たった一つのお願い

そばにいて

聖川くんは楽屋で泣き出した私に目を丸くした。当たり前だろう。廊下を歩いているときは普通に笑っていたのだから。

「ど、どうしたのだ」

焦った様子の聖川くんは私の眼前に腰を下ろし、様子を伺ってくる。私は自然と流れてくる涙を何度も拭うが、どうにも止まらなくて、ついに拭うのを諦めた。

「名字、頼む、涙の理由を聞かせてはくれまいか?」

優しく問いかけてくる彼に、私は小さく頷く。

「怖かったの…」
「怖い?」

その言葉にまた頷き、ぎゅうっと拳を作る。
聖川くんはしばらく黙ってから、「もしかして収録か?」と聞いてきた。私が肯定の返答をすると、彼はなるほどと呟く。

今日の収録は私の苦手なホラー系の番組だった。この手の仕事は入れないで欲しい旨をマネージャーに伝えたはずなのに、勝手に入れられた。
聖川くんがいるから大丈夫かと思ったけど、やっぱり怖いものは怖い。一応こんな私でもプロだから、外では笑顔を作っていたけど、楽屋に入った途端緊張の糸がほどけてしまった。

「名字は心霊ものが苦手なのか」
「そうなの………合成だとは思ってみても、やっぱり怖いよ……!!」

またボロボロと涙を溢す。聖川くんは嫌な顔ひとつせず背中をさすってくれた。一定のスピードで。一定の力で。だからこそ落ち着いてくる。
本当に彼は優しい。ちょっと融通が聞かないときもあるけれど、やっぱり好きだ。
アイドルの恋、それもアイドル同士の恋なんて御法度中の御法度、犯すわけにはいかない。聖川くんの将来のためにも。だから思いは伝えないけれど、でも二人っきりの楽屋ぐらいなら構わないよね? 彼の優しさに漬け込むようになるけれど、そんなことは言っていられない。
今は、彼を繋ぎ止めることでいっぱいいっぱいだ。

「聖、かわ……くんっ……」

すんっ と鼻を鳴らしてから 「お願いがあるの」と続ければ、聖川くんはなんだ?と小首を傾げた。

本当は抱き締めてとか、手を繋いでとか、そういうことを言おうとしていたのに、いざとなると口からそんな純粋な言葉はでない。もっと回りくどく、誰にも気付かれないような言葉に。

「そばに……いて………?」

私の小さなお願いに、聖川くんは微笑み一つとともに頷いてくれた。
それから彼は優しく私の手を包み込んでくれる。あまりにも優しいそれに、まるで自分が壊れ物になったような気持ちになった。聖川くんはどこまでも無償で優しい。私とは大違い。

「こうしていればよいのだな?」

曇りのない笑顔で問いかけられ、私は途端に惨めになり頷くことしかできなかった。それでも、彼と繋いだこの手は離さない。今はこれだけが、許されない恋が形になった瞬間。だから、いいの。

「ありがとう……聖川くん……………」

何重の意味をまとった短い感謝。
何も分かっていないだろう彼は、のんきに「こちらこそ」なんて言ってくる。
私はなぜかとても恥ずかしくなってきて、そっと視線を下げた。


by アキ