1 | ナノ







いきなりだが、私の話を少し聞いて欲しい。あまりにもテンプレで、笑ってしまうような話だけれども。


話はおよそ今から数か月前に遡る。

私は就職という闇を乗り切り、なんとか職に就いた。新入社員歓迎会も終えて、これからだなというときに部長に呼ばれたのだ。
何かやらかしただろうかと冷や汗をかきながら、へこへこと部長の方へ行けば、既に先客がいた。
その男はこちらに気付くと、肩越しにこちらを見てすぐに部長へと視線を戻した。しかしその視線だけでわかるイケメン具合に少し驚く。
整った顔、お洒落にされた髪、どこか少しチャラさを残すが、それすらも彼を引き立てている。ここまでかっこいい人がいて、今まで気付かなかった自分が不思議だと思うくらいだった。
しかしそれに見惚れるよりも早く、部長が人の良さそうな笑顔を見せてこちらに手招きをした。部長は切れ長の瞳を優しく細めながらこちらを見る。なんでも片目は昔事故で無くしたとかで、いつも眼帯をしているが真実を知るものはいない。こちらの部長も部長で、相当イケメンであるのだが。
部長と机越しに対面すると、必然的にそのイケメンの彼の横に立つことになる。そうした事で、ようやく隣の人の背の高さを実感したが、それよりも今は部長の言葉の方が私にとっては重要だ。
入社して数週間でクビとか、洒落にもならない。本気で。

「そんなに緊張しないでいいよ」

こちらのそれを察したのか、笑顔をより深くしながら部長は告げる。それに苦笑いで返せば「それで君を呼んだ理由なんだけど」という言葉に自然と肩を強ばらせれば、またも部長が笑う。

「そこにいる大倶利伽羅が君の直属の上司になるから、よろしくね」

あ、よかったクビじゃないみたい。
即座にそう思い浮かんだ私は悪くないと思う。

ちょくぞくのじょうし…。
直属の、じょうし。
直属の上司!?こんなイケメが!?なんで!?

目を瞠目させながら、上司を見ればいい笑顔とかち合う。さっきと同じ笑顔の筈なのにどこか憎たらしい。

「くりちゃんはね、一昨年ここに来たんだけど、そろそろ後輩を持ってもいいかなぁと思ってね。お互いの為にもなると思うし。だからよろしくね」

この有無を言わさぬ感じ。そもそも新入社員の私に拒否権、もといイケメンだから嫌です、などと言う事はありえないのだ。またも苦笑いをひっつけたまま、わかりましたと告げれば、よかった、と嬉しそうに部長が笑う。
くっ…やめろ、イケメンが笑うな。抵抗ない人間はキュン死する。

落ち着け、と自分の心の中で唱えながら、隣の何も発さない先輩を盗み見れば、ばちり、と音がしそうな位の勢いで目が合った。先程までずっと部長を見ていたから大丈夫だろうと思ったのに。顔に熱が集まるのを感じた瞬間、私は逃げてしまった。彼からの視線から、とっさに逸してしまったのだ。
やってしまった…!と思いながら冷や汗をダラダラ流す。
誤解しないで欲しいのだが、決して彼が嫌だったわけではなく、ひたすらイケメンに対抗の無い私には、イケメンがそこにいるというだけで辛いのだ。輝いて見える。こんな凡人が直属の部下でごめんなさい、いや本当に、冗談ではなくて。
肩を縮めて、自己嫌悪でいっぱいになっていれば部長から声が上がる。

「じゃあ早速、外回り行ってきてもらおうかな」

いやいやいや。なんでやねん。こんなイケメンと凡人の私が並んでちゃいけないって、主に私の心臓が持たないもん。今日死ぬよ、死因?イケメンビーム浴びたからだよ!
…などと言えるわけもなく、私はいい笑顔をつけて「はい!」と言うしかなかった。



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あぁ、疲れた。足が痛い。そう、主に足が痛いのだ。
昼前に彼と共に会社を出て、何個目かの会社を出れば、すでに外は夜と夕日の狭間になっていた。会社から外に出ても、彼は何も言わなかった。ただ静かに歩き出すので、それについていくだけだ。

今日一日共に仕事をしただけだが、先輩はすごい。
相手の話をしっかりと聞きつつ、尚且つ自分の意見も言う。自然と相手方の要望に合う商品を推し、そして、しっかりと結果とする。自社の利益不利益を即座に考え、向こうの顔も立てるようにして話を進める。
そうしていくうちに買い手との信頼を築きながら、多くの会社との契約を持ち込んだ。
すごい手腕だ。私は隣でメモを取りつつ、邪魔にならないように挨拶をしただけだというのに、相当緊張した。私もいつか、先輩の様に立派になれるのだろうか。

横につきながら、再び目を盗み見ても、先程のように目は合わない。しかしそれに何かを思うよりも、歩きまくった足の痛さの方に全てを持ってかれている。それでも遅れて歩くことなどできないし、それで何か気を使わせたりなど絶対にしたくない。
心の端で、やったるぜ歩ききってやらぁ、と決意して歩き続ける。あと何社だったかな、と会社を出てすぐに告げられた今日の予定を思い浮かべる。とっさに手帳に全てメモしたが、今はそのメモを取り出すのも億劫だ。よしもう気合いだ、ひたすら気合いで乗り切ろう。
そんな事を思ってる折、隣を歩いていた先輩が突然足を止める。それにつられて私も止めるが、理由がわからない。首を持ち上げてそちらを見れば、私より相当背の高い彼を見上げる形になる。美しい金の瞳は少しだけ伏せられていて、何を考えているのかわからない。

