梅雨 | ナノ
「じゃあ次。ここ。意味は?」
「えぇと、理想的、とか好ましい?」
「うん正解。さすがだね。あー…そろそろ休憩にしようか」
「おっ、光忠。今日のおやつは何だ?昨日はパウンドケーキだったろう。俺は今日は和菓子の気分なんだが」
土曜日の午後。いつもの学校の図書室とは違う、市の図書館の所謂スタッフオンリーの1室。冷暖房完備。小さな台所もある。そんな素敵な図書館は私の地元ではない。そこで私は、柔らかくもなく硬くもないソファーに座って勉強を教えて貰っていた。
隣に座りながら教えてくれていた光忠さんは、乱入してきた白い人にぞんざいな瞳を向ける。
「今日のおやつは残念ながらショートケーキだよ。ていうか、そろそろ鶴さん太ってきたんじゃない?おやつ控えようよ」
「光忠は面白い事を言うなぁ!俺は食べる事が大好きでな。止めろと言われても止めないぞ」
「知ってるよ、もう。ちょっと待って、おやつ取ってくるから」
光忠さんが立つことによってソファがゆっくりと動く。私の頭を優しく撫でて、光忠さんは奥の方へと消えていった。光忠さんにおやつを強請ったその人は、そこに入れ替わりのように座る。
「今日はショートケーキだとな。残念だ。だがきっと明日は和菓子になるな」
「じゃあ明日は緑茶だなぁ。あ、鶴さん。これ、読み終わっちゃいました」
ソファーの端に置いたバッグの中から一冊の本を取り出す。鶴さんと呼んだその人は「早いな」とどこかニヒルに笑った。
「面白くて。テスト期間だから勉強しなきゃってのはわかってるんですけど」
「そうさなぁ。勉強出来るときにしておくべきだな。何たって、人生は一瞬だ」
「これっきりにします」と言えば、それがいいと笑った。この人はよく笑う。それが、知り合って初めて知った事だ。それに釣られて私も同じ位笑っている。
「ほら、おやつ持ってきたよ。二人とも、テーブルの上片付けて。一旦教科書も閉じちゃおう」
二人揃って返事をして、ソファーと同じ高さのテーブルの上を片付ける。片付ける、と言っても私の教科書だけなのですぐに終わる。
「はい紅茶。鶴さんは緑茶ね」
「ありがとうございます」
「あぁ、ありがとう」
暖かい紅茶の入ったマグカップを受け取ると、掌に温もりが伝わる。光忠さんもソファーに座れば、おやつの時間が始まる。
「他の科目はどう?」
「んー…やっぱり日本史が難しくて」
「そうは言っても一般入試で行くんだろう。それもできないとな」
「うっ、わ、わかってます」
間に挟まれて縮こまりながら紅茶を飲む。じんわりと喉を通る暖かさに、思わず息をつく。ここに来て、こうして勉強するのも随分なれた。
「あぁ、雨降ってきたね」
窓に目を向ければ、線のように細く白雨が静かに降っていた。光忠さんが立ち上がる。
「看板とか仕舞ってくるよ。ゆっくりしててね」
返事をしながら頭の中で、きっと今頃走って向かってくる彼の事を考えていた。多分自転車だから、濡れてしまうかもしれない。
朝に弱いらしい彼は、土日はいつも午後から来るのだ。そして丁度そろそろ来る時間。今降り出したからきっと濡れてしまう。あぁ、自分はタオルとか持ってきていただろうか。…持ってないな。教科書以外持ってきてない。自分の女子力の低さに愕然とする。半ば諦め気味で窓を見ていれば、唐突に頭に何かを掛けられた。
スルリと引っ張れば、それがタオルだとわかった。
「そら。さっさと迎えに行ってやるんだな。どうせタオルなんて女子力高い物、持っちゃいないんだろう?」
「持ってないですけど。確かに持ってないですけど!」
渡されたタオルを持って部屋を出る。だが、出る瞬間に「あ」と思い出して、ソファーに座るその人に声をかけた。
「鶴さん、タオルありがとう。助かりました」
