3 | ナノ





夜、片手に缶ビールを持ってベランダに出る。時間的には日付が変わる直前と言ったところか。ぼんやりと外の明かりを眺める。私はこの時間が好きだった。仕事を終えて疲れた体もすり減った心も段々と凪いでくる気がする。ここだけまるでゆったりと時間が流れているような気がして、酷く落ち着くのだ。夏だからか、体中を独特の空気が覆っている気がする。この蒸し暑さも、夏だなぁと感じられるから好きだ。それにこういう熱帯夜はビールが美味い。
そうしてぼけっとしていれば、隣からカラカラと控えめな音が聞こえる。隣の家の境に近づけば、空気を吐き出す音と紫煙の煙が空に昇っていくのが見えた。

「先輩、こんばんわ」

顔を覗かして言えば、驚くこともなく視線だけがこちらに向けられた。片手に持ったタバコの赤い光が、暗い世界によく似合っている。

「早く寝ろ」

ふー、と煙草の煙を口から吐き出す。決してこちらに向けて吐き出さないのだから、律儀だと思う。
初めて先輩が喫煙者だと知ったのは割りと入社してすぐだった。スーツに本当に少しだけどタバコの香りがしたし、喫煙所に向かうのをよく見ていたからだ。
タバコを吸う人は、嫌いじゃない。どこか大人の魅惑がある気がして、少しだけくらりとする。
手に持っていたもう一本の缶ビールを、ぷしゅと独特の音を立てて開ければ、げんなりとした顔がこちらを見ていた。それが可笑しくて笑ってしまう。

「寝ろと言ったが」
「明日は土曜日ですよ、固いこと言わないでください」

花の金曜日でも、私は飲み会などにはあんまり積極的に参加しない。いや、たまに人付き合いを重んじて行くけれど。宅飲みや、慣れた人と2人での食事や飲み会は楽しいからいい。でも大人数となると、どうにも疲れてしまうのだ。気疲れというやつだろう。大勢の人に囲まれて、話題を合わせるのは得意ではあるが好きではない。
私はそうして参加しないが、何気に隣の先輩もほとんど参加しない。結構上の上司なんだから付き合いとかが多いはずなのに、そういったものに参加するのをほとんど目にしない。今まであまり気にしてなかったけれど、先輩はどうなのだろう。

「先輩って飲み会あんまり参加しませんよね」
「…別に、馴れ合うつもりはない」
「あぁ、なんかすごいしっくり来ますその言葉」

不思議だなぁ、なんて思いつつビールを飲む。うまい。
ふと気付くと、先輩がこちらを見てるのに気付いた。飲みます?と缶ビールを差し出すも、違うと返される。暫く視線が外されて、すぐにまたこちらに戻る。それを繰り返していれば、ようやく先輩が口を開いた。

「明日、空いてるか」
「明日ですか?全然空いてますけど…何か買い物ですか?」
「いいや」

あれ違うのか。じゃあ何だろう、仕事かな。
首をひねれば、小さいため息と共に、ふ、とタバコの煙がこちらに向かって吐き出された。

「な、なんつーことを…!」

煙草の煙が目にしみて、少し涙目になって目を細めれば、先輩の顔が一気に近づいた。
触れるだけの、軽いキス。
咄嗟に目を閉じれば、逆にその感覚が鮮明にわかってしまう。ちゅ、と可愛らしい音を立てて唇が離れれば、小さく先輩の口角が上がっていることに気付いた。

「アホヅラ」
「うっさいですよ…!」

手の甲で唇を抑えて、火照る顔を少しでも隠そうとしても、頭をわしゃわしゃと撫でられてこちらの頬まで緩みそうになる。

「明日は開けておけ、出掛ける」
「え、買い物じゃなくて?」
「もう寝ろ」

それだけいうと、額に口付けてから、先輩は部屋に戻っていってしまった。先ほどと同じ、からからとベランダの引き戸が閉まる音がする。
唇が触れたおでこを掌で抑えながら、私は呆然と、それでも高鳴る胸を抑えきれずに、服どうしよう、なんて事を考えた。



:::




