幾許かの夢を超えて、現。 | ナノ



彼は、夕日を見つめる。

散りかけの桜と共に、彼はいつも静かにそれを見つめている。
場所はまちまちで、屋根裏だったり、廊下でふと足を止めるだけだったり、はたまた戦場だったりもする。そこで彼は、夕日を見つめてはその瞳を細くするのだ。
それを見る度に、私は彼があんまりにも尊くて、愛おしくてたまらない気持ちになる。

今日もまた、彼は夕日を見て足を止めていた。

廊下の端から見えた彼の横顔は、まるで芸術のようで、私は話しかけることすら忘れて遠くから彼を見つめた。桜の花びらと共に、彼はどこか遠くを見つめている。あの美しい情景を、いつまでも胸に留めていたい。出来るなら写真に収めるか、絵にするか、なんにせよこれ以上無いくらいの美しさ。

ずっと見ていたからか、彼が私に気がついたようだ。それから一つだけため息。足をコチラに進めてくる。それすらもが、映画のワンシーンのようで私は撮影中のこれを邪魔なんて出来なかった。

「…何している」
「いやぁ、はは。大倶利伽羅君があんまりにも美しくて。見惚れていたんだ」

全く間違いの無い言葉を告げたが、彼は納得しなかったらしく眉間にシワを寄せる。

「…やめろ」
「照れたのかい?その表情もまた最高に素敵だね。君はどこまで私を骨抜きにしたら気が済むのかな」

あぁ、今日はいい日だ。
大倶利伽羅君が私の目の前で話してくれているだけで最高にいい日なのだけれど。今日は特に。なんてったって、こんなに大倶利伽羅君の表情を見れるなんて早々無い。

「俺に構うな」
「うんうん。そうしたいのは山々なんだけど、私は大倶利伽羅君がたまらなく愛おしくて仕方なくてね。構うなと言われても、私の本能みたいなものだから。なかなか難しいのさ」

ペラペラと告げれば、とんでもなく嫌そうな顔とともに長いため息。そんな顔も素敵だよ。
唐突に、風が吹き抜けた。私は自身の髪を抑えながら大倶利伽羅君を見る。金の瞳の中に、キラキラと光る赤い夕日が見えた。

「あぁ、もうすぐ桜も散ってしまう」
春はもうどこかへ去ろうとしている。桜の下から見える、青々とした新緑に目を細めた。
晴天の空の下、向日葵と共にある大倶利伽羅君はきっと美しい。

「夏もまた、楽しみだね」
「…どうでもいいな」
「せっかくだから川や海でも行こうか。皆も連れてね。きっと楽しい」
「……」

大倶利伽羅君が怪訝そうにこちらを見る。絶対に行かない、という顔だ。別に大倶利伽羅君が行かないというなら、それはそれでいい。彼の時間は彼のものだ。私はその時間を守れればそれでいいのだから。

「でもまだ春だからね。さすがに速すぎたかな」
「…1年など、一瞬だ」
「君達にとっては、そうなのだろうね。まぁ確かに、君が来てからもう一年だと思うと、一瞬だった」

目を閉じれば鮮明に思い出せる彼との出会いを思い出して、私は口角を上げた。

「瞬きの内に終わってしまうソレを、少しでも君達が楽しめるといいなぁ」
特に、君が心地よく思ってくれれば。ここに帰ってくることで、心落ち着ける場所になってくれれば。
もし、そう思ってくれてるなら私は泣いてしまうかもしれない。私の中心は、全て君だから。

「来年はお花見したいね」
「…そうだな」

…思わず大倶利伽羅君を二度見した。
私のなんとなしの意味の無い発言に答えてくれただけで、もう死ねる勢いなのだけれど今はそれはいい。
私は、お花見したい、と言った。それに彼は、そうだな、と答えたのだ。それは、つまり。

「お花見、してくれるのかい…?」
恐る恐ると言った声で尋ねれば、彼は一瞬目元を緩ませた。

「気が向いたらな」
「絶対しよう。私にかけて誓う。絶対、絶対来年花見をしようね」

前のめりに意気込んで言った私に、大倶利伽羅君は頭をくしゃりと撫でて踵を返していった。
呆然とその背を見つめながら、私はぎゅっとたまらなくなる心臓を抑えつけた。彼は、どこまでも私の世界の中心で、どこまでも私を掻き回していくのだ。