「今日は帰る」
「え?」

帰るって、先輩家に帰るのかな?ここから近いのかな、と思っていれば、まるでこちらの考えを見透かされたように、ふぅと小さくため息をつかれた。

「…会社に帰って、今日は終わりだ」

あ、そっちか!
納得すると、それを見て先輩がすぐに足を進める。私も直ぐに歩き出し、その時にふと、隣を見ると驚いたことに目が合った。朝のあれ以来、何度見ても合わなかったのに。
どちらともなく足が止まる。夕日で伸ばされた長い影が、他の人ともに忙しなく動くのに、私達のだけが止まっている。向こうの金の瞳がこちらを捉えて逸らさずに、そのまま首ごとこちらを向く。
お互い何も言わずにただ見つめているだなんて、それだけ聞くととてもロマンティックに思うが、かなしいかな、現実とは非情だ。こちらとしてはただひたすら『うわイケメンがこっち見てる眩しい、こんな目と合わせてそっち腐りません?大丈夫ですか?』としか思えない。
暫くすると、彼の方も何かを思ったのか目を逸らし「行くぞ」と呟いてから、すぐに歩き出した。
それから会社に着くまで会話はなく、部長の「お疲れ様」という笑顔と共に迎えられた。



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「つっかれたぁ

ぼすん、と体ごと布団に突っ込めば一気にドロドロと疲れが溢れ出してくる。

あれから会社に戻り、本日の業務内容を纏めてから家に帰ってきた。その内容も大倶利伽羅先輩のやり方を聞いてやったのだが。
今はようやく家に帰り、簡単なインスタントを食べて、先程風呂に入ったばかりだ。まだ少し火照る体ではあるが、布団に飛び込んでしまえばそれも忘れているようにすぐに眠気が襲ってくる。頑張れ自分、とセルフで自分を叱咤する。ぐぐ、と腕を伸ばし明日の起きる時間に目覚ましをセットすれば、すぐに眠りに落ちた。


:::






そんな日々を毎日続け、時に怒られ時に励まされ、辛いこともあるものの、ようやく会社にも仕事にも落ち着きが多少持てるようになり、仕事に対する達成感というものを手に入れ始めた時だった。

その日は目が覚めた朝時から、どうにも気分が悪かった。いや、起きれただけマシかと自分を褒める。普段から朝に弱い自分は、社会に出たらやばいということで、友人が超絶うるさい目覚ましをくれた。朝っぱらから目覚ましに「起きてー!!!!カンカンカン!!!!朝だよー!!!!!起きてーー!!!!!!!!!カンカンカンカンカンカン!!!カンカンカン!!!!!!!起ーきーてー!!!」と叫ばれるのは、目が覚めるというか逆にムカついてくる感じなのだが。壁が厚いアパートでよかったとしみじみ思う。数ヶ月以上たった今でも、未だに隣からの苦情はない。
とはいえ、早く支度をせねばとすぐに身支度を済ませる。
そうして家を出れば、曇り空が目に留まった。傘を持っていった方がいいかな、と思ったが折りたたみ傘は持っているしそれでどうにかなるだろうと自分を納得させる。
いつもならばそれが最善だろうが、今日ばかりはそれがいけなかった。


昨日と同じく、先輩と外回りを終えて会社に帰ろうという時だった。激しい雨が地面を打つ音と共に、雷が鳴っている。先程この会社に入るときは、まだ少し曇ってるな程度だったはずだ。この変貌はなに。と思いながら鞄の中から折りたたみを持ち出す。隣に立っている大倶利伽羅は雨などなんとも思っていないような表情で空を見つめている。しかし、腕が鞄に伸びることはない。
あれ、もしかして。
懸念が確信に変わるよりも早く先輩がこちらを見る。

「俺は走って会社に戻る。お前は後から来い」

いやいやいや、そりゃないですよイケメン先輩。というかやっぱ傘ないんかい。
がし、と大倶利伽羅の腕を掴めば、少しだけ目を開かれる。しかしそれからすぐに非難する眼差しに変わった。それは口には出されていないが、上司に何してる、と言われているのが分かった。数ヶ月一緒にいればわかりますって。しかしこちらも負けはしない。

「貴方に風邪を引かれたら私がとても困ります。わがままな部下で申し訳ありませんが、この傘お使い下さい」

ここまで言えるようになるとは、数ヶ月前の自分が聞いたら驚いて倒れるかもしれない。イケメンと目を合わして、しかも話すことができるだなんて、本当に驚きだ。慣れってすごい。
腕を掴んでいないもう片方の手で傘を押し付ける。しかしなかなか受け取らない大倶利伽羅に、段々と舌打ちがしたくなる。しかしそれはお互いに同じだったようで、向こうも向こうで眉間にシワがよってきている。
とはいえ、部下である自分だけが濡れないで帰るなんてありえない。ぐしゃぐしゃに濡れた上司が息を切らして先に会社につき、後からひょこひょことなに食わぬ顔で濡れていない私が会社に戻ったら、反感を買うのは容易に想像できる。
ただでさえイケメン大倶利伽羅先輩の直属の部下ということで、毎日それを羨ましがる同僚から散々いろいろ言われているのだ。それで今日、彼を濡らして帰ってみろ。色々な報復が怖い。
そこら辺のもろもろを察したのかはわからないが、大倶利伽羅は小さくため息をついて、本当に渋々といった感じで傘を受け取ってくれた。それを見て、それじゃあ私先に戻りますね、と頭に鞄を乗せて走り出そうとすれば、ぐっと首根っこを引っ張られる。ぐえ、と汚い声を上げれば、何やってると言わんばかりの視線とかち合った。

「…コンビニまで入っていけ」

いや大丈夫ですよ!と顔の前で払おうとした手を手首ごと掴まれる。そして空いた手で器用に傘を広げる。バサリ、と開いた傘に気を取られていると、手首を離され勢い良く肩を抱えられる。背中に先輩の長い腕が回り、体が密着する。
え?と思っていればそのまま歩き出すものだから、慌ててこちらも足を進める。
肩を抱えられたまま傘の中に二人で入る。これは、いわゆる世間一般でいう相合傘だ。それもなかなかスキンシップの高い方の。
これはまずい、と頭の中で警報がなる。こんな状態を同僚に見つかってみろ、朝まで飲み会どころか、そのまま私の家で宅飲みだ。しかも片付けは私がやる方の。
気を遣ったつもりが、逆に遣われ、その上傘を上司に持たせ自分は歩いているだけ。
大丈夫ですから、と言いたくてももう今は雨の中を歩いてしまっている。下手に動けば相手を濡らしてしまう。
―――コンビニまで。
彼は確かにそう言った。その言葉を反復させ、どうにか頭を落ち着かせる。
雨と、お互いの足音しか無いような世界の中、隣を見ることができない。
折りたたみ傘の狭い中で、大倶利伽羅の長い腕は、先ほどと変わらず私の体を抱え込み、大きな手は肩を掴んでいる。どうにも密着度が高い。おかしい。よろしくない。

