2 | ナノ






「で、どこまで行ったんだっけ。?むしろ?」

都内の駅前のカフェ。駅前、尚且つ今はちょうど小腹がすく時間といだけあり、店内は賑わっている。
たまたま赤の休日が平日にあり、私の会社ももれなく休みとなった。久しぶりに買い物するかぁ、と軽く隣駅まで来て色々見ていたところで、なんと偶然、加州清光と出会ったのだ。
私と清光は同期で入社して、たまたま席がとなりだった。それだけだというのに、あれよこれよという間に仲良くなって、今では社内で一番軽口を叩ける相手かもしれない。
そこで少しだけお茶する?というお誘いに二つ返事で受け、先のセリフに繋がる訳だ。

「なっ…、んていうこと聞くの、びっくりだわ」

思わず叫びそうになったのを、最初の一文字でどうにか抑える。顔に少しだけ熱が集まるのがわかった。
店の一番奥の二人席。周りにあまり人がいなくてよかった、と心底思う。まるでこちらの反応をわかってましたとでも言いたいように、清光はテーブルに備え付けのメニューを開いた。

「その様子じゃ何も進んでなさそうだね」

頬杖をつきながら、メニューを見る視線と口だけがつらつらと動く。
こうして見てれば美少年と言って間違いないのに、なぜこんなにも過激な会話をしているのか。そもそもなぜ色々見透かされているのか。

「…いや、でも私達には私達のペースがあるし」

ぐ、と少しだけ睨むようにして言ったものの向こうには何も意味が無かったようだ。鼻で軽くあしらわれた後、すぐに口が開く。

「あのねぇ、先輩だって男だよ。しかも好いた子が隣に住んでんだよ。それなのにこっちはそ知らぬ顔なんてダメでしょ」

そうなのだ。
今年、新入社員として入社した会社に大倶利伽羅先輩というイケメンすぎてイケメンな人がいる、いや、いらっしゃる。何故かその先輩が私の直属の上司となったのだ。ここまではまだ大丈夫、仕事上ではままあることだ。
しかしそれからというもの熱出して先輩の家に上がり込むわ、家まで送ってもらうわ、翌日休むわ、遅刻するわ、しかも何故か先輩私のアパートの隣に住んでるわ。もう色々ありすぎた結果恋仲になった。どうしてこうなった。奇跡か。
そうこうしてお付き合いを始めたものの、今まで恋愛経験がほぼ皆無な私からしたら、驚くほど順調だ。週末はどちらかの家でお夕飯を共に食べて、たわいのない話をする。そのまま泊まっていくこともあるが、大体は帰って後は一人の時間をお互いに楽しんだりしながら、たまにベランダで話し込むのだ。そんなぬるま湯の様な日々が、私自身気に入っていたし、特段何かを替えようなどと思ってもいない。
しかし、目の前の同僚的にはそれはおかしいらしい。

「ほんと恋愛偏差値低すぎ!付き合って何ヶ月だと思ってんの?なんでキスで止まってんのさ」
「そ、そういうの大声で言うのやめてもらえませんかね…」

とはいえ、強く言い返せないのは何となく薄々思っていた事ではあるからだ。
お付き合いと呼ばれるものを初めて以来、私達はどこまで行ったかと言われれば、キスまでですとしか言えない。家に泊まっても、お互い眠気の方が勝るからすぐに寝てしまうし、隣同士だから風呂とかは別々で漫画のようなラブロマンスはない。
いい歳した大人同士が、まるで中学生の様な恋をしている。とは誰に言われた言葉だったか。

「先輩、そういうの興味ないと思ってた…」
「そんなわけないでしょ。先輩だって男だよ」

それは重々承知している。見た目もそうだが、先輩は相当かっこいい。憧れの男性という名を好きなように侍らしているのがあの先輩だ。

「私、魅力無いのかぁ…」

付き合って数ヶ月のカップルがキス止まり。
私自身、そういうことに興味がなかったとはいえ、先輩がここまで手を出してこないということは、私に原因があるのだろう。
そもそもあれほどのイケメンが、何故私なんかと付き合うとしてくれたのか本気で分からない。
仮に先輩が体目当てだったとしても、残念ながら私は骨と皮しか無い。モデルの様に細くてスラッとした足もない。まして顔が可愛いなんてそんなわけもない。胸なんて学生の頃からむしろ凹んでると言われたくらいだ。今の今までそういった行為に及んだ事はないのはそのせいだろうか。
けれど、私の上司としても、恋人としてもいつも正しい距離を取ってくれている。
それはとても嬉しいことだが、もう現実愛想尽きていてもおかしくはないのだ。試しに付き合ったけど実はもう飽きた、とか、もっと魅力的な方が現れたとか、いくらでも思いつく。そして、もしそう思われてても私は何も反論ができない。
それくらい、私と先輩には天と地の差があるのだから。

「先輩、なんで私なんかと付き合ってんだろ…」
「自分で聞いてみれば?」
「ねぇ、何か最近やたら清光私に冷たくない?これもう気のせいじゃないよね」
「ほら、その調子で先輩に聞けばいいじゃん」
「無理だよ!何言われるか考えるだけで泣ける」
「はいはい」

すいません、と清光が手を上げれば可愛い笑顔の店員が駆け寄ってくる。衣装は茶色を基底とした落ち着いた雰囲気だ。それでも内面から溢れ出る華やかしさというのだろうか、それで全てをカバーできている。
こんな風に可愛かったら、こんな事で悩まなくても済んだのだろうか。そう思ってからすぐに首を振る。持ってないものを言ったところで意味が無いのはわかっているし、無いものねだりで悩みたくもない。
ご注文は、と問われ慌ててミルクティーでと返す。