翌日、休日とは思えない早さに目を覚ました。なんと驚き、あの目覚まし時計に頼らずに起きたのだ。昨日の夜は、遠足の前日とかってこんな気持ちだったと思い出して恥ずかしさに身を包みながら眠りについた。それでもなかなか寝付けなくて遅い時間だったのだが。

それから昨日のうちに準備していた服を着て、朝食を食べて、いつもよりも時間を掛けてメイクをする。どうにもメイクというものは顔面が疲れる気がしてあまり好まないのだが、もうメイクをしなければ外に出るのは恥ずかしくて耐えられない位にこの行動が重要になっている。

そうして全ての支度を終えても時間は余裕があった。時間が余ったら髪の毛とか、少しでも可愛くしようかなと思ったが、どうにも私ばっかりテンションが舞い上がってしまってる気がしてよろしくない。
先輩は本当にただの買い物かもしれないのだ。ただ少しだけ遠くに行くとかそう言った感じの。それを私が一人、デートだ!とテンション上がってたりしたら恥ずかしくて爆死どころじゃ済まない。いつも履かないスカートを履いてるのだから、それだけで私として十分頑張ってると思おう。うん。

とはいえ、なんというかこう、隣の家とはいえ、人を待つというのは些か…恥ずかしいものだなと思う。
いつもはノリと流れで「あれが足りない、これが足りない、あれが食べたい、どれが欲しい」といった具合で買い物に行くので、こうしてちゃんと前日から話して行くのなんて初めてだ。
…ダメだ、すごく緊張してくる。

自分ひとりで舞い上がるな、と先程思ったばかりなのに、テンションが上がったり下がったりしている。そもそも先輩、こっちに来てくれるのか?これ、私が向こうに「支度終わりましたー!」って行くべきなんじゃないのか?先輩、気をつかってこっちが支度終わるまで待っててくれそうな気がする。
そう思った途端、私は自宅の扉を開いていた。
隣の家に向かおうと思ったが扉を開けた瞬間、望んだ人の顔がそこにあった。

「え、先輩!?」

今まさにインターホンを押そうとしてました、といった感じで腕を伸ばした先輩は、酷く驚いた顔をしていた。

「うわ、すみません。私から行くべき所を…」
「いや、問題ない。行くぞ」

それだけ告げて歩き出す先輩の後ろを慌てて追いかける。
先輩はいつものラフな服装だ。ブイネックのTシャツにジーパン、これほどラフな格好なのに決待って見えるのは、惚れた相手だからだけではないだろう。

「…なんだ」
「いえ、先輩がかっこいいなぁと思いまして」

思ったことを口にすると、ぐしゃりと頭をなでられる。せっかくセットしたのに!嘆いてみてもどうしてもその手の動きが嬉しくて、甘んじて受けてしまう。
そうしているうちにアパートの駐車場につく。当たり前のように車に乗り込む先輩を見て心底驚いた。

「先輩、車持ってたんですか!」
「大分前から持ってる」
「知らなかった…」
「言ってないからな」

こちらも聞いたことなんか無かったなぁ。早く乗れという先輩の視線を受けて、助手席に座らしてもらう。慣れない他人の車の匂いがした。

「ていうか、どこ行くんですか今日」

鍵を入れて発車する準備している先輩を見ながら聞く。やはり近場で済む買い物ではないようなのだが、全く検討がつかない。

「海」
「うみ?」

オウム返しで聞き返してから、ぶおん、と車が発車される。

「待って下さい海ですか、私水着とか持ってきてませんよ」
「問題ない、見るだけだからな」
「あぁ、なるほど。それなら全然」

付き合って分かったことだけれど、先輩は私生活だと結構ズレてると思うことが多々ある。例えば今の様な時だったり、買い物してる最中とか、いきなり買い物カゴに、水に粉入れると色が変わる懐かしいお菓子を入れた時とか結構びっくりした。しかも律儀に二つ。美味しかった。
とはいえ、そのズレてる感覚を別になんとも思わないどころか、いいなぁと思ってしまう辺り、私もズレてるのだと思う。清光から「天然じゃなくてただのバカ」と言われたのはそんなに昔の事じゃない。清光絶許。