ドッ、ドッ、ドッ、とまるで太鼓のような音で心臓が鳴っているのが、もう緊張だけではないことに、この数ヶ月で私はうっすらと気付いていた。

彼の掴んでいる私の肩に熱が集中しているようだ。そこからじわじわと侵食していき、熱は自然と私の体全身に回っていく。
もういっそ殺せ!そう思っていた時だった。遠くの道の方に、ぼんやりとコンビニの見慣れた明かりが見える。

「あ!先輩、コンビニですよ。私傘買ってきま、す…」

すたすたとまるでコンビニが見えていないかのような真っ直ぐな歩き方で、大倶利伽羅は歩き続ける。傘を持っているのは彼なので、彼が足を止めなければ私も足を止めるわけには行かない。先輩?と慌てて声をかけても返事はない。足も止まらない。

「せんぱい、コンビニ」

横の視線とは絡まない。もしかしたら何かまずい事をしたのかもしれない。さっきとは違う意味で大きく存在感をあげる心臓に、冷や汗が頬を伝う。
そんな時、ふとこちらを切れ長の瞳だけが見る。そのぎょろりとした行動に、思わず驚く。

「このまま歩いていった方が早い」

端的、かつ分かり易い答えに、開いた口が速攻で閉じる。確かにその通りだ。そもそもコンビニはとうの昔に通り過ぎたので、この早足で歩けばもう5分もしないで会社に着くことができるだろう。その為にお金を使うことも、わざわざ立ち止まることも勿体無いということだ。
そう考えに至った所で、途端雨が一気に強くなる。

「うわ、やばいですね!先輩走りますか」

そう言えば肩を掴んでいた手が突然強くなる。
声を発することもなく、ただ手の力だけが私を縛る。こちらがどれほど視線で訴えても答えはなく、とうとう最後まで先輩が走り出すことはなかった。




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んぐしゅ!」
「んん、何その可愛くないくしゃみ」

うるさい、と睨むと隣にいる相手は声を上げて小さく笑った。むかつくこの同僚、もとい隣の席の加州清光は同い年の同じ新入社員だ。ルックスはとんでもなく素晴らしいくせに、中身が残念という、今はやりの残念なイケメンというやつだ。イケメンというと拗ねて、可愛いというと驚くほど喜ぶくらいには残念だ。とりあえずこの加州清光、やたらめったら見た目を気にする。そりゃあ社会人になれば当然だろうけど、さすがにあんたそれ気にしすぎじゃない?という事まで気にする。休みの日はネイルにエステに、エクササイズ。あれ、男だよね?

「せっかく多少は顔可愛いんだからさぁ、もう少し頑張ろうよ」
「自分より顔が可愛い男に言われても嬉しくない」

え!俺、可愛い?可愛い?ほんと?やった!と隣で一気に花が咲いた清光を横目に、本当にこれは風邪でも引いたかな?とぼんやりと思った。

結局昨日、あのまま歩いて2人で戻ったものの濡れたところはあったらしい。2人であの小さい傘に入っていたのだ、当然と言えば当然である。報告書を仕上げてすぐに家に帰って、シャワーを浴びたものの冷えた体はそのまま染み付いたようだ。
幸運な事は、今日は外回りが無いことだろうか。パソコンと向き合いながら、ガンガンと少しずつ響きだした頭に眉を寄せる。しかし後少しで定時だし、仕事はほぼ終わっている。問題ない。

「今日金曜日じゃん。飲みに行こうよ」
「却下、お金ない」

既に自分の仕事の集中力を欠いたらしい隣の同僚を軽くあしらう。体調悪いと言っても良かったが、やたらと何故か私に過保護なコイツに言うと後が面倒だと、即座に思った私は偉い。

「えぇ奢る!」
「まじで?」
「…おい」

奢るという言葉にぐるん、と自分の体調の悪さを忘れる位の勢いで隣を向けば、それとは逆の隣から声がかけられる。
清光と私で二人揃って、うん?とそちらを向けば、ぎょっと目が開いた。主に私の。

「せ、先輩?どうしました」

飲みに行こうよ、という新入社員にとってはあまりよろしくない会話をしていた為多少挙動不信になりつつも、笑顔を見せる。先輩はそれを逸らすこともなくこちらを見続ければ、静かに口を開いた。

「お前もう帰れ」

その時の気持ち、おわかりいただけるだろうか。
この会社にいらないってこと?飲みに行く話してたから?昨日コンビニの前で変なこと言ったから?というか、クビってこと?
まるで心の中にあった壁が全て崩れるようなその感覚を私は、恐らく一生忘れない。
一瞬のうちにそこまで逡巡すれば、先輩の手がするりと前髪を掻き分けて、おでこに当てられる。熱を測られているのか、と気付いたのは手が離れてからだった。

「熱がある、帰れ」
「えー!熱あんの?じゃあ俺、送ってく」
「加州は課長が呼んでいた」

「げ」と言う清光の声をどこか遠くで聞きながら、先輩の瞳を見つめる。
熱があったなんて自分でも全く気がつかなかった。

「…仕事は終えているだろう。それにもう定時だ」

まるで私の言いたいことをわかっていたかのように全て言われてしまい、開いた口は音を発することなく閉じられた。

「…わかりました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」

体調管理をできなかった情けなさと、それに気を使わせた申し訳なさにいっぱいになりながら、ぺこりと頭を下げれば満足したように先輩は自分の席に戻っていった。

小さくため息をつきながら支度を終えて、職場を後にする。謝っても、全然いいよと言ってくれる優しい職場に、きゅ、となる。いい所につけたなぁ、と思うと同時にまだ皆定時でも帰っていないのに、自分一人帰る申し訳なさがごちゃごちゃになっている。
とにかく帰ろう、この土日で治さないと笑い話にもならない。職場の大きい自動ドアを出たところだった。隣に見慣れた人が立つ。この数ヶ月ですっかり定位置になったそこに立つ人に、うっかり首をひねる。