相手は、こちらを振り向かずに手だけ振っていた。
廊下は風なんて無いはずなのに、部屋の中とは違う温度が私に纏わりつくのが分かった。ここを歩くのにもだいぶ慣れた。慣れた、というと少し語弊がある気がする。どちらかというと…、…そう、馴染んだ。この図書館に馴染んだというのが、しっくり来る。
初めて来た時の事を思い出す。まだ2ヶ月経っていないというのに、どこか慣れた感覚があるのは、ここが和風で作られているというのもあるのたろうか。
四月の終わり頃に私はこの図書館に初めて来た。
「大倶利伽羅君はテスト期間どうするの?」
図書室の机に向かい合って本を読んでいる時、ふと気になって彼に尋ねた。
初めて出会った日から大倶利伽羅君は、学校の図書室に2、3日おきに来るようになった。向かい合って静かに本を読む。ただそれだけの行為が、私の生活リズムの中に組み込まれかけてきた、そんな時。
本を読んでいた視線だけをこちらに向けて、私の質問の意味を考えているようだ。
「あ、えっと、テスト期間になると図書室ってすごいうるさくなるの。皆ここで勉強するから。だから私は家とか行くんだけど」
「…図書館は」
「地元の?ちょっと家から遠くて。バスの乗り継ぎが面倒だから」
私は学校までを自転車で来ている。その帰りに図書館があればいいのだが、生憎それは山を二つほど超えなくてはならない。さすがにバス無しでは辛い。だが、そのバス代が勿体ない。雨でもなければわざわざバスに乗ろうとは思わない。学生の財布は常に世知辛いのだ。
「なんて言っても、家でも集中して勉強できないんだけど」
笑えば、少し思案するように大倶利伽羅君が視線を横に流した。それから、ゆっくりと口を開く。
「…なら、俺の方に来るか」
はた、と頭の中で思考が止まった。
「俺の方って?」
言葉を反芻して尋ねれば、常通りの穏やかな声のまま、彼は答えた。
「俺の、地元の図書館だ」
案内してやる。それだけ告げて、彼はすぐに視線を本に戻す。それから一言「行くか?」とだけ。
「い、行く!!」
前のめりに力強く頷いて、そうして次のテスト期間の始まる月曜日、大倶利伽羅君の地元の図書館に来たのだ。
初めてこの図書館を見た時の感想は「大きい」だった。私の地元のとは比べ物にならない大きさに、和風の旅館のような風貌。市の図書館でこんな所があるなんて心底驚いた。だが、何よりも驚いたのは大倶利伽羅君が当たり前の顔してスタッフオンリーの扉を開けていくことだ。
ずんずんと進んでいく大倶利伽羅君の背を、私は慌てて追いかけるしか出来ない。そうして、何個目かの扉を超えた先、一つの部屋に当たった。
着いた先の部屋に、今じゃ顔馴染みとなった光忠さんと鶴さんが居たのだ。ここの図書館司書である二人は、大倶利伽羅君の幼い頃からの知り合いらしい。
そのままあれよあれよとそこで勉強し、流れで教えてもらい、勢いで毎日来るほどになった。とはいえ、平日は学校の図書室があるので来る必要は無い。だから、私がここに来るのはもっぱら土日だ。
この2人(大倶利伽羅君もだが)とても頭が良く、理系文系なんでもござれの完璧超人。何でも、国立大学出身らしい。私立の文系大学狙いの私からしたら、恐ろしいの一言だ。数学とか出来る気がしない。理系に進む大倶利伽羅君にも同じ感想を抱くのだけれど。
そうしてもう1ヶ月半ほどだろうか。毎週末ここに来るのが当たり前となってきた。なんだかんだこの生活は私にとてもよく馴染んでいると思う。
思い出に記憶の糸を手繰らせていると、図書館の中央玄関についた。そこで何かを話す光忠さんと大倶利伽羅君が居る事に気付く。大倶利伽羅君の少し長い髪から、ぽたぽたと水が垂れている。思わず、抱えるタオルに力が入った。