:::


桜もとうに散った、梅雨のある日。
執務をしていれば、暇を持て余していた鶴丸がひょっこりと来た。

「よっ、少し休憩しないかい?」
「あぁ、それはいいね。そろそろ疲れていたところなんだ」

座布団を一枚出せば、慣れた様子で鶴丸はそこに座る。手にはお盆に乗ったお茶とお菓子。チョイスは煎餅。悪くない。
バリ、と煎餅の袋を開けながら鶴丸が口を開く。

「最近、ずっと雨で出陣できないなぁ。確かにぬかるむだろうが、本当に出陣してはならないのか?」
「おや、わざわざお菓子を持ってきてくれたのはそれに対する愚痴だったのかい?」
「いや?これは3分の1くらいさ。まぁ、そろそろ戦に出たいという気はあるからな」

確かに、今現在戦は全て止まっている。何せ雨の日は出陣できないのだから。暇を持て余すのも仕方ないだろう。

「そうだね、じゃあもう一度説明しようか。まず、雨が降ると地面がぬかるむだろう?」
「そうだな」
「そこに足跡がつくね。君達の足跡だ。それはある意味、歴史を変えかねない」
「それなんだが、足跡だけで歴史は変わるのかい?」

鶴丸が二枚目の煎餅に手を出す。なるほど、彼はよほど煎餅が好きらしい。

「では逆に聞くが、足跡で歴史は変わると思うかい?」
「……思わないな」
「あぁ、私もだ」
「へぇ?」

きゅる、と鶴丸の瞳が細くなる。彼ら、刀剣男士というものは、よくこの目をして私達を見つめている。まるで、見定めるかのように。
さて、私の答えは君のお眼鏡にかなうだろうか。

「そもそもね、歴史を変えた事実など誰にもわからないのさ。だってそうだろう?私達はその変えられた記憶の事すら気付かないのだから」

歴史を変えた瞬間、今いる私達は死に別の時間軸の私達が産まれる。それは、新しく生まれた私達には知り得る事ではないし、消えた私達も伝える術などありはしない。

「では何を基準に、歴史を変えた、と政府は言っているのだろうね。鶴丸はどう思う?」
「俺かい?そうだなぁ。普通に考えるなら、誰かが気付いたのだろうな。その気付くはずのなかった、歴史の修正そのものに」
「半分正解だね。世界は広いから、歴史の修整に気付く人は必ずいる」

私も煎餅を開ける。
ぬれ煎が好きなのだけれど、それは言う必要はないだろう。彼が好きなのが固めの醤油煎餅なのだから。

「残り半分は?」
「なんだ、本当に気になってるんだね。珍しい。そうだねぇ、もう半分は言ってしまえば簡単だから、宿題にしてあげよう」
「はは、驚きだな。教えてはくれないのか」
「たまには考えることも大切だと思うよ」

それもそうか、と鶴丸は外に目を向けた。どうやらこの会話はもう終わりのようだ。
外は相変わらず雨で、湿気で体中はムシムシとしている。
大倶利伽羅君は何しているだろうか。雨が好きだという情報は無いけれどもし嫌ならば、今すぐにでも照る照る坊主を100個くらい吊るさなければならない。

「君は、大倶利伽羅をよく見ているな」
「やきもちかい?悪いね、えこひいきが目立つ主で」
「いや?それはともかく、俺は大倶利伽羅の事をこれでも知ってる方でな。恐らく本丸の中ではなかなか絡みがある方だと思っている」
「うーん、逆に私が嫉妬に駆られそう。羨ましいなぁ」
「そう言うな。大倶利伽羅を羨ましいと思っている刀剣男士は多いだろうからな。っと、話が逸れたな」

くっ、と冷めたお茶を飲む。その仕草すら鶴丸はじっと見るものだから、彼には何か視姦趣味でもあるのか疑ってしまう。

「最近、大倶利伽羅はやけに楽しそうでな」
「へぇ、それは今日一番いい事を聞いた。今日のお夕飯は鶴丸の好きなものにしよう。何がいい?」
「唐揚げだな。俺は結局大倶利伽羅を置いていった身だ。偉そうにモノはいえないんだが」
「…」
「まぁ、きっとその楽しそうな原因は君に一端があるのだろう。礼を言わせてもらいたい」
「…これはこれは、驚いた」
「俺の真似か?」