「大倶利伽羅先輩…?」

先輩も定時上がりしたんだ、珍しいな。なんて思っていれば、向こうが口を開く。

「そんなフラフラで途中で倒れられても困る」

それは、つまり、どういうことだろうか。

どうにもうまく働かない頭のおかげで、頭上にはてなマークを浮
べる。それを見て、通じてないとわかったのか、すぐに口を開けた。

「家どこだ」
「え、あ、一駅向こうです」
「そうか」

それだけ言うと、彼は私の腕を強引に引っ張り歩き出す。え?と思いながら、足を動かす。彼は背中を向けて歩いてしまっているので表情が読めない。
暫くしてから、あぁ家まで送ってくれるのか。と納得する。それからすぐに、やばい、と心の中で鐘が鳴る。

「あの、すいません先輩、私そんな送ってもらわなくても大丈夫です」

全然元気です、慌ててそう告げれば、ピタリと足が止まる。それから肩越しにこちらを見られて、その視線に途端心臓が掴まれた気持になる。

「…わかった」

あれ、なんか怒ってる?
そう思った瞬間、彼は小さく道路に向かって手を上げる。それを、もう何も働かなくなってきた頭で見ていればいきなり体を押される。
タクシーに乗せられたのだと気付いたのは、もう車が発進した後だった。

「…なんで我が家知ってるんです?」
「…部長だ」
「あぁなるほど、納得、しました…」

そんな淡々とした会話をしながら、車に揺られながら目を閉じる。もうダメだ、地面が揺れる。頭ガンガンハンパじゃない、疲れが来たのかなぁ。とりあえず家に着いたら寝たい、あぁでもダメだ、先輩にお茶出さなきゃ。あ、掃除してないな…。





:::








目が覚めた時に、聞こえた音はなんだっただろうか。
ふわりとした浮遊感からぼんやり瞳を開く。見慣れない天井に、思考が追いつかず、私旅行とかしたっけ…?とおかしな方向に考えが進んでいく。
むくりと上半身を起こせば、頭に載せられていたらしい水布が呆気なく布団に落ちた。
ゆっくりと部屋を見渡せば、随分質素な部屋だなと思った。今寝ているベッドの他には、お洒落な本棚があるくらいだ。しかし部屋全体は黒と白の家具で統一されており、まとまっている。下手にギラギラした部屋よりもよっぽど素敵だなと思う。
というより、本当にここはどこだ?
自分の記憶が残っているのはどこまでだろうか。どうにか考えれば、部屋の外からパタパタと軽い足音に思考が遮られる。

「あら、起きた?」

ひょこりと顔を覗かしたのは、何とも可愛らしい女性だ。
あ、もしかしてここは彼女の部屋なのか?え、どちらさま?
頭の中をフル回転させても、出てきた言葉は「お邪魔してます…」という陳腐な言葉だった。

「おい、邪魔だ」
「もう、急に呼んどいて何その言い方」

そう言いながら、女性の後ろから先輩が顔を覗かぜ、そのまま部屋に入ってくる。
言ってる言葉はきついが、二人の間には花が咲いている。

――あぁ、そういうことか。

すとんと心の中に何かが落ちた。当然だ、こんなイケメンに彼女がいないわけない。世の女性はほっておくはずもないのだ。熱のせいか、じわりと緩くなった涙腺をぐ、と抑えながらベッドの横に座った先輩を見る。

「あの、ここは…」
「俺の家だ」
「すみません、本当にすみません。すぐ帰ります」

布団の上で平謝りすれば、ふと自分の服がスーツじゃないことに気づく。それからすぐに、だから彼女呼んだんだなぁ、と合点がついた。優しい人だ、とも。少しだけまた泣きたくなったのは、内緒で。

「今日はこのまま寝ろ」
「いや、さすがにもうこれ以上御迷惑かけられないですし」
「静かにしろ」

はい、とすぐに黙ったのはこの数ヶ月の先輩の教育の賜物ではないだろうか。
先輩によると、どうやら私はタクシーの中で眠ってしまったらしい。熱のおかげでずっとうなされてるし、そのまま病院に連れてこうかとしてくれたらしいが、それを決める頃には家に着いていたそうだ。
それを聞いて、ん?と首をひねる。

「あれ、でもここって先輩の家ですよね?」

熱でふわふわした思考の中だが、確かに私の家の住所を告げる先輩の言葉を聞いた。だけれど、今いるのは先輩の家だ。どういうことだろう、と口に出せば最早めんどくさいと言うような長いため息が部屋を埋める。

「…俺の家の方が近い」

渋々、と言った感じで告げられたそれにもう言及するべきではないと悟る。
というかとても失礼なことを聞いた、と思わず青ざめる。先輩が女性とどのようなお付き合いをなされているかわからないが、女子の家に勝手に上がってベッドに熱のある人間を投げ込んで終わり、など優しい先輩がする筈ないのだ。わかっていたのに。なんて失礼なことを。
御迷惑を済みません、と色々な謝罪を含めて腰を折る。先輩は何も言わないが、やはり少し怒っているようだ。今度何か奢らなきゃ、と心に誓った。そうしていると、先程よりも幾分か静かな足音が扉の前で止まる。

「お粥作ってみたんだけどどう?食べれそう?」

明るい声と共に部屋に入ってきたのは先ほどの女性だ。お盆に乗ったお粥を見て、ありがとうございます、と小さく呟く。
可愛くて優しくて気が利く。素晴らしい彼女だ。お互い良い関係なんだろうなぁ、と内心ぼやけば「ほら、ここからは女子の時間よ」と女性が先輩を追い出していた。それを見て慌てるも先輩は何事もないように立ち上がり、部屋を出ていった。
それを見届けてから、女性がベッドの脇にお盆を置いてから、こちらを見る。