「じゃあ自分から誘えば?」

店員が居なくなったことを確認してから、清光が再び口を開いた。誘うってどこに?と首を捻れば、にぶっ!と叫ばれる。いやほんと最近私に厳しいよ清光。

「向こうが来ないんだったら、こっちから誘えばいいじゃん。誘える関係なんだし、もし拒否られたらその時はその時で」

ここまで聞いて、ようやく自分で襲うのだという事に気づく。

「いやいやいやいや、無理でしょ何言ってんの」

手をブンブンと振りながら自分の顔に熱が集まるのがわかる。何故清光がそういった発想になったのか、分からなくもないが、それは無理だ。レベル高すぎる。勘弁して欲しい。

「まぁ無理だとは思ってたしいいけど。じゃあせめてそこから先には勧めるようにしなきゃね」

そこから先って何だ…。
思ったものの口に出すのは何となくはばかれたため、結局口は開きかけてすぐに閉じた。

「じゃ、ひとまずデート誘えば?」
「デート?買い物とかならよく行くけど」

二人分の食事を作るのは大した手間ではない。ただ量がだいぶ変わるのだ。特に先輩は男性なので普通に食べる為、おかわりをよくする。別にそれはいいのだが、お陰で食料の減りが激しい。それを知ってか知らずか、週末や会社帰りに先輩はよく買い物に付き合ってくれるのだ。

「それはデートっていうか何と言うか…」
「でもデートに誘って何かあるのかなぁ。普通に遊んで終わりそう」

私達の週末は、出掛けるのは必要最低限で、後はひたすら家でゴロゴロしているのがデフォルメだ。
だからといって、どこかにお出掛けするとなっても、普通に話して終わりそうな気もする。そこに何か、先に進むステップがあるのだろうか。

「あのね、外に出ればいつもと違う雰囲気に嫌でもなるでしょ。何となくいい雰囲気になったらホテルに行けばいいじゃん」

なるほどと納得する。よくこんなにポンポンアイデアが出るものだ。さすが今年期待の新人社員なだけある。
その作戦を私が出来るかどうかはべつだが。

「まぁ先輩も苦労してるってことね…」

ずず、とミルクティーを飲み切ってから清光がこちらに向かって人差し指を出す。こら、人に向かって指さしちゃいけません。

「とにかく自信持って先輩の事誘ってこい!」
「が、頑張ります隊長!」
「骨は拾ってやる」
「ん゙ん゙ん゙ん゙」




:::




グツグツと煮込まれた鍋の中のいい匂いが、台所中に広がる。大きめに切られたジャガイモと人参は先輩がそれが好きだと聞いたことがあったからだ。あとは煮込むだけかな、と鍋を弱火にして軽くかき混ぜる。
学生の頃に家庭科で習ったカレーがこんなところで役に立つとは思わなかった。あの頃はめんどくさくてたまらなくて、友達と玉ねぎをお手玉にして遊んでいたけれど。

それからテーブルを拭いて、辺りを見渡す。目立つような汚いところはない、大丈夫。それからすぐに洗面所に行き鏡で自分の身なりを正す。軽く前髪を整えていると、玄関のチャイムがなる。はぁーい、と答えてドアノブに手を掛けた所で、エプロン外していないことに気が付いたが、今更戻れない。まぁいいか、と少しだけ緊張する気持ちを抑え、玄関を開く。

「こんばんわ!」
「…邪魔をする」

毎週土日は、どちらの家で食べることになっている。別に片方が言い出したとかではなく、部長の奥さんが作りすぎたと言って料理を持ってきてくれたのがきっかけだった。それからなんとなくどっちかの家で食べるようになり、それは気付くと次の日に仕事のない金曜や土曜、たまに日曜日などになっていった。
こうして度々家に行ったり来たりしてるものの、この待ってる間はいつまで経っても慣れることはない。
緊張と不安と期待でもやもやした気持ちが体を満たす。だというのに、先輩を見ると一気に晴れるのだから不思議だ。
今日は土曜日だから、先輩も私もラフな格好をしてる。Vネックの半袖にジーパンを着ている先輩は、褐色の肌と相まって驚くほど絵になる。いつも思うがVネックってやたら色気増す気がする。

「今日はカレーですよ」
「そうか」

先輩の姿をずっと見ているわけにもいかず背を向けて、歩きながら告げれば後ろで少しだけ先輩が笑うのを感じた。そんなに長くない廊下を渡って、勝手知ったると言った感じで先輩がリビングに入ってテレビを付ける。
どうやらちょうどニュースがやっている時間らしく、先輩はそのニュースを立ったまま熱心に見ている。そうこうしているうちにカレーをよそい終える。

「先輩、できましたよ」
「…すまない」

それは恐らく私が一人で盛り付けしたことに対する謝罪だろうが、この場合は感謝8割謝罪2割といったところか。
先輩は料理がうまい。一人暮らしを男性一人でしているだけあり、大体の料理はできる。だが、変なところで大雑把になる。適当さが半端じゃない。
言うなれば見た目はとんでもなく素晴らしいのに、中身はチョコレートを溶かしたカレーを作っているとでも言えばいいだろうか。自宅にカレー粉が無かったから、見た目が似てるチョコでいいやとなるのだそうだ。いやならないから。

初めて先輩の手料理を食べたときは普通のそうめんだった。そうめんで不味いことなんて滅多にないから気が付かなかったのだ。この事が発覚したのは、部長の奥さんが来て、先輩と奥さんが台所にたってるのを、部長とソファに座って見てた時だ。