「まあそうだね」と答えながら、少し俯く。
彼が、最近楽しそう。その理由に私が多少入っているらしい。それも、大倶利伽羅と付き合いの長い鶴丸からのソース。
じっと黙っていたら、少しだけ心配そうに鶴丸が声をかけてきた。

「いや、あんまりにも驚いちゃって。今、胸がいっぱいなんだ。喉に詰まって何にも言葉が出てこない。あぁ、困ったね」
「君は、本当に大倶利伽羅が好きなんだなぁ…」

しみじみと呟かれた言葉に、何を今更と返す。

「私は大倶利伽羅を愛しているんだ。彼がいれば幸せになれる」
「それを、出来れば大倶利伽羅に言ってやってくれ。きっと喜ぶ」
「そうかな。嫌がる顔が目に浮かぶんだけど」
「君は自分を過小評価しすぎじゃないか?大倶利伽羅が隣にいることを許してるんだ、誇れ」

言い方は命令そのものだったけれど、視線はどこまでも慈愛に満ちていた。
鶴丸は知らないだろうが、君達のこの私を見定めるような視線も、こうして暖かく見守ってくれるような視線も、全てが私は好きだ。
どこまでも人間らしくある神様達が、愛おしい。

「さて、それじゃあそろそろ帰るぜ」
「部屋に?」
「そうさ、俺の自室にな」

鶴丸は度々不思議な言い回しをする。
既に本丸にいるのに、帰る、という。

彼の本当に帰る場所は、果たしてどこなのだろうか。

「鶴丸」
部屋を出かけた背に声をかけると、肩越しに視線だけが返ってくる。

「暗くなる前に帰るんだよ」

返ってきたその視線は、今まで見た事の無いものだった。
漠然と、泣きそうだ、と思った。



:::



さぁさぁ夜の庭を冷たく濡らす雨は、未だに止むことはない。だというのに、月は爛々と輝いている。雲は出ている。単純に、月がある場所だけがポッカリと雲がないのだ。
おかしな世界だ、と思う。
私の霊力を編んで作っているとはいえ、なぜこうもトンチンカンなのか。私がトンチンカンだからか。なるほど。

キシリ、と廊下を静かに鳴らしながら進んでいくと目的の部屋の前につく。
勢いよく襖を開けると、寝る前だったのか寝巻き状態の大倶利伽羅君が部屋の隅で本を読んでいた。
寝巻き姿とは、なかなかやるなぁ。

「何の用だ」

視線だけをこちらに寄越して大倶利伽羅君が尋ねる。

「大倶利伽羅君、雨は好きかい?」
「…」

深い深いため息。
呆れしかないその吐息すら、私を朦朧とさせるのだから、大倶利伽羅という刀は罪深い。

「深い意味なんてないさ。単純に気になってね」
「…別に。好きでも嫌いでもないな」
「そうかい?じゃあ質問を変えよう。朝起きて襖を開ける。世界全て雨だったらどう思う?」

そこで初めて彼は持っていた本を閉じた。じっ、とこちらを見据える瞳は先の白い刀を彷彿とさせる。

「…雨か、と。それしか思わない」
「……なるほど。うん、良い事が聞けたよ。どうもありがとう」
「それだけか?」
「おや?それ以外を期待しているのかい?嬉しいなぁ。私は別に構わないよ。朝まで語り合うかい?」
「そうじゃない」
「あぁ、これだけだよ。どうしても聞きたかったんだ。君は一体何が好きなのか。気になりすぎて夜も眠れなくなってしまったんだよ」

心底くだらない、と言うように彼はまた1つ息をついた。私にとって、大倶利伽羅君が何が好きか、何が嫌いか、それは世界の命運よりも大切なのだけれど彼には伝わらないらしい。

ふと、大倶利伽羅君が苦しげに眉を寄せた。

「…なにか悩み事かい?」

酷く苦しそうにこちらを見る視線に、出来る限り柔らかく返す。

「アンタには関係ない」
「あぁ、確かにその通りだ。別に君の悩み事なんて私には一切関係無いし、君がどれほど悩もうが私の人生は順風満帆だ」
「……」
「だが、私の気持ちはそうじゃない。君が悲しいなら私も悲しい。君が嬉しいなら私も嬉しい。君が悩んでいるなら、私も共に悩みたい。どれほど人生が平和で順調でも、気持ちはそうでないのさ」

