「恋」という感情が、こんなにも人を苦しませるものなら


そんなもの、要らないと思った











「あり?なまえじゃん」


何してんのー?
と、いつもながらのほほんとした空気を纏わせた“彼”に声を掛けられた。
関係者の人たちの迷惑にならない程度の場所で丹さんを待とうと、屋外の吹きさらしを一身に受けていた所である。
およそいちクラブを指揮する監督には見えない彼こと達海さんは、私に近づいてくると一瞬驚いたような顔をした。そして今度は早足で私の前まで来ると、いきなり手を取り歩き出す。掴まれた手の熱さに痛みさえ錯覚してしまい、混乱のまま彼を呼んだ。


「熱…!?た、達海さん具合でも悪いんですか?救急車呼びます…?」

「あのなあ…。なまえの手が冷たすぎるんだよ。何で室内で待ってないの、風邪引いたらどーすんだって。」

眉根を寄せて声を尖らせる彼にこれ以上の言い訳は聞き入れてもらえなさそうだと悟る。否、何だか達海さんは怒っているみたいなので元より反論する気はないが。
そうして私は抵抗することなく、達海さんと一緒にスタジアムへ逆戻りするのであった。彼の目的も考えも何一つ分からないまま。


………どうしようね?









「で?何であんな所いたのお前。」

一階のロビーらしき場所に着いて、まるで刑事ドラマの尋問よろしく向かい合って座っているこの状況。私だけ異様に問い詰められているような気分だ。
ここにカツ丼があれば完璧なのに、と思考を逃避してみたが、今時ドラマの尋問場面でカツ丼が出てくること自体めったにないし、この場にあるのは達海さんが奢ってくれたホットココアとドクペである。現実から逃れようとしても時間の無駄であることが身に染みた。
余談であるがココアは私の手を暖めた後に達海さんの手に渡り、代わりに寄越されたのがドクペである。思わない所が無いわけでもないけど、奢ってもらったので文句は言えない。


「し、試合を観に来ただけです。別に、普通…のことじゃないですか」

たどたどしい返答を喉の渇きのせいだと思い、カシュ、とプルタブを引っ張り缶の中身を飲み込んだ。……やっぱり複雑な味だ、と眉をひそめてしまう。


「ははっ。まぁそーだよな。で?どうだった、新生ETUは」

彼は私の誤魔化しなどお見通しだろうに、話を反らした方向に乗っかった。その意図が読めずに困惑してしまう。


「何ていうか、意表を突かれた感じでした。…上手く言えないですけど、ただひたすら呆気にとられて…」

「ジャイアントキリング」

「え?」

「大番狂わせって意味。俺が大好きな言葉。テストに出すから覚えとけよー?」

「…私からしてみれば、監督であるあなたが何考えてるか全く読めないから余計に大番狂わせなんだと思います」

「嫌か?」

「…いえ、楽しい、です。すごく」


問いかけに対する答えに、しばらく考えてからゆっくりと選んだのは否定の言葉。
彼はキョトンとした顔から一転、お得意のニヒー、とした笑みを見せた。


「だろー?楽しいよな。誰もが予想しなかったことをやってのけた時の、会場のざわめきと驚きに満ちた表情。駆け巡る達成感!たまんないんだよね」

「…けど。…でも……こわくは、ないんですか」



私は怖い。
以前椿さんに、怖くないから大丈夫だと背を押してもらったけれど、身体に染み付いた思考はそう簡単に無くならない。
未知の先に丸腰で挑むなんて、鴨が葱を背負ってるどころか鴨汁が道のど真ん中に並べられているようなものである。
だから予備知識を蓄えておくのだ。何が起きても大丈夫なように、自分を見失ってしまうことのないように。

私にとっての予備知識とは専ら教科書だった。
分からないことがあれば教科書や本を読んで調べて勉強することが出来る。ネット社会と呼ばれる昨今ではインターネットから知識を得ることも容易だ。