「寝たから、汗いっぱいかいたでしょ。先に着替えよ」

着替えならあるから!と肩にかけていたバッグの中からジャージと下着を取り出す。

「え、この下着、新品じゃ…」

明らかに袋から取り出されていない下着に、目を丸くすれば女性が笑う。

「ごめんねぇ、下着の趣味わかんなくて適当に買ってきちゃった。あ!着替える時は私出てくから、着替え終わったら廊下で待機してるくりちゃんを呼んで。そしたらお粥食べてね!」

自信作だから。と最後までまくし立てられて、女性はぴゅっと部屋を飛び出してしまった。何とかお礼は言えたが、それも切れ切れだ。彼女にも奢らねば。と再び決めた。
ひとまず着替えるか、と服を脱ぐ。確かに汗で濡れた感触が気持ち悪かったし、それが冷えて寒くなってきていたから事実助かった。
自分では買わないような可愛い下着を履いて、大きいジャージを着る。それから脱いだものどうしようと思った。持ち帰って洗濯してお返しするのは当然として、とりあえず畳んで端に置いておこう。せっせと畳むも、大した量は無いのですぐに済んだが。

「おい、着替えたか?」
「あ、はい」

返事すると同時にすぐに扉が開く。
さっきと変わらぬ様に、ベッドの横にあぐらをかいて先輩が座れば、お粥の乗ったお盆を渡してくる。

「食え」
「あ、ありがとうございます」

渡されたお粥が美味しくて、つい胸が苦しくなる。
いい加減にしろ自分。先輩は彼女がいる、そもそも想いを寄せることするおこがましいのだ。勝手に好きになって、勝手に振られたんだから、結果的にはオールオッケー。誰にも迷惑をかけていないのだから。

―――うん、大丈夫。

「あー!なんで一人で食べさせてんの!あーんしてあげてって言ったでしょ」

開かれた扉の向こうから、声だけが飛んでくる。死角となって見えないが、どうやらこちらを見て言っているらしい。

「うるさい、静かにしろ」
「はいはい、邪魔なんてしませんよ」

足音と共に声も遠ざかると、金の瞳がこちらをじっと見て何かを訴える。なんだなんだ、と思ってもその気持ちを汲み取ることはできない。
できたのは、笑顔で対応するだけ。

「可愛い彼女さんですね」

そう言ってからもう残りほとんどないお粥を食べきれば、それを見てから先輩がお盆を受け取る。
その動きをお礼を告げると共に、ぼんやりと眺めていると、お盆を脇に置いた先輩がすぐにこちらを見る。先程と寸分変わらぬ真っ直ぐな瞳。見つめ返してもやはり、言いたいことは分からない。仕事以外だとここまでわからないとは。

ふ、と金の瞳が少しだけ伏せられた時だった。
次の瞬間、トン、と肩を押されて突然の衝撃に私の体は簡単にベッド寝かされる。それからすぐに先輩の腕が顔の横に置かれた。自然と先輩の体全部が私に多い被さるような状態になるが、かなしいかな、私の頭は突然に考える事を放棄した。

「…あれは光忠の嫁だ」
「……え?」

状況の理解よりも先に言葉の衝撃に目を大きく開く。光忠…?課長の名前だ。あの人当たり良さそうで、眼帯をして、常にかっこよさを追求している、けれどどこか読めない課長の、よめ。

「嫁!?」
「そうだ。…俺と光忠は学生からの顔見知りで、そのよしみだ」

珍しく先輩が饒舌に話すと、先輩の少しだけ長い髪がさらりと揺れる。

…ていうことは先輩とはお付き合いをされていない?
あちゃあ、すごい恥ずかしい勘違いしてたな。ごめんなさい、先輩、私喜んでます…。

両手で顔面を覆って恥ずかしさを全面に出しているであろう表情を隠したかったのだが、それをするよりも早く、両手首を先輩に掴まれて、頭よりも上に持っていかれる。
その瞬間、ようやく、あれこの状況何?と気付いたのだが、もう逃げられない。
先輩の瞳がひたすらこちらを見つめて、逃がさないようにじわりと近づいてくる。それに対応するようにベッドのスプリングがギシリと部屋に響いた。

あ、やばい。

そう思った瞬間、限界まで近づいた先輩の顔が、口先だけ触れる。
目を閉じることもできず、ただその瞳に囚われていると、先輩の顔が離れていく。
頭では何が起きたのか理解しているのに、心が全く理解していない。
なんで、なんだ、何があったんだ。
するりと、手首を掴んでいた手が離れ、そのまま私の頬に触れる。その触り方があんまりにも優しくて、暖かいものだから、色々なものが決壊しそうになる。

「…変な顔だな」

こちらの顔を見て、フッ、と笑った瞬間に自分の心臓が驚くほど跳ねる。
もうダメだ、分かっているんだ、初めて会ったあの瞬間からこの瞳に私は囚われているって。
でも、それでも、その先の結末だって分かっている。

「………やめて、ください」

ぐ、と先輩の胸板を押すがびくともしない。むしろ拒否している私に驚いているような表情だ。
しかし、私は抵抗をやめない。だって、虚しいじゃないか。苦しい。期待させないで欲しい。下手な優しさをちらつかせないで欲しい。彼女じゃないからってなんだ、それで結果が変わるわけじゃないのに。手放しで喜ぶこともできないのに。

「…離して下さい」

先輩の顔が見れず、俯き加減でそう告げれば、頬に触れていた手が離れる。遠くなる暖かさに、どここ寂しさを感じているなんて、本当に自分勝手で仕方ない。
涙を必死に我慢していた時だった。
顔に近づく気配を感じて、はっ、と顔を上げた時だった。既に先輩の顔が近づいて、そのまま唇が重ねられる。そして先程とは違ってまるで貪るように唇を齧られる。
これは、だめだ。
胸板を強く押したところで無駄だと分かっても、抵抗せずにはいられない。
そのうち息が苦しくなり、一瞬開いた口を先輩は見逃さなかった。即座に入ってきた舌に、思わず声が漏れる。