『ちょっと!だから何でそんなにどぼどぼいれるの!』
『…めんどうだ』
『あぁーーー!!それは今入れるものじゃない、ちょっと!待ってだからあなた料理しないでっていつも言ってるのに、あー待って待って光忠さん助けて!!』

はいはい、と先輩と部長が交代して台所に入っていく。その時の課長の顔は、わかってたよ、と言わんばかりの苦笑いなのに、どうにもふやけたような笑顔だったのを見て、逆にこちらが照れたのを覚えている。
それから、どかり、と不機嫌さを隠さずに隣に座った先輩は、今にも舌打ちしたいのを我慢してる感じだ。それに小さく笑ってから、次は私が作りますね、と言えば、頭をぐしゃくじゃと掻き回された。それからすぐに、具は大きめ、でと言われれば笑うしかない。

そんな事を思い出しながら、私の向かい側に先輩が座った。思い出し笑いで顔がにやけたのを目ざとく見つけられ、何だ、と視線だけで聞いてくるものだから、笑いが大きくなるしかない。

「いえ、先輩が料理を作ってれた時の事を思い出してて」
「…忘れろ」
「私は結構好きでしたよ、チョコレートライス」
「また作ってやる」
「わぁ嬉しい」

思ってないだろ、と言いながら私の作ったカレーをスプーンに乗せてこちらに向けてくる。それを食べながら、普通だ、と思う。普通の味しかしないカレーだが、カレーは結構家庭の味があると思う。最初は一応カレー粉何がいいですか、と聞いたがその時先輩はなんでもいいと言った。それからすぐに出来れば甘口、とも。
それが先輩がただ単に甘口派なのか、我が家に常備置いてあるカレー粉が甘口だと知っていたからなのか、食料品の買い物に行った時に私が甘口のカレー粉を見てるのを気付いたからなのか。今となっては確かめようがない。
それよりも、今はデートの話だ。
何気ない会話をしながら、タイミングを計る。

数時間前に清光と話した通り、自然に、自然にデートに誘えばいい。例えばニュースで何処か面白そうな場所が特集されてる時とか、他にも新聞でやってた、とかとにかくそういう事で、さり気なく。

―――いや、無理だ。

いつもどんな風に先輩と買い物に行ってただろうか。そもそも私達はお夕飯の時にあまりテレビを見ない。余程面白そうな番組とかがやってれば別だが。しかもお互いあまりメディア紙に興味もない。先輩は新聞をとってたと思うけれど、私はとっていないということはもうお互いに知っている。そもそも改めてデートに誘うという行為がやたら恥ずかしく感じるのは私だけだろうか。

「ご馳走様」

声を聞いて向かいの皿を見れば、綺麗に空になったお皿と目が合う。先輩が作った料理を残した事はない。作った側としてはこれ程嬉しい事はないし、作りがいがあるというものだ。
私の皿も空になっているのに気付き、皿を台所に持っていって洗ってくれる。それにお礼を言いつつ、完全にタイミングを逃した、と心の中で涙を流す。
台所の片付けをしてくれてる先輩を手伝うため、隣に並ぶ。いつの間にか我が家の台所のスポンジは二つに増えていた。
2人で、明日は晴れるんですかねぇ、とか、まだ天気予報見てないな、とか、そんなたわいもない話をしつつ、内心タイミングを測りまくる。
今だ、いやもうちょっと。待って待って、もう洗い物終わっちゃう。
あぁもう!女は度胸だ!

「あの、先輩、」
「あぁ、そういえば」

私が一歩早く決意決めて呟くも、ほぼ同時に言葉が重なる。思わずお互い顔を見合わせて、どうぞどうぞ、いやお前が先に言え、というやりとりを視線で行う。

「…すいません、何言うか忘れちゃいました」

はは、と笑いながらそう言えば、先輩は少しだけ逡巡した後、そうか、と返してから更と向き合った。
忘れてなんかないくせに。都合のいい嘘言って、断られた時に自分が傷付くのが怖くて言わないなんて、最低だ。いつもの当って砕けろ精神は、この先輩の前じゃ何も働かない。

「…先輩はどうしたんですか?」

先ほど、お互いの言葉を遮ってしまって聞けなかった言葉を求める。

「いや、明日仕事が入った。だから夕飯は用意しなくていい」

すまない。
告げられて、こちらが慌てる。泡のついた手をぶんぶん振りながら、全然大丈夫ですよ!と返す。

「日曜日でも仕事入る事があるんですね…」

いつか自分もそうなるのかとどこか遠い目をしたくなる。いや、先輩の場合将来を期待されている有望な人材だからか。

「今回は特別だ。向こうが空いている日が明日しかないということで決めた」
「あぁ、そういうこともあるんですね」

キュ、と台所の片付けを終え、二人揃ってリビングにもどる。こういう説明をするときの先輩は割と饒舌だ。
二人がけのソファに座れば、慣れた感じで先輩がテレビを付ける。
仕事だということはもうお帰りになって寝たほうがいいんじゃないだろうか、明日も早いんじゃないか、そんな事をポンポン思い始めると止まらない。
付き合うという関係になってから、先輩の迷惑になっている行動というのにやたら私は反応してしまう。邪魔になりたくない、出来る限り先輩の足を引っ張ったり、面倒だと思われたくない。そんな事が、頭の中をグルグルしている。ここまで重たい人間だったかと、自分に愕然とする。