車から流れるのはラジオだ。CMで何となく聞いたことがあるような曲を耳に受けながら、クイズの様にこれはあの曲だ、いや違うあれだ、と言い合いつつ結局2人とも違って笑ってしまった。

「あれ、サービスエリア寄るんですか」
「腹が減った」
「確かに!」

手際よく駐車場に車を止めるも、世間は夏休みらしく、時間的には昼を過ぎた時間だというのに中は酷く混んでいた。
人と共にあるのを苦手とする先輩には嫌な世界だろうな、なんて思いながら口を開く。

「先輩、お持ち帰りできる簡単なやつ買ってきますからタバコでも吸っててください。何がいいですか」
「…いや、行く」
「え、でも」

するりと手が握られて、途端に心臓が跳ねる。そのまま人ごみの中を掻き分ける様に進んでいく先輩はまるで迷いがない。私は途中に通るお土産店も何も目に止まらず、むしろ握られている手を凝視して、逆に恥ずかしくなるという悪循環を繰り返しながら足を進めた。

「おい、大丈夫か」

ようやく食事を頼める場所まで着いた時、私は色んな意味で疲労困憊だった。それに大丈夫です、と返すとほんの少しだけ先輩の目が細められる。それだけで私の心臓は更に飛び跳ねて、思わず握った手をぎゅ、と強く握り返してしまった。でも先輩は何も言わず、空いた手で頭を撫でた後に、少しだけ口角を上げた。

「何食べるんだ」
「うぇ、待って下さい。全部美味しそうで…」

少しだけ落ち着いてから、高い所にあるメニューを一つ一つ見ていく。
うへーたこ焼きあるんだいいなぁ、いやでもラーメンとかもあるんだ、最近のサービスエリアってすごいな。
ふむふむと感心していると、隣の先輩はもう決まったらしくこちらを見ていた。

「先輩は何にするんですか?」
「ラーメン」
「あぁー!それ一口ください。私たこ焼きとアイスにします」

アイス、と一言口にしてから先輩は暫く悩むと俺もそれを頼む、と言うものだからつい笑ってしまった。睨まれたけど全く怖くない。でも怒られるのは嫌だったので、可愛いと思ったことは内緒にした。
頼んだ料理をお盆に載せて、2人で空いたカウンター席にそそくさと座れば、目の前の美味しそうなたこ焼きに思わず目が光る。おっとよだれが。
隣の先輩は既に食べ始めており、ラーメンのすする音が聞こえる。それをちらりと見れば、目が合ってから一口くれた。美味しい。ちなみにアイスはシャーベットだったのだけれど、たこ焼き食べてる間にほぼ溶けてた。泣いた。

そろそろ行く、という言葉の前にお手洗いに行かせてもらう。この先、恐らくコンビニとかにも寄るだろうか一応だ。
そうして軽く化粧を直して外に出れば、喫煙所に先輩は居た。私はタバコ吸わないけれど、先輩ほどタバコが似合う人も早々いないなぁ、なんて思って少しだけにやけた顔を抑えて歩いていたのが、すぐに固まった。
なんでって、すごい美女に絡まれてたから。
足を容赦なくさらけ出し、ピンヒールを履いて、胸元はタンクトップ。素晴らしいナイスバディ。モデルかな?と一瞬思ってしまうほどに。それでも、どれほど美人だろうがモデル並みのスタイルだろうがなんだろうが、嫌なものは嫌だ。

「先輩」

呼べば、その声にすぐに気付いて、先輩がタバコを消してから近づいてくる。その手をすぐに取って、早足に車に向かう。後ろから嫌味ったらしく、釣り合わないって声が聞こえたけど、知ってるわそんな事!と振り返らずにひたすら歩いた。
仕事の時とか友人の付き合いとか口を出すつもりなんてさらさらないし、私自身も飲み会にだって行くからそこの所は全く気にしないけど。見ず知らずの女が勝手に近付いてきたら誰だって嫌でしょ。