「ん…!せん、ぱ…!」

後ろに逃げようと首を曲げるが、すぐに先輩の大きな手が私の頭を支えて、何も出来なくなってしまう。
くちゅり、とどちらともなく舌を絡めて鳴らせば、先輩の瞳が細くギラつく。それを見て、獣の様だ、と熱も相まって何も考えられなくなってきた頭で思う。
それでもまだ最後の砦のように、瞳を強く閉じる。あの瞳は見れない。あれを見たら、落ちる。

「………おい」

突然止まった舌の動きと共に降ってきた声に、肩で息をしている自分は意地でも目を開けない。
返事もないことにむっとしたのか、する、とジャージの中に手が入る。それはダメだ。慌てて目を開けば、してやったりと言った感じの先輩と目が合った。いや、表情的には全くの無表情なんだけれど、どうにもドヤ顔感があるといえばいいだろうか。
入りかけた手を止めて、先輩がこちらを見る。先ほどの獣は何処かに失せ、今ではいつもの何を考えているのかわからない視線だ。

「…ここにいろ」

ぽつりと呟かれたそれは、まるで今にも消えそうで、迷子になった子供のようで。
しかし、言葉の意味を理解するよりも先に顔が近づく。それをとっさに両の手で覆えば、明らかに不機嫌になった瞳がこちらを射抜く。

「せ、先輩、私の事、好きなんですか」

我ながらなんて馬鹿な質問だと思ったが、聞き方が分からなかったし、それよりも、先輩の気持ちが知りたかった。
しかし、それに返事はなく、油断して力が入っていなかった掌を、突然にべろりと舐められる。
「ひ」と声と共に手をどけた瞬間に、一気に距離が縮まり、再び唇が重なる。今度のは触れるだけのだったが、顔の距離を保ちながら、瞳だけが変わらず射抜く。

「分かれ」

その一言だけで、心臓が鷲掴みにされた気分になる。先輩の瞳に写る自分の表情をわかりたくなくて、先輩から視線を外す。そのかわり、腕をノロノロと先輩の首に回す。

「…わかりましたよ」

わざと拗ねた口調で告げれば、先輩が小さく息を呑んだのがわかる。
向こうが口に出さずとも行動で示すのならば、こちらもそれで返そう。
触れるだけのキスをしてから、先輩の肩口に顔をうずめる。お陰で先輩の顔は見れないのが残念だが、私自身自分の今の顔を先輩には見られたくなかった。きっと赤くて馬鹿みたいな顔してるから。

「…―――好き、です」

先輩以外には聞こえないように、小さく呟く。
それからすぐに先輩から返された言葉に、どこかくすぐったさを覚えながら、胸がゆっくりと満たされていくのを感じる。まるで魔法の言葉のようだ、と心のどこかで思った。





:::








「んで?めでたしめでたしって?」
「いやそんなことないけど…。てか何でそんな機嫌悪くなってんの」

べっつにー!と返しながら頼んだパフェをバクバクと食べまくる様は、いつものカロリー気にしている姿はどこへやらと思った。

一昨日、互いの気持ちを初めて知った日―つまり熱を出して先輩に迷惑をかけた日だが―に結局熱が再び起こり、がっつりあのまま倒れたのだ。そして目が覚めたら何故か我が家の布団でキチンと眠っていた。最初に視界に入ったのは、課長と課長のお嫁さんだったので、とんでもなく驚いた事は、未だに忘れられないが。
そのまま昨日は丸一日休ましてもらい、その愚痴を、私が休んだ日の仕事を肩代わりしてもらった清光から開口一番に聞かされ、尚且つ色々バレたのは記憶に新しい。というかなぜわかった。散々私が休んだ時の愚痴を行っていたと思ったら、突然「で?大倶利伽羅先輩と何があったの?」である。恐ろしい。
結果として全て話すことになり、仕事休んだ罰として、仕事帰りにわざわざファミレスによってパフェを奢るハメになっている。もう二度と風邪は引くまいと心に決めた。

「でも実際どう?付き合ってなんか変わった?」
「いやぜんぜん」

そういいつつ、紅茶に口を付ける。あ、おいしい。そう思った瞬間に、口を開けた清光と目が合う。
おいおい、スプーンからパフェ落ちてんぞ。

「はぁ?信じらんない!あんなイケメン捕まえといて何が『いやぜんぜん』だよ、世の乙女から殺されるよ!」
「え、ごめん清光先輩の事好きだったの?」
「なんでそうなるの!?」

頭を抱えながら、うわぁ最悪この子本当に信じらんない、となかなか失礼な事をのたまっているが、気にしないでおこう。

「ちゃんと昨日『風邪治りました先輩のおかげかも…ありがとうございましたっ』って連絡したでしょ」
「ねえそれ誰のメール想定してる?私じゃないよねまさか。」
「で?」
「いや…どうせ会社で会うのに連絡する必要なくない?」
「え」
「え?」

ここで皆さんには説明しておこう。私は残念ながら恋愛経験ほぼ皆無だ。ほぼ、と言ったのは、中学の頃、突然告白され、付き合ったのかなぁなんてぼんやり思ってたら、その告白してきた男子が一週間後には可愛い女子と手を繋いで帰るところを目撃した。果たしてこれを付き合ったと言って良いのか、いやダメだろう。という訳でそこから全く恋愛をしたことがなかった私は、そういったことがよくわからないのだ。
その旨を大方聞いた清光は浅く息をついてから、がんばれ、と呟いた。うん頑張る。と返せば、お前じゃない先輩の方だ、と怒られる。ごめん否定できない。

実際、お互いを意識したところで何も変わらないのだ。仕事にそういう感情を持ち込む気は一切ないし、そもそも今日だってごくごく普通に仕事をした。恐らくそれはずっと変わらないだろうし、この感情を仕事に持ち込むことを先輩は良しとしない事を、私は仕事上の付き合いだけでも十分わかっていた。