「大倶利伽羅君、光忠さん」
駆け寄りながら呼べば、二人の視線がこちらに来る。光忠さんが大倶利伽羅君に何かを言って、するりとその場を退いた。何でも、暖かい紅茶を煎れて待ってる、との事らしい。それを見送りながら、大倶利伽羅君にタオルを手渡す。指先だけが触れた。少し、冷たい。
「めっちゃ濡れたね」
「…自転車」
「あぁ、そりゃあ濡れちゃう。風邪引かないといいんだけど」
頭をガシガシと拭く姿は、年相応の男の子に見える。ある程度拭けた所で、部屋に行こうと足を進めた。開閉の激しい入口付近に居たら、本気で風邪を引いてしまう。
「てるてる坊主でも釣るそっか。そしたら明日には止むかも」
先ほど来た道を通る。大きな窓がずっと続くこの廊下は、外の静けさと暗さと相まって、どこか不思議な雰囲気がある。
「あ、でも大倶利伽羅君雨好きなんだっけ。じゃあ、明日も雨でいいや」
ガラス張りの窓に、私と大倶利伽羅君が写るのが見える。彼の視線は前を向き、こちらに来ることはない。
タオルを首から下げた彼は、まだ濡れていることもあってか、言い表し切れない冷たさを放っていた。触れたら溶けるんじゃないか、なんておかしな事を考えてしまうほど。
「ただいまー…ってあれ?いない」
部屋に戻ると、二人共居なくなっていた。机の上に置かれた二つの紅茶だけが、湯気を立てて存在を示している。
「どうしたんだろう…」
「そのうち戻ってくるだろう」
大倶利伽羅君の言葉に「それもそっか」と納得し、ソファーに座る。先程しまった教科書を取り出している間に、大倶利伽羅君も隣で勉強を始めた。大倶利伽羅君は理系なので数学、私は日本史だ。
「おい」
「んー?」
私は暗記物は少しずつ少しずつ覚えていかなくてはならないし、そこまで記憶力がいいわけでもないので、毎日が戦争状態と言っても過言ではない。お陰で日本史や古文の暗記をやる時、いつも返事がぞんざいになる。はっきり言って半分以上聞いてない。だから、今回もほとんど聞いてなかった。
「アンタ、大学どこ目指してるんだ」
「んん、それがはっきり決まってなくて…行けたら○大」
そう答えてから、ハッとした。今までどこの大学に行きたいなんて、担任にしか言ったこと無かった。だって、恥ずかしいから。皆に「高望みすぎ」と笑われるのも、落ちた時に「ほらね」と言われるのも、全部。だから今までこの話題をさり気なく笑って避けてきた。だと言うのに、言ってしまった。
隣の彼は何て言うだろうか、笑うだろうか、内心で馬鹿にするのだろうか。自意識過剰だとはわかってる。それでも、そんな風に思われたくなんてなかった。そう思われるくらいなら、何も言わず何も知らないままで居たかった。嫌な音を立てて心臓が鳴り始める。冷や汗と共に、彼の言葉を待った。
「そうか」
ぽかんとした。視線だけで隣の彼を見ると、彼は首ごとこちらを向いていた。その視線の優しさに何かを言おうとした喉は詰まってしまう。
「アンタなら行けるだろう」
それだけ言って、彼はまた数学の問題に取り掛かる。私にはわからない、数Vの問題。
胸に何かがたまっていく感覚がして、私は思わず日本史の教科書から目を逸らした。ゆっくりと、ゆっくりとコップに水が溜まっていく。それは酷く心地よくて、優しくて暖かい。でも、この水滴が溢れてしまったらどうしたらいいんだろう。溢れた水滴は、どこに行くのだろう。どこに流したらいいのだろう。いつか捨てるしか無いのだろうか。…無性に、泣きたくなった。
「…大倶利伽羅君は?どこ狙ってるの?」
「…○大」
話の話題として振っただけだったのに、思わずあんぐりと口が開いた。てっきり彼は国公立を目指すものだとばかり思っていた。
「なんで?大倶利伽羅君ならもっと上目指せるでしょ」