車について乗り込むと、先輩がじっとこちらを見ていた。
あれ、もしかしてあの女性知り合いだったのかな、でもめちゃくちゃこっちに嫌味言ってたし、ていうか先輩全力で無視してましたよね?もしかして私色々やらかした?
頭の中でぐるぐると、色んなもしかしてを考えていると途端に唇を塞がれた。もちろん、先輩の唇で。今までもなかなか唐突にされてはいたけれど、ここまで脈絡のないのは初めてな気がして、目を大きく見開いてしまった。触れるだけの唇がゆっくりと離れて、全然深いものではないのに、はぁ、とどちらかともなく息が漏れた。

「…せ、せんぱい」

手の甲を口に押し付けて、赤くなる顔を半分隠せば、ゆっくりと目が細められてから頭をなでられる。何をしても、絵になる人で嫌になる。
しかもそのまま車を発車させるものだから、照れくささと恥ずかしさで暫く話が何も出来なかった。



:::




「うわっ、わわ、すごいすごい、海だー!!!!」

少し長いトンネルを抜けた先、今まで山道ばかりだった景色は一変して、青々とした世界に変わっていた。
それを見た瞬間に、隣の後輩はこっちに窓を開けてもいいかと許可を取ってから、身を乗り出すようにして海を見始めた。落ちるぞ、と一応声を掛けるが隣の後輩には聞こえていないだろう。
あまり年相応には見えないそのはしゃぎっぷりに、誘った身とはいえ、心のどこかで安堵してしまう。どうにもコイツが隣にいると、余計な事を考える。

「先輩、後でアイス食べましょう」
「さっき食べてなかったか」
「別腹です!あとあれ溶けてたので」

車の窓を閉めてこちらを向く。その表情はどうにも嬉しさを隠しきれていなくて、無性に何かを掻きむしりたくなる。

「後でコンビニに寄ってやる」

そう言っただけでテンションが一段階上がるのが見て取れるから、逆にチョロすぎて心配になる。

「どこまで行くんですか?もう海水浴出来る場所過ぎましたよ」

一向に車を止める気のない俺に少しだけ首をかしげて聞いてくる。多分無意識だろうが、それは外でやるなと言いたい。

「もう少し先だ」

そう言ったところで、もう一回窓開けていいですか?と聞いてくるものだから、好きにしろといえば、またも喜々として体を乗り出す。その背中を横目で見ながら、流れてくる潮風をゆったりと感じる。海に来たのはいつ以来だろうか。それも自ら来るなど、初めてかもしれない。
変わったね、と付き合いの長いアイツに言われたが、そうかもしれない。こう考える事が、既に変わったのかもしれない。隣から聞こえる常よりも少し高めの声を聞いて、それも悪くないと思うくらいには、変わったのかもしれない。

「おい、窓閉めろ。またトンネルに入る」
「はーい」

すとん、と助手席に戻ると残っていたジュースを飲みきった。そこからたわいもない話をしていれば、すぐにトンネルを抜ける。光が見えてきたところで、隣の後輩が再びおっ、と目を輝かせた。

「そんなに海が好きだったのか」
「いえ、海も山も川も全部好きですけど。今回は特別ですよ。だって先輩がいますから」

一瞬言葉に詰まる。…っとに、こいつは。
顔も見ずにくしゃりと撫でれば、満足そうにへへ、と声を上げた。
少しだけ長めのトンネルを抜けても、また海が広がっている。だが先程とは違って砂浜が広がっているのではなく、どちらかもいうと防波堤しかない。そのため人などほとんどいないし、車だってほとんど通らない。
手近な駐車場に車を停めれば、振り切ったように隣の奴のテンションがあがった。

「海だーーーーー!」

海と駐車場は、道路を挟んであったため、とてつもない速さで道路を横切る。普段は走ったりするのすら億劫と言っていた奴とは思えない。
その背中をゆっくりと歩きながら見ていれば、防波堤に乗って腕を大きく伸ばしている。時間としてはちょうど夕方に差し掛かった所だろう。辺りがほんのりと赤みを帯びていく。

「先輩、こっちですよ」

大振りで手を振って場所を示すが、俺の真っ直ぐにいるだけなのだから別にそんなことをしなくてもわかる。だというのに、その仕草がどうにも20歳を超えた奴のすることだと思えなくて少しだけ笑ってしまった。
防波堤につけば、ソイツはさっきよりもテンションを高めにしながら、歩きましょうと言ってくる。本当にいつもと違う。防波堤に乗って上から見下げてくるコイツの手を、するりと取れば途端に大人しくなるものだから可笑しくなる。