「先輩、今日はもう…」

帰りますか?
そう告げたかった口は、すぐに相手のそれが触れたことで閉じられる。
たまに、本当にたまに、先輩は急にこうしてくる。いつもいつも余りにも唐突すぎるその愛に、私は目も閉じることが出来ず、脳と、後から来る心臓の鼓動を落ち着かせるのに必死だ。
触れるだけだった唇は、すぐに離れるも、目と鼻の先にある先輩の顔が脳の理解を阻んでいる。
先輩の両手が私の頬を包み、コツンと額を当ててくる。先輩のまぶたは伏せられていて、考えは伝わらない。

「明日、なるべく早く帰る。夜、開けといてくれ」

こくりと頷くのを見てから、先輩が立ち上がる。帰るんだな、と気付いてその背を追うも、足は早く既に玄関まで行ってしまっている。

「お仕事、頑張ってください」
「あぁ。…飯、美味かった」

パタンと静かに閉じられた扉を見つめてから、長いため息をつく。
それから顔面からソファに突っ込み、足をバタバタさせる。傍から見たら明らかに頭おかしいひとだが、別に今は見られて困る人はいないから気にしない。

変な事は言ったりしてなかっただろうか。態度は大丈夫だっただろうか。ご飯は不味くなかっただろうか。迷惑かけてないだろうか。

頭の中でぐるぐる考えながら、自分の態度を1から思い返す。
親しき仲にも礼儀ありだ。こういったことを怠るべきではない。
というのは建前で、いつも不安でしょうがない。私に愛想尽かされないような態度でいなくては、変な事は言わないように。そんなことばかり考えてしまう。
とはいえ、変な事を言ってしまえばなんとなくわかるし、そしたら明日からはしっかり気を付ければいいのだ。人間、開き直りが肝心だし、しっかり反省してそれを次に活かせれば充分というのが私の考えだ。
よし、お風呂に入ろう。
しゃき、と立ち上がり、私は足早に風呂場へ向かった。

あぁ、でもデート誘えなかった。
向かう足が自然と止まる。
仕事だから。正直それはもう、言い訳にしか感じない。
もしダメでも来週にでも誘えばよかったんじゃないか。少しでも行動すればよかったのに。もし言葉に出せていたら何か変わったのだろうか、もしも、もしも。
たらればが頭の中をぐるぐると巡る。
悪い態度や言葉は気をつければ直せる。自分が意識すればいいのだ。だけれど、これはどうだろう。何も行動に起こしていないことを考えてみても、意味が無いとわかっているのに、どうしても考えてしまう。

「あぁー!もう!!」

とにかくお風呂入って、ビール飲もうビール!
うじうじ考えたって意味は無い。今度こそお風呂に入る為、私は風呂場に向かった。




:::







目が覚めたとき、時間は既に昼過ぎだった。寝すぎて頭が痛いというなんとも、社会人としては幸せな自体に陥っている。
ズルズルと這うようにベッドから降りるついでに、昨日飲んでテーブルの上に放置したままだった缶ビールを何本か倒した。中身が空でよかったと心から思う。

「我ながら、これは、なかなか…」

カスである。
どうにかベッドから出て、よろよろと洗面所に向かう。なんというかもう全てがめんどくさい。こうして立ち上がるのも、着替えるのもめんどくさい。食事取るのもめんどくさい。最悪か。
とはいえ、食料品がもう危ないのである。こういう時、一人暮らしだと買い物が本当に面倒だ。親と暮らしていた時に買い物は親が主体になるものだった。それが今じゃ全て自分で買いに行き、自分でお金のやりくりをしている。よくこれまでやってこれたな、とどこか自分をほめたい気持ちになる。とはいえ、今日の私の夕飯の分がもう無いし、平日の会社帰りに買い物って結構大変である。先輩がいるなら別だけれど。
すぐそこのスーパーならば歩いていけるし、大して時間もかからずに終わるだろう。
朝ごはん兼昼ごはんを食べて、軽く化粧をする。
近場にしか出ないから、ということで、ジーンズにパーカー。素晴らしいラフスタイルだ。これを先輩に見られたら死ぬなぁと思いながら、それは無いか、なんて安直に考える。だって仕事だし。
それから、誘えなかったなぁとも。
昨日、散々飲んで吹っ切れたとは言え、どうしても少しだけ気にしてしまう。来週には、誘えるだろうか。

「はぁ…」

どうしても家にいると鬱々としてきてしまってダメだ。口からため息しか溢れない。
外に出て、気分転換して、おいしいものを食べよう。
ようやく支度を終えた私は、誰もいない家に行ってきます、と声を掛けた。






私の家は駅からすぐだ。OL用といえばいいのか、それ専用に作られたアパートだが、とても綺麗に作られているし五階建てということでなんと驚きエレベーターもある。だというのに家賃はなかなかお手頃である。
あまりの都合の良さに欠陥住宅かと最初は思ったものの、どうやらここの最寄駅がとても都心として田舎で、そもそもここを利用する若者が少ない事が原因らしい。
私は、元々実家が田んぼの真ん中にあるような無人駅が最寄駅の所に住んでいたため、こんなもの田舎に入らない。駅にコンビニついてんだよ、十分都会じゃん。

