姫と蛙 |
記憶も曖昧なほど小さい頃、まだ捨てられる前、私は歌を聞いていた。 家の外から聞こえる、路上で歌う女の歌を。 毎日決まった時間に聞こえるそれが、その頃の私の楽しみだった。 それ以外は辛くて仕方のないことばかりなのだ。 私はあの歌を歌う。 痛みを感じていた頃の私を繋ぎ止めるために。 過去を、消さないように。 忘れないように。 天蓋つきのベッドの上で、今日もあの歌を歌う。 ベルが帰ってくるまで、ずっと歌う。 ベルは私の心に痛みをくれるけれど、彼がいないときは誰も痛みをくれない。だからこうして繋ぎ止めている。 自分を失わないよう。 彼は、こんな私を好きだと言ってくれた。大切にしてくれた。すごく嬉しかったから。 彼が好きだと言ってくれた自分を、私は守りたい。 まだ時々、衝動的に自傷行為をしてしまうけれど、昔よりはずっとまし。 この身体はベルのもの。 もっと、綺麗になりたい。 「うわぁ……広い部屋ですー」 キキィ と音を立て、部屋の扉が開いた。 足音なんて聞こえなかった。 ここに来る人はノックの代わりにこの長い廊下を足音を消さずに歩く。私はそれで人気を感じていたのに。 何も、感じなかった。 「あれ?誰かいるんですかー?」 お邪魔しますー 気の抜けた声でそう断ってから、その人物はこちらに歩み寄ってくる。今度こそ足音が聞こえた。 恐る恐るそちらを向くと、緑色の髪の少年がそこに立っている。 「あ、人」 彼がしまった と呟くのと同時に、その頭にカエルの被り物が現れる。今のはどこからか取り出したものではない。 そうか、この子がマーモンの後続のヴァリアー霧の守護者。幻術使いの少年か。 ベルから話は聞いていた。 絶対に会うなとも。 言い付け通り今まで会わなかった……いや、そもそも私はこの部屋から出ないのだから、会わないのは当然だが、それでも会わずにきたのに。 なのに、まさかあちらから来るとは。受け身では避けられない。 「あなた、誰ですかー?」 「私はチャーラ。XANXUSお兄様の妹です」 「え、ボスの」 少年は無表情の中でも表情を歪める。微かに眉毛が驚きを示した。 似てないと思っているのだろう。それは間違いじゃない。本物の家族ではないのだから。 私もお兄様も、いまさらそんなことは気にしないけれど。 「ミーはフランですー。ベル先輩にこっちの方には来るなと言われたので来ちゃいました」 挨拶を終えたフランは、私の隣に座る。スプリングが沈んだ。 「で」 彼は私を見据える。 一切変わらない表情。 でも確かにそれは悪戯っ子のものだった。 「ベル先輩とはどーいうカンケーですかー?」 そのエメラルドの瞳に飲み込まれそうになる。 どういう関係。 なんでそんなことを聞くのかと疑問を抱くが、別に隠す必要はないように感じた。 「私とベルは夫婦です…」 言い慣れない響きに躊躇いながら言葉を紡ぐ。彼は目を丸くすると、少しだけ笑った。 「そうですかー。先輩にも大切な人がいたなんて驚きですー」 フランは寝台から腰を上げると、私の目元に手をかざした。その手に従い瞼を下ろす。 「面白いことを教えてくれてありがとうございますー。先輩に対する愚痴があったら、いつでもミーの名前を呼んでくださいー。付き合いますー」 では。 小さく言い残したフランは気配を消した。瞼を持ち上げるが、そこに彼はいない。 不思議な男の子だった。 でも、ベルとの約束を破ってしまった。 少しぐらい秘密があっても罰は当たらないはず。この件は内密にしていよう。 |
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