「歩くんだろう」
「あっ、る き、ますよ!」

ぎゅ、と力強く握り返される手が心地良い。夕日の赤みだけでない朱を顔に乗せながら、隣のこいつはゆっくりと足を進める。夕暮れを告げる赤い海も、頬を撫でる潮風も、今までとは全く違って見えるから不思議だ。

「そういえば、なんでまた急に海だったんですか?」
「…特に理由はないな」

あ、そうなんですか?それはそれで納得〜。と笑うこいつは、質問のために中断した鼻歌を歌い始める。
…理由なんて絶対に教えるか。

「…何の歌だ」
「コレですか?さっきラジオで流れてて何か頭に残っちゃったんですよ。何の歌なんでしょうね」

その言葉に、改めて本当に変なところで適当だと思った。ズレてるというか。仕事はちゃんと言われた事をやるし、気遣いもできる。空気を読むこともできる。だけれど、気の抜き方が少しずれてるだろうと思う。例えば休憩室で、友人と談笑するでもなくぼへ、と座ってる時は驚いた。いわく「人が少ない所を探してたんです」とのこと。休憩室なんか逆に人が集まるだろうといえば「探すのが面倒になっちゃって」
なんとなくその感覚がわかってしまった自分に驚いた。

「これ耳に残っちゃいませんか?同じリズムの繰り返しだし」
「…確かにな」

おかげでこちらの耳にまでそのリズムがこびりついた。ボーカルは隣のこいつで。
繋いだ手を揺らしながら、ふと隣が足を止めた。見上げれば、瞳が海の方を向いている。沈みゆく夕日を見ているようだった。海の様に夕日を反射させるその瞳は、ぽろぽろと落ちる宝石の様だと思った。
一瞬手を離して、俺も防波堤に乗る。視線がいつものように俺が見上げるようになれば、大きな瞳がその姿を捉える。そこに写る俺は相変わらず愛想の欠片もない。必要だとも思わないが。こいつの右隣が定位置になったのはいつからだっただろうか。それが酷く落ち着くと気付いたのは、いつだっただろうか。
するりと手を繋げば、それと俺を暫く交互に見てから、へらりと笑った。

「こうやって、当たり前に手が繋げるのっていいですね」

指と指が絡み合って、ゆっくりと強く結ばれる。縫いとめるように、しっかりと。コイツはそこまで手は大きくないが、ぎゅとそれを離さないようにしてくる。たったそれだけの行為なのに、それが酷く、酷く。

「好きだ」

ぽろりと、それは口からこぼれ落ちていた。は、と口を閉じた時には既に遅く、目の前のコイツは目を大きく開きながら、わかり易く顔を赤らめて「あ、え」とか「うぅ」とかわけのわからない母音を繰り返している。それを見て口から笑気が漏れた。

「赤いな」

空いた手で頬を撫でれば、今度は何かをうなりだした。何を言っているのかわからないのがおかしくて吹き出して笑ってしまうと、きっ、と睨まれる。

「私だって…っその、す、好き、です。忘れないでください…」

最後の方は縮こまってあまり聞こえなかったが、俺を煽るには充分で。
繋いでいた手を引っ張り、こちら側に引き寄せれば噛み付くように唇に触れる。触れるだけのもので終えて額同士を合わせれば、潮風がお互いの熱くなった頬を撫でた。

「不意打ちやめてください…」
「別にいいだろう、したい時にしただけだ」

イケメン爆ぜてください!とわけわからない言葉を叫べば、顔がぱっと上がり再び海の方を向く。ほんの少しだけそれに名残惜しさを感じながら、近づいていた顔を離して海の方を見れば小さな歓声が起きた。
赤く大きな夕日が、今まさに海に向かって沈んでいる。夏の海らしく体を纏う空気は熱を帯びて、べったりと体にくっつく。今日の仕事を終えて帰る太陽も、まるで最後のひと仕事かのように血のごとき赤になっている。紫と赤の混じった空は、一瞬ここがどこかわからない錯覚を覚えさせた。正直、こういった景色に何か心震わされた事など今まで一度もない。すごいなとは思うが、基本それだけだった。だが、それでも。