そんな訳で買い物に行くには、少し歩いて商店街に行くのが常だ。アパートからは10分、駅からは5分といったことろか。本当に結構好物件なんだけどなぁ。

商店街に入って、パッパと買い物を終える。
とはいえ、やはりそこそこ時間がかかった。起きるのが相当遅かったからか、時刻はもう夕方だ。だからといって、何となく帰る気にもならない。帰ったところで鬱々としてしまうだけだろうし。
少しだけ足を伸ばしてもいいかな。
商店街の奥の奥。もうここら辺まで来るとどちらかというと住宅街に、私がよく行く古本屋がある。全国にチェーン展開している方の古本屋ではなく、地元にしかない、ローカルな古本屋だ。
だけれど、ここの店長が相当の読書家らしく、すごい量の本がある。私は小説なんて全く読まないが、漫画は読む。ここは、小説もあるが、何よりも漫画もすごい数があるのだ。店長は基本何でも読んでみる派らしい。
本屋に出てる分でも充分すごい数なのだけれど、奥の自室には更に量があるのだとか。すごい。
そんなわけで、古本屋で立ち読みをする。もしいいのがあったら全巻買ってもいい。
入口近くでぼんやりと何読もうか決めている時だった。
遠目から見えた姿に思わず目を開く。
てっきり今は会社だと思っていた先輩が、そこにいたからだ。ぴしりとしたスーツを着て、商店街を歩いている。どうしてこんな奥まで来てるのだろうか、今日外周りが入ったのか、会議は終わったのだろうか。
仕事終わりなら声を掛けてもいいかな。あぁでもこの恰好じゃ嫌だな。なんて思いつつ少しだけ体を外に出して、様子を伺う。

「…っ」

一瞬、息を呑んだ。
先輩の隣に、女性が立っていたからだ。
いや、隣にいるくらい何とも思わない。社会人として女性と関わりを持つことなんていくらでもあるだろうし、私も男性と会話することもある。そんなことはどうでもいい。
問題は、その女性が余りにも綺麗で、カッコ良くて、美しかったから。
スラットした体を強調するようなパンツに、黒のスーツ。長い髪を横で綺麗に纏めている。化粧だってそれ程濃くしていない、ほとんどスッピンだろう。化粧をほぼしないでこれならば、スッピンだって相当の美人だ。
二人並んでいるだけで、相当絵になる。それだけで、もう色々と負けた気になっているというのに。
気付いてしまった。それは多分女のカンとやらだと思う。
その女性の持つ視線の熱。そして、その熱い視線の先の相手の表情に。
柔らかく細められた瞳に、美しく孤を描いた唇。普段じゃ全く見られないその表情に思わず動きが強ばる。
言い表しきれない気持ちが体を襲うが、二人の足がコチラに向かってくるのが見えて、慌てて店の奥に引っ込む。目の前にあった本を取って、顔に近づけて自身のそれがわからないようにする。
高くて可愛らしい女性の声が近づいてくる。閑静な住宅街では、会話は聞こえてしまう。

「今日の夜、会いてるかしら」
「…えぇ、問題ありません」

他にも会話をしていた筈なのに、その言葉が聞こえた途端、一気に何も聞こえなくなった。二人が本屋の前を何事もなく通り過ぎて、すぐに本を離す。
力強く握りすぎて、シワがついてしまった。後で買わなくては。

きっと仕事の事だ、わかってる。多分、会議が長引いたとか、新しいプロジェクトが近いとか、多分そういう事だと思う。思うけれど。

「今夜、空けといてって言ってたのになぁ…」

小さく呟いたそれは、届けたい相手に届くことはなかった。



:::




結局シワになった本だけ買って、古本屋を後にした。
家のベッドに倒れ込むように入る。私の安いベッドがスプリングを鳴らすけれど、今はそれを気にする事もない。
気分転換どころか、気分は一気に地に落ちた気持ちだ。地面にのめり込んでる感じと言えば伝わるだろうか。
きっと彼女は仕事相手なのだろう。何もやましいことなどない。頭ではわかっている。けれど、心が受け入れない。
だって、あんなに美人で綺麗で素敵な、理想の女性の様な方が、熱い視線を送っているのだ。落ちない男の方がどうかしてる。どう頑張ったって、こんな平々凡々で、何も取り柄のない私じゃ敵わない。
それでも、選んでくれたのは先輩なんだ、私は先輩の彼女なんだ。そう自信を持ちたい。だけど、正直それも今じゃ曖昧だ。私は先輩の彼女として誇れるものが何一つないのだから。

どんどん沈んでいく思考を浮上させたのは、一つの着信音だった。
ノロノロとテーブルに手を伸ばして取るも、ただの広告。どうでもいい。ちょっと色々期待した。泣く。

でもまだ先輩からの、今日の夜は無理だ、という旨の連絡が無い。
連絡する暇も無いくらい忙しいのかもしれない。そんな中、いくら隣とはいえ、わざわざ他人の家に来るのは大変じゃなかろうか。明日も仕事な訳だし、先輩はいつも早いご出勤だし。向こうから誘ったから、断りにくいだろうなぁ、とツラツラ考える。
が、これらは全て言い訳だ。こんなところで先輩の足を引っ張りたくない。邪魔だとか思われたくない、少しでも大人のフリをしていたいだけだ。

どうしても抜けられない用事ができてしまいました。との謝罪の内容の連絡をすると、すぐに携帯が光る。
先輩からの返信は『わかった』の一言。内容はいつもの事だから別にいいのだけれど、余りにも返ってくるのが早いメールに、少しだけ胸が傷んだ。


突然、目覚ましが壊れた事、それからもう少し音が小さい普通の目覚ましが良い、との事を図々しくも目覚ましをくれた友人に伝えたら、その3日後に我が家に新しい目覚まし時計が届いた。
新しいものには、音量調節機能が追加されていた。違う、そうじゃない。

『朝だよー!!!!!起きてー!!!!!!!!!カンカンカンカンカンカン!!!カンカンカン!!!!!!!起きてー!ー!』
を私が起きるまで繰り返す我が家の目覚ましは、ご近所迷惑を考えて音量は最小にしてある。それでも充分うるさいのだが。
朝に弱すぎる私が、どうにかして目覚ましを止めてベッドから這い出る。眠い、ひたすらに。
どうして月曜日とはこんなにも気持ちが憂鬱なんでしょうね、金曜日が恋しいです。月曜日なんて来なければいいのに。