「やりたいことがそこでできる。問題ない」
「なるほど。すっごいなぁ…」
私の素直な感嘆に、大倶利伽羅君が訝し気な視線を向ける。彼にとってはなんてことはない一言なのだろうけれど、私にとってはすごい事。
「私、特にやりたい事なんて決まってないから。文系で行ける大学ってどこかな〜ここだぁ〜じゃあここ目指しとくか〜って感じで」
だからすごい。そう笑うと、大倶利伽羅君は緩やかに瞳を柔らかくさせる。その瞳の奥に、揺らめく熱を見た気がして咄嗟に視線を今度は教科書に戻した。
「私もいつかやりたいことを見つけたい」
「…焦る必要はないだろう」
「そうかなぁ。でも気付いたら高3だよ。人生ってほんと一瞬」
きっとこうして大倶利伽羅君と話したことでさえ、いつかは思い出になる。中学の頃に読んだ本が、もう既に過去のものになっているように、色あせたフィルムへと変わるのだろう。それは、何となくとても寂しい気がした。
「んん、どうせなら高校も六年くらいあればいいのに」
「それは…長いだろう」
「そうかな。そうかも」
笑うと、向かいの窓から雨が強くなっている事に気付いた。先程まで静かな雨だったというのに、今じゃ嵐の様だ。帰れるだろうか、少し不安になる。とはいえ、時間は平等に流れるもので話した分の勉強量を取り戻さなくてはならない。二人そろって教科書と向き合い直す。日本の歴史は、中学の範囲とは違って大学受験は一気に増える。それこそ倍どころの話では無い。
さぁさぁと振り続ける雨に、ぺらぺらと教科書の捲る音。それからシャーペンの走る音。そのどれもが、この空間の静けさを逆に助長しているように感じる。時間は、ゆっくりと流れていった。
:::
平日の放課後。そろそろ本は禁止だと、自主的に縛りをかけて勉強を初めて数ヶ月。それでも毎日図書室に向かって本を読まずに勉強しているのだから、習慣とは恐ろしいものだ。
「あ、大倶利伽羅君。今日はここで勉強するの?」
ガタリと無言で椅子を引いて座った彼に、何となしに声をかける。ちらりとこちらを見て、すぐにリュックから教科書を取り出したのを見て、私の言葉の肯定だとわかる。
そこからはもう、無言の時間。お互い目の前の問題を倒すのに精一杯だ。次に話すのは、最終下校のチャイムがなった後だろう。
―――そう、思っていたのだが。
「大倶利伽羅君、少しいい?」
鈴のような声だと思った。その声のせい(と言っては悪いのだが)でぷつりと切られた集中力に、ふと顔を上げれば大倶利伽羅君の隣に女の子が立っていた。それも、可愛い子。どうやらこの子が声をかけたらしい。
「あの、少しだけ話があるんだけど…今いいかな…?」
頬を赤らめていかにも緊張してます、といった風貌の少女。上履きからして同い年とわかる。
あ、これは。
慌てて顔を下げて何も聞いてません風を装う。実際、そんなに聞いていないし。
大倶利伽羅君が立った気配がする。それから静かになる図書室。
「あー…」
天井を仰いで、体の中に一瞬で貯めた息を吐き出す。
可愛い声、大きな瞳、人形の様に長くて細い手足、真っ直ぐでさらりと伸びた髪。どれもこれもが、私とは違った。
「ううーーん…」
当たり前だが受験まで1年切っている。まだ6月だが、すぐに夏が来て冬が来て、そして受験が来る。やれる事をやらなくてはならない。出来る限りのことをして、最善の結果を出さなくてはならない。
ただ、今、私が進んでいる道が本当に正しいのかがまったくわからない。
「やりたい事、かぁ…」
目を閉じて考える。やりたい事があると、まっすぐに言った彼の事。今、大倶利伽羅君と話している女生徒も、確固たる目標があって彼と話している。きっと、その結果がどうであっても彼女にはいい方向に進むのだろう。
それじゃあ、私は?
