第10話
白馬が、颯爽と森を駆けていく。
しかし●●●はというと、ひと言も声を発して無い。
ただエドワードの胸にしがみついて、ひたすら硬く目を閉じている。
「なァー、」
「うっ……」
そんな●●●の頭の上から、愉しそうな声がする。
「いつまでそうしてるつもりだ?」
揶揄するような声音も含む。
だけど、そんなことを言われても。
この高さといい、速さといい。怖いものは怖いのだから、仕方がない。
「怖くない。嘘だと思うなら少しでいい。目を開けてみろ」
諭すように促され、●●●は一瞬、逡巡する。
それからゆっくりと、目を開けた。
「よし。そのまま前を向いてみろ」
「………」
上着を掴む手に●●●はぎゅ、と力を込めて、恐る恐る前を向く。
「……!」
そして思わず息を呑んだ。
木漏れ日が眩しい光の中を、風を切って走る白馬。
ずっと遥か遠くの方まで、緑のアーチが続いている。
「す……すごい…」
ようやく声を発すると、耳の後ろに息がかかった。
「な?……嘘じゃなかったろ?」
「……!」
我に返れば、端正な顔がすぐ上にあり、思わずドキッとしてしまう。
チラリと見遣れば、彼は真っ直ぐ前を見ていて。
曇りのない碧い瞳。
風になびく金色の髪。
悠然と馬を操る彼は、本当に凛々しくカッコイイと思った。
そしてそんな風に意識をした途端。
横を向くことも、しがみつくこともできず。
正面だけを見て固まる●●●は、いつしか景色に酔いしれていた。
「…そろそろか?」
しばらく走ると馬がスピードを落とし始めた。
森の中心まで来ただろうか。
キョロキョロ周りを伺うけれど、これといって何もない。
道の端で馬から下りると、エドワードは両手を広げた。
「さ……受け止めてやるから、飛びおりろ!」
下から伸ばされた逞しい腕。
不安は全く感じない。
●●●は、うん、と頷き、差し出された手をぎゅっと握ると
思い切って飛び込んだ。
「……きゃっ」
しがみつく●●●を、難なく彼は抱き止める。
頭の上からクスっと笑う声がする。
「大丈夫か?……随分疲れてるようだが」
「んぅ……なんとか」
ガチガチに固まっていたせいか、カラダの力が抜けてしまう。
「ハハ……なんとか、か。……で、感想は?」
彼が顔を覗き込む。
「感想?!…っあ!…とてもすばらしい景色でした。…気持ちもよかったし…」
「そうか。それは良かったな」
エドワードは、とん、と●●●を地面に立たせ、馬の手綱を木に結ぶ。
戻って来ると指を絡ませ、手を握った。
「ここから少し歩くぞ?」
「……はい」
なんだかちょっと恥ずかしい。
それでも2人は道を外れ、森の中を歩き始めた。
人ひとりが、ようやく通れるケモノ道。
せり出た枝を、エドワードが抑えてくれる。
暫く歩いて少し息が切れた頃。
「見えてきたぞ?」
彼が不意に指差した。
「ん………どこ?」
「あそこだ」
よくよく見れば木々の合間にキラキラした何かが見える。
ほどなくして目的地に到着すると、●●●は思わず息を呑む。
目の前に広がるのは、碧く輝く湖だった。
「……っ!」
「綺麗なとこだろ?」
「え、ええ、すごく…」
雄大な自然を前にして、胸の前で指を組む。
「ここは俺の秘密の場所だ」
「?……秘密、の?」
「ああ。独りになりたい時。ここにくる」
見遣った彼は、湖畔をじっと見ている。
●●●の脳裏に、日々忙しく執務をこなす彼の姿が思い浮かんだ。
―― 彼の背中にのしかかる重圧が、どれ程のものか計り知れない。
だけど、息つく暇もないのだろう。
ましてやもう直ぐ、王になる人。
あの広い城にさえ
独りになれる場所など、どこにも無いのだ。
「人を連れてきたのは初めてだ」
「そ、そうなんですか?」
急に声をかけられ、ハッとした。
エドワードは肩を抱いて「ああ」と顔を覗き込む。
●●●は暗い気持ちを隠すように「そっか」と彼に笑いかけた。
「……っ、」
エドワードは、何故か言葉を詰まらせた。
「お前の笑顔は不思議だな?」
「……ふしぎ?」
かと思うと、突然、思ってもみない言葉を掛けられ
●●●は目をしばたかせる。
「不思議、って…どういう風に?」
じっと見上げて問いかける。
すると、横に立つ彼が、向かいに立った。
ガシッと両手が肩を掴む。
「初めてお前に会った時から感じてたんだが」
「?」
「お前の笑顔を見ていると。…なぜか心が、落ち着く」
とたん、彼の目つきが、僅かに変わった。
手が、頬に向かって伸びてくる。
「…エド……」
「それが何故だか分かった気がする」
「………」
この瞳は凶器だと、●●●は思った。
こんな風に見つめられたら、身動き1つ取れなくなる。
頬を撫でる指先が、さらりと髪を耳に掛ける。
その手を滑らせ、指が耳の後ろに触れた瞬間。
目を伏せるエドワードが、ゆっくりと顔を近づけた。
「……っ、」
「……逃げないのか?」
「…!」
いつの間にか閉じていた目を、ぱっと開けた。
唇が、触れるか触れないか。
そんな距離で、彼は見ている。
「それは……っ!」
まるで魔法が解けたように、胸を押して顎を引く。
なんで逃げなかったのか?問われても、自分でもよく、わからない。
ただ今は、真っ赤な顔を見られないよう、●●●は顔をうつむかせる。
「悪かった…」
「………!」
「もうしない。…だから顔を上げてくれ」
ちら、と上目遣いで彼を見る。
エドワードの顔も、ほんのり赤くなっていた。
「拒絶されると思ったんだ」
「きょぜ……」
「けど、そうじゃなかった」
「…っだから、それはっ……!」
慌てふためく●●●の髪を、彼の手が優しく撫でる。
「なら、しとくんだったな」
「…………え」
「キス」
「……!」
爽やかな顔でそう言われ。はい、そうですね、とも。2度としないでください、とも
言う事ができない。
目を泳がせ、黙りこくる●●●を見て、エドワードはクスッと笑う。
「冗談だ」
「へ?!」
「強引なことはしたくない。嫌われたくないからな」
「………」
そんなことをサラリと言って、彼の手が腕を掴む。
「さ……折角の景色だ。座るとしよう」
「っ、……は、い……」
心臓がまだ、ドキドキと早鐘を鳴らす中、彼のエスコートで腰を下ろす。
挙動不審であろう自分とは裏腹に
エドワードは何ごともなかったみたいに他愛のない話をする。
そうこうするうち、胸のドキドキはいつしか治まり
2人は座って暫く湖畔を眺めつづけた。
「さて、…名残惜しいが、そろそろ戻るか」
そして、湖面がオレンジ色に染まる頃。
再び馬に乗り、さっき来た道を、颯爽と2人は駆けていった。
森を抜け、城の近くまで戻ってくると、リチャードとクルー達が、バルコニーからこちらを見ている。
「兄様〜っ!●●●〜っ!」
リチャードが2人に向け、嬉しそうに大きく手を振る。
「ねえ、兄様と●●●って、絵本の中の王子様とお姫様みたいだねっ!」
リチャードが振り返ってそう言うが。
誰もが口を閉ざしたまま、じっと●●●を見つめる。
そして、得体の知れない不安が
胸に突き刺さるのを感じていた――
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