夏 | ナノ






夏。海、スイカ、花火にプール。一般大衆にとっては最高の夏。だが、受験生にとっては試練の夏。ここで気を抜いてはならない。夏は現役生がこぞって勉強を始める季節だ。元々勉強を続けていたとはいえ、ここで一瞬でも気を抜いたら、そう。殺やれる。
お陰で私は毎日、何かに追われるように図書館で勉強していた。もちろん、隣の大倶利伽羅君も。

「…大倶利伽羅君」
「……なんだ」
「これを、あげよう…私の形見として大事にしてやってくれ……」

ぐふ、と芝居がかった演技で机の上に倒れる。大倶利伽羅君の手の中には、一粒のチョコレート。疲れた時には甘い物だと思いポッケに忍び込ませていたのだ。
既に一粒は私の口の中。甘くて美味しい。疲れ切った頭の中にじわじわとしみわたっていく気がする。

「あー疲れた…もう夜だね。そろそろ図書館しまっちゃう」

例え関係者としてスタッフオンリーの部屋に居ようとも、実際に閉まる時間をないがしろにするわけにはいかない。当然だ。五時には閉まってしまう為、いそいそと片づけを始める。ふと、じっとチョコを見つめる大倶利伽羅君に気付いた。

「もしかしてチョコ苦手だったりした?それは何とも申し訳ないことを…」
「いや、嫌いじゃない」

包装に包まれたチョコをはがすと、ひょいっと口に投げ込んだ。それにぽかんとしたのはこちらである。

「…甘いな」
「そりゃあチョコだからね。逆に甘くないのはやだなぁ」

ブラックチョコや苦い物は昔から苦手だった。子供舌と言われてもおかしくないが、甘い物の方が良いし辛い物だって苦手だ。

「大倶利伽羅君は甘い物どう?」
「…普通だな」
「普通か―!また難易度高い答えを」

リュックを背負って部屋を出る。たわいもない話をしながら、受け付けにいた鶴さんと光忠さんに挨拶して外に出れば、むわりとした夏独特の空気が辺りを包む。見上げた空はもう真っ暗だ。

「おい」

声のした方を見る。疲れが目に見えている感じが、面白くて笑ってしまう。

「帰ろっか。雨、止んでよかったね」

ここは大倶利伽羅君の地元なので、いつも彼はここまで自転車で来ている。もちろん私も自転車なので、いつもなら一緒に自転車を引きながら歩く。とはいえ、今日は午前中は雨が降っていたので、二人そろって歩きだった。午後にはもう、晴れていたけれど。

「勉強どう?進んでる?」
「普通だな」
「ひぇ〜、頭のいい発言…!夏の模試ももうすぐだしね。そしたらあっという間に受験だ」

蝉の鳴く道を歩く。きっとこの暑さを恋しいと思うほどの寒さがすぐに来るのだろう。その頃、私はどうしているだろうか。日本史はちゃんと進んでいるでいるだろうか、英語は、古文は。ふつふつと溢れてくる不安を瞼を閉じる事でぎゅっと押し込める。今、私にできることはひたすらに勉強する事だ。
そんな事を考えている最中。道の向こうから何かが聞こえてくることに気付いた。

「なんだろう。何か聞こえない?」

図書館を出た先の道にいつも通る神社の前がある。毎日静かで、夜に一人で通ろうとは思わないような暗い道なのだが、今日は違っていた。

「わ、なになに。すごい人」

神社に近づくにつれて、人が増えやがてそれが祭囃子の音だと気付いた。角を曲がる手前辺りからちらほらと浴衣姿の人たちとすれ違う。境内に近づけば、辺りは完全に祭りの雰囲気になっていた。

「今日お祭りだったんだ。いいねぇ、受験じゃなければこのまま遊んでいきたかった」
「…騒がしいな」
「大倶利伽羅君、こういうの苦手?」
「好んでいこうとは思わない」

確かにそんな感じ。地元の祭りのようだが神社の境内を全て祭りにしており、そこに連なる道に出店がたくさん出ている。結構大規模なようだ。神社は階段がとても長く、そこを登り切った上で太鼓を叩いているらしい音が聞こえてくる。
人ごみを必死に掻き分けながら、どうにか道を抜ける。神社を過ぎてほんの少し静かな道に出れば、わかれる道まであと少し。

「神社って神様がいるんだよね」
「そうだな」
「あそこには、何の神様がいるのかなぁ」
「………さぁな」

隣を歩く彼を見上げる。凪いだ彼の瞳が何を思っているのか。それがわかるほど私は彼の事を知らないし、彼との関わりを持っていない。正直言って、彼の事を全くと言っていいほど知らない。それを少し寂しく思ってしまうのは、私のわがままだ。