いい方向に進めるのだろうか。結果がどうであれ『頑張った』と言えるのだろうか。後悔しないと、言えるのだろうか。
「…何をしてるんだ」
天井を仰ぎ続けた私を見て、戻ってきた大倶利伽羅君が訝しげに視線を向けた。
「何でもない。ちょっと、疲れちゃって」
笑っても、一向に心の霧は晴れなかった。
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「鶴さんってなんで図書館司書になったの?」
梅雨も明け、じわじわと夏の暑さが近づいてくるのがわかる、そんな季節に差し掛かったころだった。私はいつも通り土日に図書館に来ては、勉強をする生活を送っていた。
「また唐突だな…集中力が切れたか?」
「うん、まぁ、そんな感じ」
部屋の中には、私と鶴さんしかいない。光忠さんは土曜日の図書館のイベントで忙しそうにしているし、大倶利伽羅君もいつもの朝寝坊だ。
ソファーに座っている私と丁度対角線上の場所にくるくる回る椅子に座りながら、鶴さんは意味深に私の方を見て笑った。
「そうさなぁ…まぁ、はっきり言って俺はそもそも本なんて好きでは無くてな」
「え、まじすか」
「まじまじ。大マジだ。」
じゃあ何で。尋ねるよりも早く鶴さんは扉の方へと目を向けた。それにつられて私もそちらを見る。何て事は無い。いつもの扉だ。
「だが、どうしても会いたい人がいてな。そいつがびっくりするくらいに本が好きなんだ!本の虫とはあの事だな…本当に驚いたぜ」
鶴さんの瞳があんまりにも柔らかく言うものだから、私は何も言えなくってしまう。そんな私に気付いてか、鶴さんはこちらを向いてふっと笑った。
「だから、図書館にいればそいつに会えるんじゃないかって思ったのさ」
「へぇ…結構不純な動機だったんだね」
「そんなものだぞ。いつだって人間は不純な動機で突き進むものさ」
なんだか重みがあるね、と笑う。鶴さんもつられて笑うが、ふとその笑顔が止まった。くしゃりと眉間にしわを寄せ、でも口元だけは弧を描いて。その矛盾的な表情に、開きかけた口が閉じる。だというのに、瞬間的にぱっとその表情を変えて鶴さんは豪快に笑った。
「君はまだ若いだろう?たくさん悩んで道を選ぶと良い。何たって悩めるとはいいことだ!」
今までの表情を忘れたようにカラカラ笑う。そこには私よりも長く生きる、確かな大人がいた。
思わず頭を抱えて息を吐く。ここまでおおっぴらに「悩んでいい」と言われると逆に困るものだ。今、悩んでてもいいのだろうか。なんだか時間が全く足りない気がする。明日には世界が終わるような、今のうちに全てを決めておかないといけないような。そんな、漠然とした不安が。
「いいのかなぁ。悩んでたら一瞬で一日が終わっちゃうんだ。それが怖くてたまらないの。毎日毎日『あ〜もっとちゃんとすればよかった!』って思うんだよね」
「若者独特だな。そうならない為にも、人は毎日を必死に生きるんだろう。人には必ず終わりがあるからな」
「詩人ですね」
「これでも伊達男なのさ」
「えぇ?なにそれ」
言葉に笑うと鶴さんもゆっくりと笑う。毎日を必死に。出来ているだろうか。そもそもそうやって考える時点で、私は出来ていないのではないだろうか。というか必死にって何だろう。……ううん、よくわかんなくなってきた。そんな表情が出ていたのだろうか。鶴さんが私を見てゆるりと瞳に弧を描く。
「たくさん悩め、若人。心配せずとも青春は一瞬で終わるものだ」
「それが嫌だから悩んでるのになぁ」
「まぁ、それはともかくとして、今は大学に受かる事を考えたらどうだ?目標は大事だからな」
「…うん、そうだよね…そうだよねぇ。わかってるんだけどな……」