「すごい綺麗ですね…」

瞳いっぱいに夕日を入れて赤い日を浴びながら呟くそいつを見る。それから繋がれた手も。じんわりと広がる暖かな熱を感じながら、俺は再び夕日を見た。

「…そうだな」

確かに、綺麗だ。



:::




沈んでいく夕日を全て見て、家に着けば結局かなり遅めの時間になった。
別に明日も休みだから問題はないし、お夕飯も珍しく外で食べたからお腹も減っていない。今日はもうシャワー浴びて寝ちゃおっかな〜と思っていれば、家のインターホンがなる。
見れば、先程バイバイしたばかりの先輩がいる。慌てて扉を開ければ、片手にビールを持っている。それを見て、おつまみあったかな?と冷蔵庫の中身を少しだけ考えてから、しょうちゅうもありますよと笑った。

結果としておつまみはあった。あったどころではない、むしろ買い込んであった。そういえばこないだやたらおつまみ食べたくて爆買いしたな、とちょっと遠い記憶を蘇らせた。
それらを食べながら片手にビール。小さめのダイニングテーブルに向き合って座る。私達の定位置だ。

話すことなんて本当にたわいもない。あの時の取引先がどうだったとか、近所のスーパーの何が安いとか、最新刊の漫画がどうのとか。
とはいえ、話していれば時間は早く過ぎるもの。気付くと日付を超えそうになっていた。
あれだけあったつまみもなくなって、もう先輩帰るかな、とぼんやりと思っていれば、やはり先輩は立ち上がった。それにつられて私も腰を上げる。

「先輩、もう帰ります、か…」

空になった缶ビールをテーブルの一つにまとめていて、自分の手元しか見ていなかった上に、結構飲んだから。だから気付かなかった。先輩のかっこいい顔が、すぐそこにあったのだ。
息を呑む暇すらなく唇がくっついて、ぬらりと先輩のそれが入ってきた。酒が入っているせいか、酷く熱く感じる。舌先で歯茎をなめられて、少しでも舌を引こうとすれば追いかけてくるように先輩のが来る。蛇のように舌を絡み取られて、息もうまくできなくて必死に鼻と口の隙間から空気を入れる。苦しくて、じわりと目尻に涙が浮かんで視界が滲みだしくる。

「っ、ふ…せ、ぱ…」

口の中を全て舐めるようにしてくる先輩の舌は、どんどん深くなる。テーブルを背において、頭を手で抑えられて、腰はもうがっちりつかまれて、正直逃げ場がない。段々と足が立っているのが辛いと訴えだして視線を動かせば、さっきよりも熱の篭もった瞳と目が合った。それだけで、ほんの少し体のどこかが疼いた気がする。

ぷつりと卑猥な銀の糸を切らしながら先輩の口が離れる頃には、私は酒とコレで息が上がって、床にへたり込んでいた。
だというのに、先輩はまだまだ余裕の表情で軽く私を抱き上げるとすぐそこにあるソファーに載せた。先輩の龍が入った腕が私の顔の隣に来て、体を覆いかぶせてくる。

「…いいか?」

その質問にぱちくりと目を瞬く。その表情があんまりにも泣きそうで不安げで、でも熱を持つ瞳がそれらを打ち消している気がした。

「いいです。先輩が、いいです」

少しだけ強く言えば、きゅ、と眉にシワがよってからすぐに抱きしめられる。ゆるゆると手を伸ばして、その背に腕を伸ばせば抱きしめる力がより一層強くなる。

「…俺もお前が、いい」

耳元で告げられる言葉に、途端に胸がいっぱいになってくる。今、顔が見えなくてよかった。きっと酷い顔をしている。肩口に顔をうずめれば、鼻孔一杯に先輩の匂いが広がる。そこにほんの少しだけ潮風が残ってるものだから、今日一日の事を改めて思い出した。
なんだか今日はいい事尽くしだなぁ、なんて思いながら小さく笑って、ゆっくりと抱きしめてる体が離れていく。切れ長の瞳を見つめれば、どちらからでもなく唇が合わさった。



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