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思えば俺は千鶴について何も知らなかったのかもしれない。
本当に大切な部分は、何一つ。
いつだって、俺は後一歩が遅いんだ。
あの時だって―――
『ねぇゆーたん』
『ん?』
『……ううん、何でもない』
『何だよ?変なちぃ』
『へへ…、そうだね。わたし今日用事があるから、バイバイ!』
『おう、また明日な!』
いつもの様に別れの挨拶を告げた時、千鶴は曖昧に笑うだけで返事をしなかった。
当時の俺は特に疑問にも思わなくて、“また明日”が普通に続くと信じていたのだ。
千鶴がただ辛そうに笑った真意を気付いてやれずに。
翌日、彼女は遠い異国に旅立ってしまう。
千鶴と再会したあの日、今度は側にいて、お前を解りたいと思った。
お前を支えてやりたいと思った。
それなのに、
お前は差し出される手をいつも拒む。
またお前は、俺に背を向けるのか―――?
「はー、とうとう受験モード突入かぁ」
「何言ってるんだよ、よっぽどの成績じゃなければそのまま高等部上がれるだろ」
「あ…そ、うだね」
「…千鶴?」
いつもの帰り道、肌寒さがより厳しくなる中のことだった。
中学最後の大会が終わってから、明らかに様子のおかしい千鶴に気付かないフリをしてはいたものの。
あまりの不自然さに見過ごすのはいい加減疲れてきた。
「いやー、今日も寒いね!ね、祐介!」
「…そのセリフ五回目だぞ」
「そ、そうだっけ」
「あのな…言いたいことがあるならちゃんと聞くから」
「え!?べ、べべべ別に…」
まだシラを切る千鶴に焦れて顔を覗き込むと、右往左往させていた視線が一瞬ハタと合う。
切なそうに歪められた瞳に、何を思い悩んでいるのかと不安に胸を駆られた。
そしてその不安を増長させるかのように、彼女の口から出た言葉は信じがたいものだった。
「…私、高等部には行かない」
「、今…なんて」
俯いていた彼女は、暗い表情だけど決意を固めた目で俺を見ている。
「外部受験する。鎌学には残らない…」
「何で…っ」
言葉の意味が上手く飲み込めなくて、いや飲み込めてはいるけど認めたくない自分の溢れる感情を抑えきれず千鶴の肩を掴む。
その薄い肩は、僅かに震えていた。
我に返って彼女を見れば、今にも泣きそうな小さい姿が映る。
「―――弱い、から」
「弱いって…」
「私ね、傑が好きなの」
頭部を鈍器で殴られたかのような鈍く重い痛みがした。
それは俺にとって、恐らく千鶴にとっても辛い告白。
(……知ってた、)
(知ってたよ、そんなのとっくに)
知っていたけれど、彼女には決して気付いて欲しくなかった彼に対する思慕の念。
心臓を握り潰されたような痛みと困惑に耐えながら、千鶴が絞り出す声を聞いた。
「…っそう、自覚してから…辛くなった…。どこも傑の面影ばかりで、…此処には、傑との思い出が多すぎる…」
「恐い…追い求めちゃう自分が、縋り続ける自分が嫌なの…っ」
苦悩に満ちた様子の彼女に掛ける言葉を俺は持ち合わせていない。
何を言っても嫉妬心の現れにしかならなさそうで、口を開くことすら躊躇う始末。
そうして時間だけがいたずらに過ぎて行く。
傑さんを好きだと自覚した彼女を抱きしめる訳にもいかず、かといって引き留める術もなく、やり場の無い手は宙に浮かんだまま。
けれど一つ確かな思いがあった。
駆は前へ進むために外へ出ようとしているのに対し、千鶴のはただの逃げだ。
やっと気付いた強い想いに戸惑って、受け入れる覚悟が無いだけの臆病な言い訳に過ぎない。
今の状態ではいずれ千鶴はダメになる。
あの笑顔を失うくらいなら、
「…千鶴、お前がどこへ行こうがそれはお前の勝手だ。だけど」
―――俺の恋心はずっと秘めたままで構わない。
「傑さんを言い訳にして逃げるのは止めろ」
―――構わない、から。
「ゆう…すけ」
「好きで悪いことある筈ない。だから胸を張って良いんだ。後退る道じゃなくて踏み出す道を歩け。…いつか堂々と傑さんが好きだって言えるように」
好きだよ。
好きだよ、好きだよ好きだよ大好きだよ。
心の中で想うことだけ許して欲しい。
俺はずっと、ちづるが好きだよ。
血が滲みそうなほど拳を握りしめて、気持ちを隠して笑みを作った。
「千鶴は弱くもあるけど強くもあるだろ。千鶴になら出来るよ。俺はお前を信じてる。
誇りを持て。きっと傑さんも千鶴に好かれて幸せだから」
傑さん、俺はあなたが羨ましいです。
死して尚彼女に想われるあなたが。
多分彼女の心からあなたが居なくなることはないでしょう。
知ってました、千鶴が傑さんに惹かれていたのを。
知ってました、あなたが千鶴に特別な感情を抱いていたのを。
本当に皮肉なものですね。
どうして皆が幸せになる方法がないんでしょうか。
どう足掻いたって、俺も千鶴を諦めきれないんです。
アイロニストの慟哭
(それでも俺は彼女の幸福を願うのです)
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