「受験が終わったら卒業かぁ。受験が終わってから卒業まで1年ぐらいくれればいいのに」

そしたら、大倶利伽羅君とも図書館でもっといられるのになぁ。一番言いたいことを心の奥底に押し込める。これを叶えられるかどうかも、やはり私の努力次第なのだ。

「……来年」
「ん?」

大倶利伽羅君の視線はこちらに無い。どこか上を見上げて、交差することの無い瞳がちかちかと光る。

「来年、行くか」

はた。動きが止まる。ついでに脳の動きも止まる。私が足を止めた数歩先、大倶利伽羅君が振り返ってこちらを見ていた。金の視線と交差した瞬間にうるさくなる心臓に、必死に落ち着けと言い聞かせても、出せた言葉は「どこに」という掠れた声だった。

「この祭りに、だ」
「行く…、…ぜ、絶対行く!」

力強く宣言してから、一気に恥ずかしさが込みあげてくるが夏の暑さという事にしておいてほしい。大倶利伽羅君は「そうか」といつも通りに返して、こちらに背を向けて再び歩き出した。じわじわと染み込んでいく喜び。でも、それ以上に出てくるこれは、何だろう。あぁ、何だろう。彼に伝えたい。この思いを。溢れんばかりの、この思いを。

「―――っ、お、大倶利伽羅君!!」

再び大倶利伽羅君の足が止まる。緩慢な動きで振り返った彼の瞳が、私を写す。距離にして5歩。祭囃子が遠く感じる。だというのに、自分の心臓の音ばっかりが大きく聞こえるのだから、嫌になる。

「私、そのっ…!もし、もしもだよ?もしも私が第一志望に受かったら、うぅん、絶対に受かって見せる。受かって見せるから、もし受かったら、」

言葉がうまく出てこない。何を言ってるのかわからなくなってきた。でも言いたい。ぎゅっと目を閉じてから、再び顔を上げて彼を見る。大倶利伽羅君は、私をまっすぐに見てくれていた。あぁ、もう。それだけで、何だか泣きたくなってしまう。

「言いたいことがあるんだ…!!聞いてほしい、えっと、その、どうか、聞いてくれませんか!!」

はぁ、と息を吐き出す。自分の物じゃないくらいに心臓が早く動いている。大倶利伽羅君は、明らかに驚いたような呆けたような表情をしてから、唐突に目の端をゆるりと歪ませた。

「…あぁ、聞いてやる」

ぶわりと喜びが溢れてくる。何もやっていないというのに、泣いてしまいそうでそれが逆に面白かった。

「ありがとう、嬉しい…」

大げさだと大倶利伽羅君は言ったけれど、私にはそうも思えない。言葉を聞いてもらえるって凄く嬉しい事なんだ。言葉が届くってとても幸せな事なんだ。大倶利伽羅君に声を掛けた女の子は、その声は確かに大倶利伽羅君に届いていた。それと同じように、私も今、大倶利伽羅君に声が届いている。それって、なんだか、軌跡みたいじゃないかな。ううん、もしかすると、本当に軌跡かもしれない。

「すごい、私今軌跡を体験してるんだなぁ…」
「…アンタは時々わけわからない事を言うな」
「そうかなぁ。そうかもしれない」

夏祭りなのに行く事なんかできなくて、お互いに土日なのに制服で、顔は疲れ切ってて夏の暑さにやられてる。それでも、この瞬間私は確かにきらめく夜空に軌跡を見た。



:::




「うーーーん、成績上がらないなぁ。大倶利伽羅君は?げっ、B判定…頭良い人怖いよ〜」
「人のを覗くな」

平日、図書室にて。夏明けの模試が返ってきてはため息をつく。風も少しずつ冷たくなってきて、何となく心細さを沸き起こす季節なってきてしまった。模試の結構自信あったところもズタボロ。ちょっとだけ涙が出た。目の前の人の模試の判定表は恐ろしいことになっていたので、もう見るのはやめておこうと思う。

「…ねぇ大倶利伽羅君」
「…」

物理を解き進める彼の視線が止まる。あ、申し訳ないことをしてしまった。でも、ここで言葉を止めたら余計に申し訳ないので、そのまま続ける。

「大倶利伽羅君のやりたい事って何…とかって聞いても平気?」

とうとうシャーペンの動きが止まり、慌てる。彼の勉強を邪魔したいわけではないのだ。

「ごめん、言いたくなかったら全然良い。ちょっと気になったってだけだから。ほんとに、うん。勉強をどうぞ」
「守りたい奴がいる」
「へ」

じっとこちらを見る瞳はぶれない。くしゃりと知らぬ間に成績表が依れる。だけど、私はそれに気づかずに大倶利伽羅君の瞳を見る事しかできなかった。引き込まれそうなほどにまっすぐな視線。
守りたい人。彼が守るべき、彼に守られるべき、人。
心臓の辺りが痛くなる。自分で聞いたくせに。その答えが自分の望む物じゃなかったからって、これはあんまりにもあんまりだ。きっと数か月前だったら絶対に教えてくれなかった情報を彼が教えてくれたんだ。むしろ喜ぶべきことだろう。そうだ、喜ぶことだ。彼の、やりたい事が知れた。あぁ、嬉しい。