「まぁ、ゆっくりやっていくよ」

そう言って笑えば、明らかに不満だと言いたいようなため息が、清光の口から溢れた。

「先輩、苦労してんだろうね……」
「意外とそうでもないかもよ?」
「どっから来んのその自信」

カバンを持って立ち上がれば、すぐに清光もそれに続く。明日は仕事とはいえ、もう少しゆっくりしてもよかったが、目の前の同僚がそれを許さない。飯には突き合わせたくせに、熱が再発したらどうするのだ、と学生でもまだギリギリ遊んでいるだろう時間に帰ることになったのだ。どんだけ過保護だ、と言いたかったが、その言葉を飲み込んで大人しく帰路につく。
今週はいろいろとありすぎた。出来れば、早く帰って寝たい。
そう思えば体は正直で、家に帰れば早々に眠りについた。



:::::




その日は本当に最悪だった。
とりあえずあの爆音目覚ましが鳴らなかったのが、全ての始まりだ。どうやら電池が夜中のうちに切れたらしい。時間は午前2時すぎで止まっている。
どうにか起きた時間も、これは遅刻を視野に入れなくてはならない時間で。それでも諦めることなくひたすら支度を終えて、どうにか家を出て猛ダッシュする。あの電車に乗れればどうにか間に合うはずだ。
階段を一段飛ばしで走り抜けて、どうにか改札を抜ける。そこから一気に電車の入口まで駆け抜けようとした時だった。

視界が宙に浮く、とはこのことか。

突然の浮遊感とともに、すぐに地面と相対する。やばい、と思った瞬間には、私は電車の前で転んでいた。
階段の最後の一段を飛ぼうとしたのがよくなかった。そこで躓いたらしい。当然、電車の扉は無情にも閉じられた。

恥ずかしい、ひたすら恥ずかしい。

横を通り過ぎる人達が、転んだ私をチラリと見てはすぐに去っていく。時には同情するように、時には残念なものをみるように。その視線を充分に感じながら、無理矢理立ち上がる。
途端、足に激痛が走るが、それよりも今は恥ずかしさの方が勝っている。とりあえずこの場所から逃げたい、そう思っても行けるところは駅のベンチしかない。
どうせすぐに電車が来る、落ち着いて行こう。
座って足を見ると、膝のストッキングが電線しているうえに、そこから血が流れている。それから、思いっきり擦りむいたのだろう、掌の皮がむけている。
ひとまずタオルで足を拭きながら携帯を取り出す。
すぐに会社に連絡をとり、申し訳ありませんと伝えれば、課長の笑い声がすぐに飛んでくる。それに平謝りを続けていれば、事故に合わないようにおいで、と言われ、もう二度と遅刻するまいと決めた。優しくされると、逆にめちゃくちゃ申し訳なくなるその心理だと思ってくれれば。
電話を切ると遠くから電車が来る音が聞こえる。
とりあえず、きっと今日の私の仕事も肩代わりしているであろう同僚に平謝りかな、と思いながら腰をあげた。



「もぉ遅いぃ
「はいはいごめんね、今からやるからさ」

やはり私の分の事務仕事をやっていてくれたらしい清光は、まだ午前中だというのに力が尽きていた。その肩を軽く揉みながら、こってますなぁ、そうですなぁ誰かさんのせいでなぁ、なんて軽口を叩きながら、無意識に職場に視線を彷徨かせる。

「大倶利伽羅先輩ならさっき課長に呼ばれてどっか行った」
「うぇっ、いや、別に、気にしてない」
「嘘つけ」

バレないように視線をさ迷わした私の努力は何だったのか。思っていたことをあっさりと言い当てられて、もう降参だなと大人しくパソコンと向き合う。

さて、本日の悪い事はこれだけではない。正直に言うと、ここからの方が辛かった。
隣の部署の仕事のミスが突然発覚し、方方に頭を下げに行った。ひたすら謝罪の言葉を告げ、頭を下に向けて、怒りの波を待つ。向こう方が怒るのも当然なので、私達はただ謝るしかできない、というかしない。隣の部署とは言え、交流がないわけではない。こちらだって何度も助けてもらったこともある。ならばこちらもその分支えなければいけないだろう。そんな謎の友情が悪かったのだろうか、今度は私の部署でミスが発覚した。類は友を呼ぶってか。泣く。
それでヘロヘロになりながら、遅すぎるお昼をと思えば、なんと驚き、財布がない。そういえば今日の朝はとんでもなく慌てていたのだった。
お陰でお昼は抜き。そこから怒涛の勢いで謝罪、報告書、謝罪、報告書の連続だ。
当然時間は定時をすぎるし、パソコンの使いすぎで頭は疲れている、それから精神的負担がとんでもなくでかい。泣いた。
あバタバタしすぎて先輩に全く会えていない。せめてひと目くらい見たかった、と思うのは我が儘だろうか。



どうにか仕事を家に帰れば、時間はもうほとんど今日を終えようとしていた。玄関を開けた途端、一気に疲れがドロドロと溢れ出してくる。化粧も落とさず、ボスン、と布団に落ちれば、心地よい温もりに眠気が襲ってくる。明日は目覚まし時計を買いに行こう、そう思って瞳を閉じた
――――筈なのだが。

パチリ、と目を開けば言い表しきれない気持ち悪さに眉を顰める。そうか、化粧もお風呂もしないうちに寝てしまったんだった。納得してからスマホの画面を付けると、一桁の数字が現れる。信じられない、おじいちゃんも起きていない時間だ。
風呂も目を覚ました原因であろうが、何よりも一番の原因は、この腹の減りだろう。昼から何も食べていたいのだ、当然だ。お陰で再び眠ろうとしても、睡魔はなかなかやってきてくれない。
仕方がない、とりあえず風呂だな、と重たい腰を上げた。