けれど。





『なまえちゃん。なまえちゃーん。おかえり!へへ、今日は俺のが早かったね』




これは一体、どういうことだ。
どうして、どこにも、どの書物にもインターネットにも答えなんて載ってないじゃないか。

こんな感情、私は知らない。
どうしてこの胸は跳ね上がる。
どうして彼の言動に逐一振り回される。
どうして彼に対して過剰に反応する。


なぜ、安心感と心地好い緊張感、近づきたいのに離れたい、そんな矛盾した思いが腹の底でせめぎあう。



わからない
分からない
解らない

未知は怖い
わからなければ先に進めない


あなたへの近づき方がわからない


そんな時、コータくんに答えを突きつけられた。

『好きなんでしょ?丹波が』


遅すぎる自覚は大量の感情をもたらし、体内を掻き乱す。私は結局、いつも彼のことしか考えていなかった。思わず立ち眩みそうになる。


「知ろうとして、今日、来てみて、…本当の気持ちがわかって…でも、苦しくなったんです。踏み込もうとした筈なのに、怖じ気付いてしまって…」


彼を想う、自分の気持ちの重さが怖くなったのだ。
中途半端過ぎて嫌気がさす。


温まった指先は再び冷たさを帯び、膝の上で握り締める。血管が浮かび上がるほど強く力を入れていたらしく、今まで無言で話を聞いていた彼にやんわりと諫められた。


「なまえ」

「わかってるつもりです。この感情が丹さんにとって迷惑でしかなくて、これからを妨げる障害になることも、子どもとしか見てもらえないことも、全部ぜんぶ」

「そっかぁ」

「でも、もう、もう隠すのも辛くて、頭がぐちゃぐちゃで苦しくてっ……こんな思いするなら、好きにっなんて、なりたくなかった…!!」

「……ん。そうだな。よく我慢した。お前は強い子だ」


私の両拳をほどいた彼の、細いけれど節くれだった手が頭に被さる。一定のリズムで押し付けられるそれは、私が落ち着くまでずっと繰り返された。



「…『浅芽生の小野を篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき』」

「?」

「百人一首でさ、源等ってやつが詠んだ和歌。意味知ってるか?」

「いいえ…」

「まぁ簡単に言うと『必死で耐えてきたのにもう無理だわー、何でこんなにあの人が恋しいんだーやるせないわー』ってやり場のない恋心を詠んだらしい。なまえそっくりじゃん」


反論しようにも彼の言うことは尤もすぎて口が重く閉じられる。その反応に対して彼は、そんな顔をさせたかったんじゃないんだと付け加えた。


「昔の歌人は身分とか家柄の問題、はたまた距離的な意味で告げたくても思いを伝えることが出来なかった。だから詩にしたんだ。けどよ、なまえ。お前はどうだ?」


ピンとした空気に包まれる。存在感のある声音と、どんな隙も見逃さないと言わんばかりの鋭い視線。その全てを一身に受けると、嘘を吐いても無駄だと本能的に感じた。


「お前は賢い奴だよ。変化する状況に対応する柔軟さ、客観視する冷静さも持ってる。予習ちゃんとやる真面目タイプだろ。
けど、ちょい俯瞰すぎ。人の心を上から眺めたって何もわかんねーよ。真正面から丸裸でぶつかってこその心だろ?」

止しとけよ、自分の心にまで嘘つくの。辛いだけだぞ。
私へ言の葉を紡ぐ彼の目は、まるで父のような慈しみを宿していた。


「幸いにも平和な現代に生まれたんだ。お前らに隔たりはない。あるとすれば溝だ。姿は見える、声も届く。……あと一歩で、世界は驚くほど変わるよ。状況が悪くなったとしても、這い上がればいいだけの話じゃねーか。
少なくともその根性がなまえにはあるって、俺は勝手に思ってる」


そう言って、彼はココアの空き缶を片手に立ち上がる。先程の研ぎ澄まされたような雰囲気とは打って変わって、気だるそうに伸びをする彼をぼんやり眺めた。

トレードマークとも言えるカーキ色のコートを翻し、最後にこう言い残した。



「振り向け。走れ。手を伸ばせ。声をあげろ。掴んだら―――絶対、離すなよ」


去り際に頭をぐしゃぐしゃと盛大に撫でていき、今度こそ私は一人取り残された。静かになった空間では彼の言葉が一層頭に入り込んでくる。

今一度その言葉を反芻してから、口に含んだのは少し温くなって気の抜けた炭酸飲料。




不思議と不味くは感じなかった。



命短し駆けよ乙女
(ひた走れ、恋の路とは戦争也)














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