「…そっかぁ、いいね。何だか、ロマンチックだ」

ぐしゃり。手の中の成績表が破れた。



:::



「それで、僕の所に泣きついてきたのかい」
「泣きついてないじゃないですか。単純にいつも通り休みの日に朝から勉強しに来ただけです」
「ふぅん。最近図書室によってもすぐに帰るって聞いたけど」
「は!?お、大倶利伽羅君がそう言ってたんですか?!」

光忠さんは笑って頷く。「あーーー」と意味のないうめき声を上げながら机に頭をごつんと載せる。罪悪感と同時に、大倶利伽羅君が私の事を話していたっていう嬉しさが沸き起こってくるから、本当に最低。自分で避けてるくせに。

「ほんと最低…」
「そうだね。向こうからしたらわけわかんないだろうしね」
「あぁー傷口に塩を塗る行為だ…」

ちなみに鶴さんは今きちんと仕事の最中である。光忠さんも単純に仕事の合間に来てくれただけだ。でもそれが、私にとっては酷く嬉しい。

「はーやんなきゃ」

起き上って勉強の続きをする。それに光忠さんは「おや」と肩眉を上げた。

「僕がいるのに勉強を再開するのかい?」
「何たって受験生ですから」
「意識高くなったね」

そりゃあもう。胸をふふんと張ると、光忠さんの目元が一気に柔らかくなる。その明け透けな優しさが嬉しくもあり、むず痒くもあり。

「ぐだぐだ悩んでる時間が勿体ないですしね。まずは受験が終わってから考えようかと」
「うん。それが良い」

私の頭を撫でると扉に向かう。どうやら休憩は終わりらしい。自分で言いながら思った。そうだ、何も今悩む必要は無かった。今はとにかく目の前の受験に集中しよう。それで全部終わったらもう一度聞こう。そうだ、それが良い。納得してしまえば、大倶利伽羅君になんて失礼な事をしてしまったんだろうと、再び罪悪感がひしひしと起き上ってくるが、今はそれすら押し込めて英単語帳と向き合う。…いや、でも本当にひどいことをしている。

「それじゃ、頑張ってね」
「はいさー」

誰もいなくなると部屋に一人なので、思う存分暗記に声を上げて取り組める。書いて覚えるだけよりも、書きながら声を出した方が効果は高い。徐々に覚えてきてはいるが、なんといっても数が多い。最初の方にも言ったが、私は暗記が得意ではない。だが、こうして勉強を始めてみると暗記とは本当に長く、時間の掛かる行為なのだと知った。一日36時間あっても足りない気がする。

「emigrate…移住する。Sooth、な、なだめる…disregard、無視する。ぷ、ぷらんぐ…ぷらんぐ…………ぷらんぐ…?」
「なだめる」
「はあっうぇ!?」

びっくーー、と体を震わせて起き上らせる。後ろを向くと間近に大倶利伽羅君が屈んで立っていた。その顔の近さに、余計にびっくりする。恐ろしい程に早くなった心臓に、熱の集まってくる顔。どれもこれも、恥ずかしさを助長した。

「お、大倶利伽羅君…おはよう」
「もう昼だが」
「大倶利伽羅君が来るの遅いからじゃん。私結構早くから来てたよ?」
「知ってる」
「知ってるって」

大倶利伽羅君は移動すると私の隣に座ってくる。一人分は空けた状態。大倶利伽羅君はがさごそとリュクの中から教科書やテキスト類を取り出して、テーブルの上に置く。彼はいつも先にこれらを出してから筆箱を出す。ふつう逆だと思うのだけれど、彼にとってはそれが普通なのだろう。

「昼前からここには来ていた」
「え?」
「アンタが避けてるからな」

俺を。
切れ長の瞳がこちらを向く。次はアンタの番だと言っているような気がした。改めてしっかりと大倶利伽羅君と向き合って、頭を下げる。

「避けてました。確かに。ごめんなさい、謝る。不用意に傷つけたよね、ごめん」
「別に」
「うーん、それはそれで…。まぁいいんだけど」

頭を上げながら笑う。彼の瞳は揺らがない。ただ、その瞳の奥に揺らめく熱を見てしまう気がして、視線を逸らした。

「あ、えーと、あのね、避けてた、理由、なんだけど。その」
「守りたい奴」
「あ、はい。それです。…もしかして」
「今、光忠から聞いた」

マジですか。光忠さんの良い笑顔が頭に浮かぶ。タイミングが良いと思ったんだよなぁ。こういう事かぁ。じゃあ、今まで大倶利伽羅君の隣には鶴さんがいたのだろうか。うむむ、鶴さん、羨ましい。て、そうじゃない。