人間なんて、生きようと思えば何をしなくても生きていけるものだ。その生きてる人生に満足するかどうかで、人間は更に前に進んでいく。

私?私は大倶利伽羅君がいるだけで、順風満帆だからね。

「まぁ、話したくないことを無理に聞くなんてことはしない。話したくなったらいつか…」
唐突に彼の視線が持ち上がり、夜の闇に溶ける金がきらりと私を覗いた。あまりの美しさに息を呑む。

「1つ聞け」
「…あぁ、なにかな?君の言う事ならなんでも聞くよ」
「俺を隊長にしろ」
「……それは、一番隊の?」
「当然だ」

……なるほど。
現在、大倶利伽羅君は一番隊隊員をやってもらっている。練度が上限まで行きそうでまだ行かない一番隊のメンバーは、隊長歌仙を筆頭に今日も今日とて山を回っている。練度は充分。任せていなかったのは、歌仙との腐れ縁故だ。

「そうだね、そろそろ隊長を任せてもいい頃合かもしれない。でも確実になれるとは言えないよ。それでもいいかな」
「あぁ、構わない」

それにしても彼が隊長を望むなんて。
まだまだ彼の知らない事ばかりだ。本当に大倶利伽羅君は私を虜にしてやまない。

「それじゃあまた決まったら君に伝えるよ。夜に失礼したね」

部屋を出ようとして、足を止めた。
「あぁ、そうだ」と振り返れば怪訝そうな大倶利伽羅君の顔が目に入る。

「私は、君がいるだけでとても幸せになれるんだ。ここに来てくれてどうもありがとう。愛しているよ」

それだけ告げて部屋を出れば、相変わらず外は雨が降っていた。それから美しく輝く月。思わず「あぁ」と、感嘆の息を吐く。

「月が、綺麗だね」

今なら死んでもいい。
雨は、一晩中振り続けた。



:::




「知ってるかい?蝉が鳴くのは雄が雌を呼ぶためだと呼ばれているんだ。だから、この今庭から聞こえてくる蝉の大合唱は、全部交尾のためなんだよ」
「…そうか…」
「いやぁ、まさか大倶利伽羅君がこんなにも暑さにダメなんてね。水風呂は今用意してるからもう少し待っておくれ」

夏。蝉の大合唱と共に、大倶利伽羅君はへばっていた。いや、大倶利伽羅君以外もほとんどの刀がへばっている。
人の身で初めて夏を経験する子達もいるから、なかなか厳しいものがあるのだろう。

無事、梅雨明けに第一部隊隊長兼近侍となった大倶利伽羅君は、私が仕事の間はずっと執務室にいてくれている。大倶利伽羅君と同じ空間で仕事しているお陰で、私の毎日は輝きっぱなしだ。

さて、そんな訳で今日も執務室にいてくれる大倶利伽羅君だけれど、この暑さはなかなか辛いものがあるようだ。部屋の隅で刀を抱いている姿勢こそ崩さないものの、汗が止まっていない。

「大倶利伽羅君、暑いだろう。アイス食べておいで」
「…」

「今は仕事もそんなに無いから大丈夫さ。それに君が熱中症で倒れたなんて言ったら、私は首を吊らないといけない。涼んでおいで」

そこまで言えば、大倶利伽羅君は立ち上がって部屋を出ていった。どこまでも不服そうだったけれど。
いや、それにしても暑い。日陰や室内など全く意味の無い。

だらだらと止まらない汗と共に執務を進めていると唐突に、ぴと、と首筋に冷たさを感じた。

「っぅおあ!」

肩から跳ね上がらせて後ろを振り返れば、そこにはアイスを二本持った大倶利伽羅君が立っていた。
私としての「アイス食べておいで」は、この本丸で唯一扇風機を置いてある広間に行って少し涼んでおいで、の意味だったのだが、彼は涼むどころか食べることすらせず、アイスを二本持ってきてくれたらしい。