結局昨日、先輩に連絡をしてから、夕飯食べてシャワー浴びてとっとと寝てしまった。先輩が帰ってきた時に、こちらのリビングの電気がついてたりするのが、向こうの家のベランダからわかったりしたら何も言えないからだ。
お陰で早すぎる就寝は、逆に寝れない事態を引き起こした。昨日は午後まで寝ていたのだ、当然である。
そんなわけで、早く寝たのに寝不足、という訳のわからない状況の中、支度を始める。
とはいえ、疲れは大分土日で取れたし、結局職場で先輩に会うのだ。腹を決めるしかない。

「よし、やるかー」

大きく体を伸ばして、思考を目覚めさせる。
きっとこの時間ではもう先輩は仕事に行ってるだろうし、ひとまず朝から会ってこちらが一方的に気まずくなることはない。
身支度を整え、家を出る。今日は快晴、青空がどこまでも広がっていた。




::::




「あ、先輩、おはようございます!昨日はすみませんでした」
「…別に大丈夫だ」

朝から自分のデスクでパソコンとにらめっこしていた先輩に、平謝りをする。
プライベートで何かあろうが、私達は社会人だ。それを会社に持ち込んで何か言うのは、余りにも大人気ない。
だから、会社では何もそういったことを引きずらない。会社は会社、プライベートはプライベート。そう割り切ると決めている。

「で?結局どうだったの?」
「聞かれるとは思ったけどさぁ…」

相変わらず可愛くキメている同僚と、パソコンと格闘しながら会話を挟む。数ヶ月前は余裕無さすぎてそんな暇も無かったというのに、少しだけ自分の成長に気付く。

「結果としてはいつも通りだよ」

別に嘘は言っていない。いつもの様に週末に夕飯を共にして、お互いに忙しかったから土日は会えなかった。いや、ある意味会ったといえば会ったのだが、あれはノーカンだろう。
昨日の事を思い出して、少しだけ胸がじくりとした。

「うーーわ、ドン引き。あんだけ俺にアドバイスさせといて何も起きてないとか」

完全に野次馬な清光は、げぇ、という顔をさせながらパソコンを打つ手を止めた。普段から馬鹿みたいにタイピングが早くて正確な彼は、多少止めた所で何も支障は起きない。

「何をそんなにためらってるのか知らないけど、口に出さなきゃ分からないこともあるよ」

その言葉に、何も言えなくなる。
清光の見つめる瞳の先には、先輩がいた。とてつもない早さで指が動きながら、パソコンと向き合っているのが分かる。きっと一字一句ミスの無いような、完璧な書類を作っているのだろう。

「まぁ、とりあえず自信持っていけばいいんじゃない?」
「今までの会話から、初めて恐ろしく前向きな発言だね」
「そうだっけ?」




[newpage]





定時で仕事を終え、すぐに家に帰る。先輩は帰りに課長に捕まっているのが見えたので、きっと遅くなるのだろう。どちらかが遅い時は、お互い何かを言ったわけでは無いけれど、早く帰れた方が夕飯の当番になっている。
昨日買った物がまだ残っているし、特に買い物は大丈夫だろう。
二人分の食事を作り始めた時、時刻はまだ7時前だった。

『今日遅くなる。悪い』

そんなメールが届いたのは、それから3時間程たった時だった。
これはきっと、今日は遅くなるから先に食べて寝ておいて。という事なのだろう。先輩そろそろ労働基準法に引っかかるんじゃないだろうか、今月すごく働いてる気がする。
小さくため息をついてから、冷めきったご飯を一人分だけ温めなおす。さすがにお腹すいた、仕方ない。

先輩がどれほど忙しく大変でも、私に出来ることなんてほぼ無いに等しい。もっと役に立ちたいと思っても、それが逆に邪魔になっているのではないか、迷惑じゃないか、重いんじゃないかって。考えても答えの出ない問が頭の中をグルグルする。

「バカだなぁ…」

ポツリとつぶやかれたそれは、電子レンジの無機質な音にかき消された。



結局先輩が帰ってきたのは、もう日付が変わる直前だった。隣の部屋の玄関の開閉音が聞こえる。その慣れ親しんだ音が、逆に嫌だった。
私はと言えば、ベッドに早々に入ったのはいいものの、一向に訪れない睡魔に苦戦している真っ最中だ。
リビングの電気は消したから、向こうがベランダに出てもこちらが起きてると思うことはない。それでも携帯を握り締めているのは、私のわがままと、自己中心のせいだ。
先輩は何も悪くないのに、勝手に説明を求めて、拗ねて、考えれば考えるほど本当に馬鹿らしい。

『口に出さなきゃ分からないこともあるよ』

頭に浮かんだ言葉に、無理だよ、と心の中で返事をする。
だってあんなにかっこよくて、優しくて、仕事ができる人だ。正直雲の上の存在といっても間違いではない。
だというのに、その相手に自分の言葉を伝えるなんて。それを言って事態が悪い方向に進んだりしたら、もし幻滅されてしまったら。そんな考えしか浮かばない。

「…寝よう」

明日も仕事なのだ。この答えの出ない問いを考えて至って仕方が無い。
本気で睡魔を呼びたい。頼むから寝かしてくれ。だけれど、本当に睡魔が来ない。昼間並に頭がフル回転してる気がする。
それでも目を閉じてればそのうち寝るだろうと、ひたすら瞳を閉じる。
そうしてるうちに、徐々に沈んでいく感覚がする。あ、寝れる。そう思った瞬間だった。

