強く伝わってくるほどだ。愛之介は縫い付けられたように目を通していき、やがて日付は先週の土曜日に至った。

『今日、確信した。愛抱夢は私の婚約者のもう一つの顔なのだと。』
『もう一つの顔こそ、彼の本当の姿で素顔にちがいない。私は彼が自由であることを望む。なぜなら、愛抱夢としても、神道愛之介としての彼も愛してしまったから。』
『私は彼にとってただのお飾りの婚約者で、興味など全くないことを知っている。でも、それでいい。彼を少しでも陽当たりの良い地獄から開放することができるなら、私は何だってする。』
『愛している。この気持ちは永久に明かさない。愛之介さんが自由であるために、私は墓場までこの気持ちを持っていく。』

 全ての点と線が繋がった衝撃に、愛之介は背筋が震えた。ガーネットを連想させる瞳は大きく見開かれ、文章の羅列を熱心に追っていく。叔母たちと頻繁に出かける理由も、意図的に避けていたのも、密かにサポートしていたのも。名前の行動は、すべては愛之介の思っての行為だったのだ。
 瞬間、彼の脳内には、ある交響曲が大音声で響いた。曲名はベートーヴェン作の交響曲第5番。日本では『運命』と呼ばれる曲、そのワンフレーズが愛之介を支配していた。

「……名前、君の素顔をようやく見れた。なんて健気なんだろう。」

 日記は最早、熱烈な恋文にしか見えなくなっていた。深く愛されている、という事実は愛之介を瞬く間に充足させた。今の彼の気持ちを泉にたとえるなら、渾々と水が湧き、溢れんばかりになっていくようだった。
 名前の仮面の下はこんなにも健気で可憐であった。その事実に打ち震えながら、愛之介は日記を元の形に戻しておく。
 彼の足取りは非常に軽やかだった。同時に、愛之介は決意する。名前の素顔を知った今、自らも愛想に満ちた虚飾の仮面を剥がそうと。



 名前は予定通り、夕方7時頃に帰宅した。彼女はすっかり疲れ果てていたが、翌日の準備のために行動していた。婚約者のスケジュールを把握している彼女は、これから彼が会食であることを知っている。会うことがない分、できる限りのサポートをしようと足を進めていた。

「名前さん、おかえりなさい。」

 部屋に戻ろうとした時、軽やかな挨拶が名前を出迎えた。フォーマルな紳士服に身を包んだ彼は、いつにも増して柔らかな雰囲気をまとっていた。
 名前は予想外の事態に、思わず目を見開いた。彼が出迎えの挨拶をするなど今までにないことだったからである。

「あ、愛之介さん……、これから会食では?」
「その予定はキャンセルしました。外せないデートが出来てしまったので。」
「デート、ですか。」
「はい。貴女との。」

 愛之介は上機嫌に歌うように告げ、名前をうっとりと見つめる。

「お疲れのところ大変恐縮ですが、僕の部屋でお食事でもいかがですか。名前さんと二人きりになりたいんです。」
「ですが、」
「……僕は貴女の隠していることをすべて知っています。その件で、是非お話したいので。」
 
 内緒話をするように囁かれた言葉は、名前に衝撃をもたらした。断れないことがわかっている、美しい脅迫のような誘い方だ。

「……わかりました。直ぐに準備をします。」
「楽しみにしています。では8時頃に僕の部屋に。」

 名前が頷くと、愛之介は恋する貴婦人を歓待する紳士のように喜んだ。名前の脳内には婚約の破棄、その言葉がリフレインした。隠していたことが今すべて明るみに出て、知られてしまったのだと掌を握りしめた。



 どうせこれが最初にして最後なのだから、と名前は精一杯装うことを決めた。会食に赴くためのドレスを着て、念入りにメイクを施していく。死出に向かうように足取りは重かったが、彼の前では努めて笑顔でいようと名前は決意して、扉をノックした。

「どうぞ。」

 愛之介は扉から入って来た婚約者を見て、思わず目を見開いた。普段の大人しい印象を覆す、華やかなロイヤルブルーのカクテルドレスだった。華奢な首元にはガーネットのネックレスが輝き、その組み合わせは彼女の持つ、静謐とした美しさを際立たせている。

「……美しい、」

 世辞ではなく本心からの賞賛が、愛之介の口からこぼれた。その色彩の組み合わせは明らかに、婚約者たる彼を意識してきたのだろう。短い猶予の中で精一杯の装いをしてきた名前を、彼はこの上なく愛おしく感じた。溢れんばかりの熱情のまま愛之介は、名前の掌を取った。

「名前、と呼んでも?」
「はい。」

 淑女への敬意を込めた手つきに、名前も嬉しそうに触れ合わせる。

「名前。食事の前に一曲、踊ろうか。」

 レコードから流れるのは、ベートーヴェン作の交響曲第5番。愛之介が日頃から好んで聞く曲である。
 彼は名前の腰に触れ、手を絡めてリードしていく。情熱的なステップはスペイン舞踏の一種、タンゴを思わせる。男性優位なこの踊りは、一説によるとパレハ(ペア)の女性をより美しく魅せるために編み出されたとされている。
 
「そのドレス、とてもよく似合っているよ。綺麗だ。」
「ありがとう、ございます。」

 まるで愛抱夢の時のような口調である。愛する男からの賞賛に、名前は一瞬にして表情が華やいだ。

「さて、本題に入ろう。失礼ながら、君の手記を読んでしまってね。君が愛抱夢としての僕を知っていることも、僕の自由を願ってくれていることも、初めて知った。」
「……っ、あれを読んだんですか、」

 名前の表情は動揺、そして羞恥に揺らいだ。もつれたステップを軽やかにカバーし、愛之介は語り続ける。

「とても嬉しかったよ。あれほど真摯で情熱的なラブレターを見たのは、初めてだったからね。……君の仮面の下の素顔がこんなにも可憐で健気だとは、知らなかったんだ。一瞬で心を奪われたよ。」
「それは、違う。……あなたが本当に心を奪われているのはスノーと呼ばれているスケーターでしょう。」

 名前は知っている。彼が愛抱夢として、スノーに心惹かれていることを。

「愛之介さんが私に興味がないことは、わかってます。……だから、こんな風に惑わせないでください。」

 悲しみに満ちた口調で、名前は視線を逸らした。絡めた指を解こうとしたが、それは叶わず逆に深く絡められてしまった。

「……っ、」
「確かに最初は全く興味はなかった。従順で大人しいだけの、お飾りの婚約者だと。でも、今は違う。君を愛おしく思うよ。その仮面も、素顔も。愛しているよ。」

 今、彼らは初めて素顔で本音を語り合っていた。虚飾に満ちた仮面は剥がれ、あるのは情熱に満ちた素顔だけ。

「パレハという言葉があってね。ダンスのパートナーを指す言葉であり、夫婦という意味があるんだ。」
「夫婦、」
「僕は君と名実ともに、そうなりたい。名前、君はどうかな?」

 生涯を誓うパレハとして、名前の唇が甘やかに同意するのを、愛之介は待った。
 ─── 夫婦とは、愛と情熱のまま踊る者たちである。それはパレハが夫婦という意味を持つ国に古くからある、格言だ。彼らはそれを体現しようとしていた。この上なく、真摯に。



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