イマイチ言いたいことを告げない私に、鶴さんは器用に眉毛を片方だけ上げた。その視線は言外に、何を悩んでるのかと尋ねてきているように思える。
「あのね鶴さん。私、やりたい事が何も見つかってないの」
「へぇ?」
「でも彼…、……は、やりたい事もあって目指す所も決まってる。……私とは、全然違うなぁって…私みたいにフラフラしてないし、まっすぐ前を見てる」
名前を出すのは何となく憚られて咄嗟に抑えた。だが、それだけで鶴さんは通じたようにゆっくりと頷く。
「君は、その彼に追いつきたいのか?」
少し考えてからゆるゆると首を振る。追いつきたい、とは違うと思う。でも彼がふと立ち止まった時、横を見てそこにいるのが私だったらいいと思う。そうあればいいと、思うようになってしまった。
ソファーの上で膝を抱えて丸まる。顔を埋めると、頭の上に暖かな手が乗った。隣に人が座る気配がする。
「君はたくさんたくさん考えるからなぁ…。きっとこっちが杞憂だと言ってもそう思わないのだろう」
「…鶴さん」
「うん?」
顔を上げて横を伺う。隣にはどこまでも優しく私を見る瞳があった。きっとこの人は私の答えを否定しない。でも同時に肯定もしない。励ましてくれるだけだ。「私の決めた道だから」と。優しくて、でも答えは絶対に言わない、厳しい人。途端に、鼻の奥が熱くなった。
「鶴さんさっき不純な動機でいいって言ったじゃない。それで、今、進んでここまで来て…、……後悔してない?」
「……それで、俺が後悔してるって言ったら、君は道を変えるのかい?」
言われて考える。例えば今、これから君が進む道は後悔しかないと言われたら、私はどうするのだろうか。目の前のこの人に、この道は茨だと言われたら。
「…………ううん、変えない。変えないよ」
はっきりと告げると「そうだろう」と鶴さんは笑った。あぁ、そっか。そういうことか。私、自分で決める事が初めてなんだ。高校は近くで何となくで決めたし、大学もそうだと思っていた。でも、そうでは無くて、ちゃんとした理由と動機が出来た。それが、正しいのかがわからなかった。
「結局、決めるのは私なんだもんね。それにきっと、もう私の中で答えは出ちゃってるんだ」
初めて自分自身ではっきりと決めた事を、誰かに言って止めてもらいたかったのかもしれない。「あの時あなたが止めなければ」なんて言って、誰かのせいにする最低なことをしたかったんだ。浅ましくて狡い考えだろうか。
「鶴さん、私決めた」
「うん?」
「不純な動機でもいいよね。うん、きっかけなんて、そんなもんだもん」
ぐっと握り拳を作って確かめる。ペンだこのある、可愛くない掌。おしゃれなんてする余裕がないから毎日制服だし、髪だって櫛で梳かすくらい。それでも、これが私だ。この私で、勝負するしかないのだ。
途端にむくむくと湧いてくる元気に、ぱっと鶴さんを見上げた。
「鶴さん、私頑張る。ひたすらに頑張る!」
「おぉ?……あぁ…頑張れよ。頑張れる時なんて、人生で数えられるほどだからな」
鶴さんの事葉に「出た、大人の発言」と笑うと、いたずらっこのような顔をしてこちらを向いた。
「まぁ、君よりか数100倍は長生きしてるからな」
「数100倍は無いでしょ」
「いや、あるぜ」
「えぇ?」と呟いた声がすぐに消えるほど、鶴さんの視線はまっすぐに突き刺さった。なんだろう、この既視感、知ってる。どこだっけ。どこか、すごい身近な所で、これをよく見ていた気がする。
だが、鶴さんがぱっと表情を変えたことで既視感は霧散する。霞がかった記憶は、これ以上の追求を止めさせた。
「さぁ、頑張ると決めたなら勉強しないとな。日本史まだまだなんだろう?」
「ういっす。やります」
