栄口
「ちょっと俺飲み物買ってくるな。栄口は?」
「俺はいいや、いってらっしゃーい」
まだまだ太陽が青空を支配する夏真っ只中。
暑さに耐え兼ねた巣山が自販機と言う名のオアシスを求めて教室を出ていった。
俺はそんなに暑さに弱いタイプではない為、誘いを断り教室で次の授業の用意をする。
次は数学か…文系の人間には勘弁してほしいな。
その時目に留まったあるクラスメートの女子―――水無月響。
長く纏まった黒髪を高い位置でポニーテールにし、ピンで止めている彼女は至って普通の女子高生に見える。
ただ彼女が真面目な顔をして読んでいる本が少し特別な物であることが、彼女が好奇の的になっている原因だ。
俺はいつものように席を立ち、読書に 没頭中である少女の真向かい―――つまり彼女の前の席の椅子を拝借した。
気配を察知した彼女は一瞬怪訝な顔を寄越したが、正体が分かると表情を緩めてきた。
「あ、栄口」
「オッス水無月。読書の邪魔してごめんな?」
「別に構わないよ、それで?」
「や、今日は何を読んでるのかなって思って」
そう尋ねると、嬉しそうに微笑んで本の題名を見せてくる彼女。
しかしそこに記されていた文字は、今時の女子が好むような携帯小説とか占いとか恋愛小説ではなく。
「今日はねー、『土佐日記』だよ!」
……彼女の愛読書は古典文学だった。
俺と水無月は同中出身だが、阿部同様クラスが違ったため全く接触のないまま、初めて会話したのは高校入試だった。
彼女は阿部と面識があったらしく、三人で勉強していた光景が懐かしい。
俺は極度の緊張のせいで神経性の下痢にかかってしまったのだけれど、あの憎たらしい笑みでからかい続ける阿部とは正反対に、『大丈夫?これ飲んで元気だして!』と彼女は温かいココアを奢って励ましてくれた。
その瞬間から俺は水無月が好き。
いつかは想いを伝えたい、と思って早幾月…。
同じクラスになった今も、日常会話をするだけに収まっている。
「へぇ、土佐日記?また古典かよ」
「あーーっ苦笑いして!これだって立派な物語だよ!?」
俺の得意分野である古典が幸いして話には困らないが、これでは何の進展も望めない。
いつもなら聞きに徹するところだが、今日は少し勇気を出して突っ込んでみる。
「あ、のさ。何で水無月は古典好きなの?」
「………っと、あの、えーーと…」
今まで饒舌だった彼女の口が急に詰まった。
…心なしか顔が赤いような。風邪かな?
「水無月「おーい栄口ー正副部長会議の事で話があんだけど」…阿部…」
体調を聞こうと開いた口は第三者の介入によって阻まれた。
若干無神経な我らが捕手は、恐らく会議に使うであろう資料を片手に教室へ入って来た。
が、俺の側にいる水無月と彼女が手にする本を見ると口角を上げた。
それはあの日の入試で俺をからかったものと同じ、獲物を見付けた捕食者の顔。
本能的なものからか、自然と冷や汗が流れてくる。
「土佐日記…ねぇ。どうした水無月?根っから理数系のお前が最も苦手なの、古典だよなぁ?」
「わぁぁぁぁぁっっバカ阿部言うなぁーーー!!!!」
凄く楽しそうに喋る阿部に食ってかかる必死な形相の水無月。
しかし悪魔はいたいけな天使の抵抗をものともせず雄弁に語る。
「しかもお前が中学の時は文系一つも勉強しなくて赤点常習犯だった気がするんだけど…。高校入っていきなり本読み始めたりして。
どーゆー心の入れ換わりだ?」
「うるさい黙れ腹黒大魔人タレ目キャッチャー!!」
「なぁ栄口、一体コイツに何があったと思う?」
「ちょ、お前それ言ったら本当ブッ飛ばすよ!?」
急に話を振られたことにも、そこまで隠そうとする彼女にも色々合点がいかないが、俺の知りたい事が全て分かるような気がして阿部の解答を待った。
俺の視線を受けて、待ってましたと言わんばかりの阿部は押さえ付けていた水無月の頭を小突いて資料を手渡す。
「"好きな奴の好きな教科なら苦手でも克服したい"…だとよ。
中々可愛いげあんじゃねーの?」
わざとらしく俺の肩を叩いて去っていった阿部の背を呆然と見送り、横目でチラと彼女を見ればすっかり意気消沈した姿があった。
「「………」」
気まずい空気が俺達の間に流れ、じっとりと汗をかいた手が握り締めている資料の紙をふやかしていく。
何も言わないのは、良い方へと受け取っていいのだろうか。
(えぇいっ男なら行け!!)
きっと今までどんな打席の時よりも大きいプレッシャーを抱えている。
心臓はバクバクうるさいのに、でも不思議と腹痛は感じなかった。
「―――水無月、俺、水無月が好きだ。好き過ぎておかしくなりそう」
周りの奴等には聞こえてないみたいだけれど、彼女には届いたようで、元々真っ赤だった顔が耳や首までをも染まらせる。
「さっ…かえぐち!?」
俺も恥ずかしくて顔が赤いだろうけど、視界に入れていたくて水無月を真っ直ぐ見据える。
「つまり…水無月が古典もの読んでたのは…自惚れていいの?」
小さく頷かれた。
少しずつ、緊張が解れていくのを感じる。
「――――俺のこと、好き…?」
「好き…栄口が、すっごい好きだよっ」
赤い顔で懸命に頭を上下させる仕草がとても愛しく、今すぐにでも抱き締めたい衝動に駆られるが、ここが教室だと言うことを思い出し、迷う暇なく彼女に手を差し出す。
「授業、サボろっか水無月」
「うん…えええ!?!?」
話半分に肯定したって了承は了承だ。
さっと彼女の手を掴んで教室の外へ連れ出した。
丁度出るときに鉢合わせた巣山が何とかしてくれるはず。
後ろから「おめでと!」って声がして、また走る速度は早くなる。
走りながら直ぐ後ろで俺に手を引かれる彼女に向かって告げる。
「これからは古典の事だけじゃなくて、もっと色々話そ。
水無月自身のこと、もっと教えてよ。
そんで…俺のこと、もっと知って!」
俺今すごく恥ずかしいこと言ってるなぁと思っていると、右隣に控え目な温度を感じる。
後ろに居た彼女がいつの間にか並んでいた。
「…後ろからじゃよく聞こえないよ、栄口。
だから、これからはずっと隣で聞かせてね!」
水飛沫が光に当たるように、キラキラした笑みを向ける彼女はとても綺麗だったのを覚えている。
掴んでいた手はいつの間にか固く繋がれていた。
等身大の恋の仕方
(一歩ずつでいい)
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