可愛らしい音を立てて、携帯が光る。
暗く静かな部屋の中で、それは確実に私を殺しに来てるというレベルで驚かした。
焦点の定まらない視界で、慌てて電話に出る。こんな時間にかけてくる人なんて、限られているだろうという安易な考えのためだ。

「んん…はい、もしもし」

正直これを答えている間も、先ほどまで全く仕事しなかった睡魔がドンドン頑張ってくれてるもんだから、私の思考は泥沼に沈んでいっている。

『…寝てたか、すまない』

明らかに申し訳なさげなその声に、んん?と首をひねる。咄嗟に夢かな?と思った私はもう救いようがない。

「いや、大丈夫です…え、あの、先輩ですか?」

喋りながら、睡魔が去っていく感じがする。それから、携帯の画面をしっかり確認してから電話に出なかった私の安直さにもぶん殴りたくなった。

『それ以外に誰がいるんだ』
「あ!いや、その、びっくりしちゃって…」

言葉がどんどん尻すぼみになっていく。だというのに、先程までの気持ちが一気になくなったような気がして、なんとも言えなくなった。

『今、出れるか?』
「あ、はい。大丈夫です」

ベッドから出て、いつものようにベランダに出る。そんな時にはたと気づく。いつも夜に何も気にしないで先輩とこのベランダで話していたけれど、私その時いつもスッピンじゃね…?今も何もしてなくね…?これ、ヤバイんじゃね…?
ベランダに体を半分出した状態で固まっていると、電話の向こうで小さいため息が聞こえる。

『早く出ろ』
「…はい」

女は度胸だ。覚悟決めて、ベランダに出て左を向くと、いつもの様に先輩が出ていた。でも表情が疲れているような気がして、哀しくなった。

「…何をしている」

先輩の表情を一瞬見ただけで、私は即座に顔面を両手で覆った。バカみたいだと思うけれど、女としてこれは許せない。

「あのですね。お恥ずかしい話、私今、スッピンなんです。ですから、その、先輩に見せられる顔ではないというかなんというか」

そう言ってる間にも顔に熱が少しずつ集まるのがわかる。逆になぜ今まで気にしなかったのか。よくスッピンで先輩の前に出れたものだ。
指の間から先輩の表情を伺うと、いつもどおりの無表情ながらも、どこか冷ややかな視線がそこに含まれていることにぞっとした。

「お前普段から割とスッピンだろう」
「んんんんん」

心をえぐる発言、ありがとうございます。泣く。
自業自得とはいえ、自分のダメさ加減とそれがバレていた事の悲しさに心が殴られる。フルコンボだドン。

「…邪魔だ」

言葉に驚いて、思わず手を離して顔を上げた。そして、予想よりも近くに整った顔がある事で一気に心臓がはねる。ここまで近くで話したのは、久しぶりなんじゃないだろうか。
そのまま軽いキスを落とされて、切れ長の目が少しだけ伏せられる。
もう、これだけで今まで悩んでたのが馬鹿みたいに思えてくるから、自分の単純さが嫌になる。

「昨日、お前を見た」

前言撤回。
一気に心臓が嫌な跳ね上がり方をする。
何を言ったら良いのかわからず、口をはくはくとさせれば、瞳がこちらを向く先輩の視線は人を殺せるかもしれない。と何処か別の頭で思った。

「上司の手前、声をかけられなかった、…悪い」

それからくしゃりと頭を撫でられて、色々と決壊する。具体的に言うと涙腺が壊れた。

「おい、どうした」

優しく、壊れ物にでも触れるように溢れる涙を先輩が拭う。
泣けば済むと思われたくなくて、どんなに仕事で失敗しても今まで泣いたことはなかった。だけれど、だめだった。我慢ができない。自分の不甲斐なさに潰されてしまいそうだ。
勝手に嫉妬して、勝手に落ち込んで。その上何も悪くない相手に謝らせる。これ以上ないほどに最悪だ。

「すいません、自分が余りにも最低で」

涙を強引に拭って、頬に触れている優しい手をさり気なく外す。
その行動に少しだけ先輩の表情が動くけれど、私には分からない。

「やめろ」

離れかけた手首を掴まれて、少しだけ驚く。

「言いたいことがあるなら言え。言わなきゃわからない」

咄嗟に息を呑んだ。

「それを先輩が言うんですか?」

自分でも思った以上に情けない声が出て嫌になった。それから言ってしまったとも。先輩の雰囲気が一瞬こわばったのがわかったけれど、もう口は止まってくれない。

「だって言葉足りてないのなんて明らかにどっちもどっちじゃないですか。私も思った事とか全然口に出せません。でも先輩だっていつも仕事の事ととか明らかに何も伝えてくれないじゃないですか。別に先輩の言いたい事ぐらい雰囲気で伝わりますよ、伝わりますけどどうしてもわかんない時とかあるんです。先輩が言葉に出さないならって事でいつも態度で示してくれてるのは十分わかりますし伝わってます。でも、でも、それならなんで、手を出してきてくれないんですか…!」

最後の方は自分でも何を言ってるのかわからなくなってどんどん声が細くなってしまった。自分の鼻をすする音だけが響くベランダの中に気まずさが走る。それでも、もう面倒だと思われたかもしれないと思うと、どうしても顔があげられない。
そうこうしている内に、先輩の手がゆらりと上にあげられる。殴られる。咄嗟に目をつむると、頭の上に重みを感じた。いつものぶっきらぼうで、でもどこか優しさを滲ませるその撫で方に、顔を上げると何とも言えない表情の先輩と目があった。