風呂上がりのビールが良いと気付いたのはいつだったか。次の日が土日の休みのため尚良し。
ぷしゅ、と音を立てながら静かに1人ベランダから外を見る。こんな深夜だというのに、遠くは爛々と輝いている。日本人は色んな意味で働きすぎだ。

「はぁ…」

ぼんやりと外の光を眺めていると、段々と疲れも心も落ち着いてくるように感じる。外の大きな光を見て、それがとても美しく感じる。徐々に落ち着いてきた心と共に減っていくビールに気付いて、もう一本とってこようかなと思った時であった。
聞きなれた携帯の着信音がリビングから響く。こんな深夜にどちら様だろうか、とリビングに戻りスマホに映し出された名前にぎょっとするも、すぐに電話に出る。

「も、もしもし!」
『…俺だ』

知ってます!
叫びたくなったのを抑えて、どうしましたかと問えば、電話の向こうで逡巡しているようだ。声が少し途切れて相手の息遣いだけが聞こえる。それから暫くすると、意を決したように言葉が紡がれた。

『今、ベランダに出れるか』
「あ、はい」

もしかして外に来てるのだろうか、と疑問を抱きながらベランダに出る。しかしそこから下を覗き込んでも、先輩の姿は見えなかった。

「出ましたけど…どうしたんですか?」
『いや…』

途端、隣のベランダからコンコンと音が響く。
その瞬間の私はとっさに「ひっ」とか「へぁ!」とか、まぁ大分間抜けな声を出してから、すぐにリビングに逃げ戻った。
私のアパートのリビングは、壁一枚をーそれも防火用の簡素な壁であるー隔てただけの簡単な作りだ。
とはいえ、オートロックだし駅からすぐだし、結構綺麗だ。一人暮らしのOLには充分すぎる家である。かなり満足していたし、とても住み心地も良かったので、気に入っている家なのだが。

「早くも引越しの危機が…!!」
『…落ち着け』

その声に、ハッとなる。
そうだ、落ち着け、まずは状況を整理するんだ。

「いや、あのちょっと聞いていただきたいんですけど、今、となりのベランダからいきなりコンコンって…、どうしましょう私お隣さんどんな方かも知らないんです、会ったこともないし、そもそもなんかもう人いる気配ないから住んでないものだとばかり」

どうしましょう!
そう締めくくれば、携帯の向こうからの声は聞こえない。
むしろこっちにどうしましょう…。
突然こんな話をしたって、向こうは確実にちんぷんかんぷんだと言うのに。
そうだ落ち着けとさっき言われたばかりじゃないか。よくよく考えればただのお隣さんだ。逃げる方が失礼極まりない。多分お隣さんもたまたま目が覚めて、それで何となく隣も起きてる気配がしたから少しコンコンしたくなっただけなのだ。
うん、大丈夫。

『…―もう一度』
「え?」
『もう一度、出てこれるか』

落ち着いた心に聞こえてきた小さな声に、はい、と返す。
カラカラ、と少し気まずい雰囲気でベランダに出るも、お隣さんの気配などわかるわけない。大人しく、先程と同じように外を眺める。

『出たか?』
「出ましたよ」

このやり取り何度目かなぁ、と思うと少し笑ってしまう。お隣さんはもう寝てしまっただろうか、明日謝罪した方がいいな、とふと思ったところで、再び声が紡がれる。

『少し外を覗けるか』

言われたとおり、ひょこ、と外を覗くも先程と変わらぬ光が点々とついているだけだ。

『そのまま、左向け』

左、と身を乗り出したまま首を曲げると、そこに見えたのは同じように身を乗り出しているお隣さん


―――もとい先輩の姿だった。


「え…?」
「やっと気付いたな」

驚きのあまり、耳につけたままのスマホを五階のアパートから落としかけ、慌てて空中でキャッチする。

え、なんで先輩がここにいるの、友達でも隣に住んでるの、お泊り?というか私がここに住んでるの知ってたの、あ、課長か納得、え、どういうこと?

口をパクパクと開いては閉じる。言いたいことが多すぎて逆に見当たらない。そんな私を見てか、先輩は小さく笑う。
先輩が携帯を耳から離し、ベランダの境に近づく。それから先程鳴らしたのと寸分変わらぬ音で、コンコン、と軽やかな音を立てた。まるで答え合せでもするように、暫く瞠目した後、タイミングを合わしたように2人で笑う。

「先輩、今日は泊まりかなにかですか?」

近所迷惑にならないように、お互いベランダの壁際に寄り、耳に寄せて伝える。
耳から離すと、同じように先輩も耳元に手を付ける。そのまま息がかかり、擽ったさに少し体を捻らせた。

「いや、住んでる」

うそ。叫びそうになった声をどうにか抑え、目をまたたきさせる。

「お前、目覚まし買い換えた方がいい。あれは近所迷惑だ」

あ!やっぱりうるさいんですね!ごめんなさい!
平謝りすると、髪がフワフワと触られる感覚がする。チラリと目線だけ上に向ければ、先程と何も変わらぬ無表情がそこにある。それでも、どうにもこちらの頬は緩くなってしまうものだから、勝てる気がしない。

「…でも隣に住んでるなら言ってくれれば良かったのに。」

顔を上げてそう告げれば、少しだけ気まずそうにこちらから視線をそらす。ん?と、距離を縮めると、つつつ、と目が空を泳ぎ出す。
んんん?

「何か言えない理由でもあったんですか」

意地悪くそう聞けば、観念したように小さく息を吐き出した。それからすぐに後頭部を掴まれて、こちらが息つく暇もなく、唇を噛まれる。獣のようなそれに、頭が追いつく前に口が離れる。
しかし、掴まれている後頭部が離れることはなく、顔の距離は鼻がつきそうだ。
コツん、と額同士がぶつかる。


「…隣に居ると思うと、我慢できないだろう」


その後お互いに、どうにもなく恥ずかしい思いをしたのは、内緒にしていただきたい。







イケメン上司が教育係になってから、お付き合いが始まったと思ったら、実はとなりに住んでいたんだって。
うん、そう、テスト出るよ。





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