頑張ろう。頑張りたい。
彼が○大を目指すから。それは確かに不純かもしれない。でも、私にとっては立派な理由だ。
目の前の人と視線を交わして、私は笑った。
:::
光忠さんの手には、常に1冊の本がある。それは、何かの続きの本だったり、短編集だったり。大抵は2、3日で本が変わっているので恐らく彼の読むペースはそれくらいなのだろうと思う。
今日もまた、彼の手の中には文庫本が収められている。ソファーに座る私の隣で、長い足を組みながらぺらりと本を捲った。そんな時「あぁ」と、彼が低い声を上げた。
「もうおやつの時間だね。そろそろ休憩にするかい?」
「うぇ、あと5問だけ、待ってください…」
「はは、いいよ。落ち着いて解いてね」
そう言いながら光忠さんを見送って、早数分。残り5問も解き終わり、体を伸ばせばぼきばきと骨が鳴る。ふと、テーブルの上にある本に目がいった。光忠さんは今、何の本を読んでいるのだろうか。
そーっと表紙を捲る。必ずブックカバーを付ける為、表紙からでは何の本かわからないためだ。
「……」
どうやら恋愛小説の様だった。まるで三流ドラマの様な謳い文句から始まる書き出しと、そこから繋がっていく話。どんどん読み進めていってしまう。良い小説は最初の3行で話はわかる、なんて言った人がいたけれど私はそれが信じられない。だって、三流ドラマの台詞からはじまる小説が、こんなにも今私を惹き付けている。
「こーら」
「あてっ」
小説に浸かりかけた思考を、ずるりと引き釣り挙げられる。見ると、マグカップを持った光忠さんが立っていた。
「まだ勉強してるのかと思えば。休憩するのはいいけど、本は暫くやめるんでしょ?単語帳読むって」
「うぅ、わかってます。魔が差したんです」
「はいはい」
マグカップを受け取りながら、外を見る。小さな窓からは外がいい天気であることしか伺いしれない。だが、夏がすぐそこまで来ているのはわかった。
「ね、光忠さん。大学ってどんな所?」
「唐突だね。気になる?」
「うん。高校とは違うんだよね」
「そりゃあね」と笑って光忠さんも紅茶を飲む。この人の淹れてくれる紅茶はいつも甘くて美味しい。初めて出してもらったその日から、私はずっとこれが好きだ。
「とにかく大学全てに言えることは、自由であるということじゃないかな」
「じゆう」
「そう。大学の講義に出なくたって誰かに怒られる訳じゃないし、例えそれで単位を落としたってそれは自己責任になる。誰も責められない」
へぇ、と相槌を打ちながらなかなかハードだなと思う。その表情が出てたのか、光忠さんがふはっと笑った。
「そんなに固くならないで大丈夫だよ。実際、大学はとても楽しいから」
「楽しいですか」
「そりゃあもう。さっきも言ったけど、自由だからね。自分のやりたい事を何でもできる」
そう言って窓の外を見る光忠さんの瞳は、そのやりたい事をやった思い出を一つ一つ丁寧に思い出しているように見えた。きらきらちかちか。金の瞳が美しく揺れる。
「じゃあその楽しいっていうのを信じて、勉強頑張ります」
「○大?」
「はい」
……って、あれ?首をひねる。私、それ大倶利伽羅君以外に言ったっけ?横を見ると、にやにやとした笑顔の光忠さんと目が合った。
「あれ?違ったかな。てっきり倶利伽羅と同じ所かと思ったけど」
どきりとする。突然、心の柔くて隠してた部分を指でつつかれたみたいだ。熱くなってくる頬を隠せずに「違わないデス…」と答える。くそう、この人は周りにとてもよく気を遣う。それはつまり、周りの事をとてもよく見てるということだ。果たしていつから気付いていたのだろうか。
「○大はいいところだと思うよ。キャンパスも綺麗だしね」