「私から聞いた話なのに、ほんとごめん。ちょっと色々気になっちゃって。ほんとごめんね」

そろそろと視線を大倶利伽羅君に向ける。きっといつもの穏やかな表情なのだろうけれど、それでも見るのを何となく恐れた。どこまでも、私は臆病で狡い。

「そうか」

ハッとする。視線の先。大倶利伽羅君の表情。余りにも柔らかくて穏やかで、優しい。そこには安堵を滲ませる瞳がそこにあった。

「…っ…」

あぁ、私はなんてことをしてしまったんだ。今ここにきて、ようやく事の重大さを理解した。私は彼を不安にさせてしまったのだ。どこまでも、彼の優しさに漬け込んで、彼を傷つけたのだ。彼を置いて避けるなどあってはならないのに。ざわざわと心が波立つ。罪悪感で潰れそうだ。

「ごめん、本当にごめん…!」
「もう、いい」
「でも…!」
「アンタは…」

言葉を遮られて、続く彼の事葉を待つ。じっとこっちを見る瞳は、変わらず優しい。
ふいに、その視線が逸らされた。

「いや、忘れろ」

ぐっと奥歯を噛み締める。彼の不安も、苦しみも私じゃ取り除く事なんて出来ない。でも、それは『まだ』できないと言うだけだ。

「大倶利伽羅君!」

がっと肩を掴んで無理矢理視線を合わせる。大倶利伽羅君の表情は変わらない。まるでこうなるとわかっているようだ。いや、私もこうなるとわかっていた筈だ、だって以前だって、こうして。

…………、………以前?

「以前って…」

ざざ、と頭の中にノイズがかかる。

以前って、いつだっけ。

「おい!」
「っえ、あ、」

ひくりと喉が鳴る。私が肩を掴んでいた筈なのに、気付くと彼に肩を掴まれていた。

「おい、わかるか。ここがどこか、わかるか」
「…ここは、えっと、」

日本家屋。見たことある。そうだ、私はここに毎日のように通って、それで、皆と話して、それで、それで。

「…ここは、図書館で」
「あぁ」
「受験勉強をしていて」
「…」
「それで、大倶利伽羅君と話してる」
「そうだ」

そうだ。そうだよ。そうだったはずだ。あぁ、でもこの状況にも覚えがある。鶴さんと光忠さんの時だ。三回目。だが、私の肩を掴む彼の顔には焦燥が溢れ出ていて、よくわからない既視感など一瞬で霧散してしまった。

「大倶利伽羅君?だいじょう、」

ぶ。最後の一言が隠れる。なんでって、彼が力強くこちらを抱きしめてきたからだ。最初はどういう状況かと焦ったが、徐々に彼の焦りと安堵を受け止めた。今のやり取りで、私は彼に恐ろしい思いをさせてしまったのかもしれない。ゆるゆると背に腕を回して、背中を摩る。おかしいなぁ、やっぱり懐かしいと思うけれど、それが何なのか全くわからない。

「…アンタは、何も考えるな」
「おおう、受験生になんて事を」
「絶対だ」
「…う〜ん、大倶利伽羅君が何に悩んでるかわからないからあれだし、大倶利伽羅君がそういうなら考えたくないのだけれど。でも、そうは言ってもきっと私の事だから考える事は考えてしまうよ」

いや、本当に何について考えてはいけないのかわからないけれど。それでもできない約束はするべきじゃない。きっと私は無意識にでも、その事を考えてしまう。

「でも、その事を考えて悩んで悩んで、それを乗り越えたいと思う」

なんて、クサいかな。少し恥ずかしくなって何も言えなくなる。向こうも何も言わないので、傍から見たらどういう状況かと疑われる場面だろう。でも不思議と落ち着く。ずっと、こうして貰っていた気が、しなくもない。あぁ、本当によくわからない。

「…なら、必ず乗り越えろ」

ぽつりと耳元で呟かれたその一言で、彼が色々な葛藤を乗り越えてくれたのだろうかと邪推してしまう。そんな事、わかりはしないけれど。でも、それで彼の不安が少しでも取り除けたらいいのだけれど。

「うん。絶対乗り越えるよ。大丈夫。私って意外と強いんだよ?」
「あぁ、知ってる」

ぱっと離れて、彼は部屋を出て行ってしまった。それを呆然と見送って、鶴さんが団子を持って入ってくるまで、私は暫く何もできなかった。


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