「お前、自分が何言ったかわかってるか?」

ようやく告げられたその言葉に、思わず首を傾げる。
なんというかもう勢いに任せて言ったお陰で、正直何を言ったのか曖昧だ。言ってしまえば、思った事を言ったまでだ。そう、思った事を。

そこまで考えて、あれ、と思う。

思った事を言った。思った事。それは。

『なんで手を出してこないんですか』

涙が一気に引っ込んで、熱が一気に顔に集まるのがわかった。
何てことを言ってしまったんだ。これじゃあ襲ってくださいって言ってるようなものだし、それ以前に色々すっ飛ばしてる気がする。
先輩の顔が別の意味で見れなくなって更に俯く。絶対に呆れられた。そもそも引かれたと思う。いきなりあんな事言って、気持ち悪い。

「す、すみません、いきなり変な事言って、あの、忘れて下さい!」

逃げるべきではないとわかっていたけれど、自分のリビングに戻りたかった。この赤い顔も、気持ち悪い事を言ったのも、全て忘れて眠りたかった。
だというのに、先輩は私の顎を掴んで、無理矢理顔を上げさせたと思ったら、噛み付くように唇を齧った。

「っ…ぅん…」

最初は閉じていたが、息が苦しくなって一瞬隙間をあけた瞬間に口内に舌が侵入してくる。
そこからは、隙間から溢れる艶っぽい声だけを出すだけで、何も出来なくなってしまう。
そんなに回数を重ねたことのない、この深い口付けに私はまだまだ慣れそうに無い。

はぁ、とどちらかが息をついて顔が離れる。まだ輪郭がはっきりとしない距離で、先輩の瞳が嫌に鋭く光って見えた。

「…手を出してもいいなら、とっくに出している。そうしないのは、まだこちらに余裕が無いからだ」

少しだけふわりとした思考の中で、言葉を反芻する。余裕、とは、何の事だろうか。わからない、と何も言えずにいると、先輩が小さく舌打ちをした。自分の言葉が足りない時、そしてそのせいで相手に伝わらない時にたまに舌打ちをするのだと、気付いたのはいつだっただろうか。

「今、お前を抱いて、傷付けない自信が無い」

それは、つまり。

「…確実に加減ができなくなる」

そのままそっぽを向いて、視線を合わせなくなってしまった先輩の耳は赤い。
言葉を理解しながら、氷がじわじわと溶けるように、胸の中に広がってくる熱さにどうしようもなくなる。
お互いに何も言えなくなって、どれくらいたっただろうか。先程よりは幾分か平素の色に戻ってきた表情で、先輩が私の頭をくしゃりと撫でた。

「不安にさせたか」

その言葉に、ゆるりと首肯する。
先輩の言葉がとても嬉しい。だがまだ心のとっかかりが全て無くなったわけではないのは、気付いていた。そして、それは私が言葉にして聞かなければならないということも。
先輩は、きっととても勇気を持って言葉にしてくれた。言葉にするということは、思いを口にするのだ。それは、相手を容易に傷付ける場合もあるし、変に思われる可能性だって大いにある。それでも、先輩は口に出してくれた。私も、ここで言わなければならない。

「一緒にいた女性は、誰ですか?」

決意して言ったけれど、どうしても声が少し震えてしまった。だがそれに気づかれないように、しっかりと先輩の瞳を見つめる。
頭を撫でていた手が、一瞬止まる。先輩の瞳が一瞬逡巡するように泳いでから、すぐに合点がいったようにこちらを向いた。

「あれは別会社の幹部だ。…そうだな、うちの会社の上にある会社の更に上といったところか」

まぁ、親会社だ。
そう言われ、口を開くしかできない。すごく上の方なのだろうとはなんとなく思っていたが、そこまで上だとは。

「俺の身の振り方が光忠や会社の評価に直結するからな…上の機嫌は損ねられない」

度々課長に呼ばれて二人してどこかに行っていたのは、こうした会議の為に表情の練習のためだったらしい。
なるほど確かに先輩の表情は、初めて見た人には怒っていると取られてもおかしくない。

「え、じゃああの商店街にいたのは」
「ここの駅を中心に再開発の話が出ている。俺の最寄り駅だということで、案内役に抜擢された」

はぁー、と驚きの息しか出てこなかった。
話を聞けば、そもそもあの女性もう結婚済みらしく、しかも相手はそこの親会社の社長だということだ。
天は二物も三物も与えるとはこのことか。
それよりも、もうこの勘違いの連続に一気にいたたまれなさと恥ずかしさに何も言えなくなる。

「穴があったら埋まりたい」

ベランダのサッシにおでこをつけて俯けば、さっきよりも強い力でわしゃわしゃとつむじを中心に撫でられた。

「…あ、そういえば先輩は何かあったんですか」

電話してきてくれたということは、何かしら用事があったのではないか。出会い頭に私の奇行のお陰で話が相当飛んでしまったと思う。
ちらりと顔を横に向けて、視線だけ見ると、なんとも言えない表情が目に入った。それから、すぐに眉を寄せて、少しだけ照れくさそうに頭をかいた。

「…ダメだ」

突然のダメ出しに、え、となれば後頭部を掴まれて、またキスをされた。とっさに瞳を閉じることもできないでいれば、伏せられた瞳が目に入った。

「ただ声が聞きたかった…だがダメだな、触れたくなった」

言われた言葉にひたすら顔を赤くしてから、向こうの部屋に行ったのは言うまでもない。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -