たった一つのお願い

私のために歌って

静まった寮の廊下には私が走る足音だけが響いていた。これだけ探しているのに見つからないとなると、もしかしたら仕事で出てるのかもしれない。

「あ、名前ー!」

ふと自分を呼ぶ声が聴こえたのでそちらを見ると、音也がこちらに手を振っていた。なんだかんだ言って彼と仲の良い音也なら何か知ってるかもしれない。

「音也音也ー!ちょうどいいとこにいた!」

「どうしたの?急いでるみたいだけど」

「あのね、トキヤくんしらない?」

「トキヤ?トキヤなら、」

「音也!」

「あ、トキヤ!」

音也くんを呼び寄せた人は私の探していたトキヤくんだった。彼はなんだか怒っているようで、黒いオーラを纏いながらこちらに歩いてくる。

「ト、トキヤ?なんで怒ってるの?」

「部屋」

「へ?」

「部屋を片付けなさいと言いましたよね?」

「あ、」

どうやら言い付けられた片付けを忘れていた音也を叱りにきたらしい。散々叱られたあと、音也は部屋に走っていった。ふう、とため息をついたトキヤくんがこちらを向く。

「で、あなたは何をやっているんですか」

「トキヤくんを探してたんだよ」

「そうですか。では、私は失礼しますね」

「ちょちょ、ちょっと!そこは 私に何か用でもあるんですか? って聴くとこでしょ!」

ぐいっと腕を掴んで止めると、不機嫌そうに眉を寄せたトキヤくんが私を睨んだ。こっわーい。

「クオリティの低い物真似はやめてください。それに聴かなくてもあなたの言うことくらいわかりますから」

「えっ、それって聴かなくてもわかるくらい私のこと見てるって…」

「は?」

「違いますよね、すみません」

ちょっと冗談言っただけなのに何もそこまで怖い顔しなくてもいいじゃん。そう言ってもまた怖い顔で睨まれるだろうから言わないでおく。

「聴かなくてもわかるのは、あなたが同じことを毎日毎日飽きるほど言いにくるからでしょう!」

「だってー」

「いい加減に諦めてください。断るのも面倒です」

「い、いいじゃんかー!ちょっと歌ってくれるくらい!」

どうして私が毎日毎日トキヤくんを探しているのかというと、そこにはちゃんとした理由がある。

実を言うと私はトキヤくんのことが好きで、それでいてトキヤくんのファン。もし人気アイドルの彼に、アイドルとして名が知られてきたばかりの私が告白したなんて知られたら、誰に刺されるかわからない。だからせめて私のために歌ってほしいと考えた。だってそうでもしないと諦められないというか、一度そう決めたからには成し遂げるまで諦められないのが私だ。

「だいたい、歌を聴きたいならCDを買ってください」

「CDじゃなくて生歌だから意味があるのー!」

「何故ですか」

「そ、それはその…わ、私にもわかんないけど!!」

「は?」

まさかあなたのことが好きで、それを諦めるためですなんて言えない。誤魔化すと余計に怪しまれてしまった。

「とにかく、無駄なことしてる暇があったらトレーニングでもしたらどうです?」

無駄なこと。無駄なことなのかあ。なんか悔しいけど素直に諦めたほうがいいのかな。でもなあ。そう自問自答を繰り返してると、トキヤくんがはあ、とため息をついた。

「本当に面倒な人ですね」

「え?は、ちょ、なに!」

突然私の腕をひいてトキヤくんが歩き出す。なんだか早足気味だし、トキヤくんは足も長いからついていくので精一杯だ。

「ト、キヤくん、もっとゆっくり…」

「特別ですよ」

「へ…?」

「ただし、一度だけです。二度目はありませんからね」

「ほ、ほんと!?ありがと!」

これで諦めもつく。寂しい気もするけど自分のためだし、トキヤくんの歌を聴いて切り替えよう。

「ああ、そうだ」

「っわ、」

突然立ち止まったトキヤくんにぶつかりそうになった。見上げると、いつものように無表情で私を見ているトキヤくんがいる。ん?と思ってそのまま見ていると、トキヤくんはふっ、と綺麗に笑った。

「伝えもしないのに諦めるのはどうかと思いますが?」

「は…?」

「ほら、早く行きますよ」

言葉の意味を理解出来なかった私は、スタスタと歩いて行ってしまうトキヤくんの後ろ姿を眺めていた。

つまり、もしかして。熱を持ち始めた頬を誤魔化すように彼の隣まで走った。



by 蒼