「? 光忠さんって○大でしたっけ」
「いいや、知り合いがね。そこだったんだ」
なるほど。納得しながら飲んだ紅茶は、まだ熱かった。決して体まで熱いのはこの会話のせいではない、と思いたい…。いや、別に変な事を聞かれた訳では無いのだし。大丈夫ダイジョーブ。
「君らが大学生になったら、きっとここも静かになるね」
きゅ、と心臓が掴まれたかと思った。隣の光忠さんはもう視線を外へと向けており、こちらを見ることはない。その姿が、全てを諦めているような、そんな気がしてひどく慌てた。
「何言ってるんですか。こんな交通の便も居心地も良い所、早々に見つかりませんよ。まだまだ読んでない本だってたくさんあるし、光忠さんのおやつだって制覇してない。それに、」
そこまで言って、息が詰まった。こちらを見る瞳がとても優しくて穏やかで、だというのに泣きそうなもんだから、こっちまで泣きたくなる。
そうだ、この人は周りをよく見てる。その分、人の機微に敏い。この人は私自身が気付かない心の奥底にまで、気が付いてしまっているのかもしれない。
――――光忠は、気にしすぎなんだよ。
ハッとした。頭の中に聞こえた今の声は私の物か。ふるふると頭を振る。目の前には光忠さんがいる。だが、何だろう。この既視感は。光忠さんのこの瞳にも。鶴さんの、以前のあの表情にだって。いつだろう、どこだろう、私は見たんだろう。この、込み上げる懐かしさは何なんだろう。
「どうしたんだい?」
途端にやはり霧散していく懐かしさ。見れば、光忠さんが心配そうにこちらを見ていた。それに何でもないと首を振る。
この人は、本当に周りを見ていて、そして気にしすぎる。
そう、気にしすぎなのだ。私自身が気付かないのならばそれでいいのに。私達に何が最善になるかを考えて、自分を蔑ろにする。それが、周りにとってどれほどの苦痛か、知らないのだ。
「光忠さん。私、大学生になってもここに来たいなぁ」
「いいよ、いつでもおいで」
顔を見合わせて笑う。しかし、きっと光忠さんは信じてない。私や大倶利伽羅君が大学生になったら来ないと思ってる。失礼してしまう。私が受験のこの時期に、静かなここで勉強出来るのが、どれほど有難いか分かってない。そしてその恩をまだ何も返してないことも。ちゃんと全て返したいと思っている事も。
「絶対、絶対来ますからね。ここの本、全制覇しますからね」
「うん。待ってるよ」
来年、またここに来てそしていつか言ってやる。あの時はお世話になりました、これからもよろしくって。それでその時の驚いた顔を、一生の記念として取っていてやる。…なんていったところで、結局したいのはただの恩返しなのでまずは早く大人になる事が先決かと思う。
ちらりと光忠さんを見る。どこまでも私を子供の様に優しく見てくれているのが、今はもどかしい。
「私が20歳になったら、お酒おごってあげますからね」
「本当かい?じゃあ良い酒を仕入れておかなくちゃね」
「驕りますからね」
「はいはい」
これまた信じてない。まぁ、それもそうかと納得する。まだ出会って数か月。お互いの事を何も知らなくて当然なのだ。これからもっと知っていける。笑うと向こうも不思議そうに笑う。
「なに笑ってるの?変だなぁ」
「んん、ふふふ。何でもないです。大学生活が楽しみだなぁって」
「…じゃあまずは勉強しないとね。その楽しい大学生活の為にも」
「そうですね、頑張ります」
来年、出来れば笑って大倶利伽羅君とここに来たいと思う。二人そろって、二十歳のお酒が飲めたらいいな、とも。そこに、この二人もいたらもっといいな、とも。
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