021




もうそろそろ旅行の準備が終わるという時、一階からお母さんに名前を呼ばれた。私は準備を中断し一階に降りる。

お母さんは玄関に立っていた。
あれ、なぜか背中に悪寒が…。

どうしても持ち上がらない視線は、女の勘が影響しているのかそれとも。

「胡桃子?どうしたの?お客さんよ?」

分かっている。開けられた扉から、お客さんが来たのも、私を呼んだことから、私のお客さんであることも分かる。きっとお母さんの向こうにその人は立っている。
もちろん見なければ解決するわけではないけれど、このワクワクした心を恐怖に侵食されたくはない。

できればこのまま。なにもないまま。

「ねぇ」

終わるわけないのはよく知っている。

いつもより低いその声は、確実に苛立ちを表していた。
それはそうだ。私はずっと視線を下げたままなのだから。

コツコツコツ。玄関のタイルを歩く音。
それは途中でフローリングを歩く音に変わった。近付いてきている。
私の額を冷や汗が伝った。

「ねぇってば」
「な、なんですか」
「顔、見たい」
「いえ、そんな」
「見たい」
「めめ滅相もない」
「歯向かうの?」
「そ、そうじゃないですけど…!」

必死に言葉を探していたら両ほほを手で挟まれ、強制的に顔を上げさせられた。

バッチリと、目が合う。

何しにきたのこの人。
紛れもない、雲雀さんだ。
ちゃんと私服を着た、雲雀さんだ。

お母さんは何を勘違いしたのか「あらあら」と笑いながらリビングに入っていってしまう。行かないで!と声をあげられるはずがない。目の前に雲雀さんがいるのだから。

「なんでそんな顔するの」
「元々、こういう顔でして」
「ふーん。不細工」

なんで突然現れたこの人に精神攻撃を受けなきゃならないの。しかも否定できないから質が悪い。さらに美人に言われるとダメージが大きい。

「な、何しにきたんですかっ」

頭をぶるぶると振るえば、雲雀さんは頬から手を離してくれた。とりあえず一歩下がってから問いかけてみる。

「君に会いに来た」
「な、なにゆえ…!!」
「会いたいと思ったから」
「私に!?」
「そう、君に会いたいと思ったから」

確かに気に入ってるとは言ってくださったけれど、家にまで来られるとは思わなかった。せめてその殺気は消してくださいよほんとに。

「あ、せっかく来てくださったのですが、私は今旅行の準備で…」
「旅行?」
「はい。イタリアに」
「へぇ」
「五日間ほど」
「五日……?」

国名を言っているときは普通にしていた雲雀さんが、期間を言った瞬間豹変した。これは群れを見付けた時の殺気! いつもの殺気に群れを見付けた時の殺気がプラスされている!
確実に相手を咬み殺す雲雀さんが目の前にいる……。

余りの緊張感に唾液の分泌と手汗がひどい。

「あがる」
「え、ちょ!」

どうしてこうなったのかを考えていたら雲雀さんは私の脇を通り、階段を上り始めてしまった。慌てて後を追いかけるが、彼はもう私の部屋にいる。なぜ私の部屋を知っているんだ。

雲雀さんは堂々たる態度で私の寝台に腰かけているのだが、それだけで絵になる。自分の部屋なのに入るのを躊躇っていると「早く入りなよ」と急かされてしまった。
つい「お邪魔します」と言いかける口を閉じる。ここは私の部屋。私の部屋。

「雲雀さん、突然いらっしゃったのでなんのおもてなしも出来ませんよ」
「別に。そんなの気にしないから」
「そうですか…」

私の部屋に雲雀さんがいる。なんだろうこの状況。私は後ろ手で扉を閉めてから旅行鞄の前に座る。

「あの……雲雀さん…」
「なに?」

雲雀さんは既に本を取り出し、優雅に読書タイム。本当に自由奔放。

「私に会いたくて来てくださったんですよね?」
「うん」
「なぜ会いたいと思ってくださったんですか?」
「知らない」

即答だった。余りにも早すぎる答えになにも言えずにいると、彼は本から顔をあげて私を見据えた。

「君の涙を見たときから気になるんだ」
「え、涙…?」
「そう。山本武が飛び降りようとした時の」
「あ、ああ……」

確かに、あの時は取り乱して雲雀さんの前で泣いてしまった。あの涙から私が気になるってどういうこと?説明してくださっているのに、いまいち理解できない。

「君は今どうしているんだろう。誰といるんだろう。どこにいるんだろう。そんなことばっかりで」

それって……。
あり得ないと思いつつも胸が高鳴る。
いやいや、そんな馬鹿な。彼と私はまだ知り合って一ヶ月ぐらいしか…。

「すごくイライラするから咬み殺していい?」
「ほら、やっぱり」

分かってましたよこのオチは。
本を置いて、トンファーを取り出した雲雀さんを止めるのは至難のわざ。気合い入れてかからなきゃ。