「お、大倶利伽羅君?」

あんまりにも驚きすぎて言葉が詰まる。
大倶利伽羅君が持っているのは、ぱひこである。数百年前からある由緒正しきアイスだ。

「アイス、食うだろう」
「く、食います、食いますとも。いやでも…あぁ、困ったね」

アイスを受け取りながら、大倶利伽羅君を見る。
きっと広間は涼しかっただろう。確かに彼は馴れ合いを好まないけれど、わざわざ暑い執務室にいるくらいなら広間にいた方がまだましだろうに。でも、彼はわざわざ持ってきてくれた。

「あぁ、なんだかこのアイスがもう、たまらなく尊く感じるよ。なんだかアイスじゃないみたいだ。食べることすら烏滸がましい」
「…大袈裟だ」
「いいや、ありがとう。嬉しい。君は本当に私を骨抜きにするなぁ」

私が食べ始めれば、大倶利伽羅君もどかりと胡座をかいて食べ始める。
アイスはもう半分位私の手汗で溶けてしまっていて、勿体ないことをしたと思った。

「あぁ、そうだ大倶利伽羅君。最近、隊長はどうだい。少しは慣れたかい?」
「…問題ないな」
「それは上々だね。歌仙がこないだ君の事を褒めていたよ。なかなかだと」
「……」
「照れる必要は無い。君の実力だ」

彼らはそもそもが戦神だ。隊長の出来ぬものなど居ないのだろう。それでも、得いなもの不得意なものはいる。彼は前者だったようだ。

「そろそろ聞いてもいいかな。君が隊長をやりたがった理由を」

口の中で、アイスが一瞬で溶ける。同時に大倶利伽羅君の視線がこちらを向いた。正確には視線だけ、だ。

「……言えない理由が、あるのかい?」
「……」

大倶利伽羅君は何も言わない。それで、私はもう白旗を上げる。言いたくないことを無理に聞くなんて。相手が大倶利伽羅君であるならば尚、私には出来ない。

「それならそれでいい。いつか、告げてもいいとなったら教えておくれ」

そこで、少しだけ大倶利伽羅君の口が開いたが、結局音にされることは無く、空気に混じって消えた。

「………いつか」

やがてポツリと呟かれた囁きは、周りの喧騒よりも静かに水面に波を立てる。

「いつか、必ず告げる」

まっすぐに見つめられた瞳は、凪いだ水面だ。それでも、私の湖は彼によって確かに揺れた。

「…あぁ、楽しみにしているよ」

この時ほどアイスが美味しいと感じた事はないかもしれない。
どろりとした甘さと喜びが、胸の中を満たした。


:::


「やぁ歌仙。ちょっと呑まないかい」

蛍が庭の中を舞う、蒸し暑い夜の事。私は日本酒を持って彼の所へと足を運んだ。
予想通り、彼はこの夜の庭を縁側から眺めており、私の一言に緩やかに笑って返した。

「あぁ、明日は非番だからね。付き合おうか」
「嬉しいねぇ。よろしく頼むよ」

歌仙の隣を陣取り、さっそくお酒を並々注ぐ。くいっと煽れば、独特の熱が喉を通った。

「あ!仕事終わりのお酒は最高だね」
「…せっかく庭を眺めて雅に呑むというのだから、雄叫びをあげるのはやめてくれないか」
「はは、悪いね。つい」

昼間の喧騒など見当たらない、静かな夜。私と歌仙の声だけが、小さく庭へと吸い込まれていく。

「…大倶利伽羅君がね、隊長をやりたかった理由をいつか私に教えてくれるらしい」
「いつか、というと?」
「いつだろうねぇ。明日かもしれないし、死ぬ間際かもしれない」
「縁起でもないことを言うものではないよ。言霊が宿る」

最後の言葉に返そうとすれば、歌仙のあんまりにも真面目な視線とかち合って逆にそちらに笑ってしまった。途端、歌仙の機嫌が悪くなる。

「こちらは本気で言っているというのに、笑うなど」
「ごめんよ。違うんだ、嬉しくてね。人は嬉しい時は笑うものさ」
「…今の会話で、喜ぶ所があったのかい?相変わらず、僕の主は難しい感性を持っている」

それでも、それを理解しようとしてくれる歌仙を愛しく思う。私も歌仙の雅の感性は難しいけれど、その心持ちすら尊く思うから。

「歌仙と初めて会った時の事を思い出した。覚えているかい?」
「当然さ。君との会話は逆に忘れる事の方が難しい」

忘れもしない。あの日のこと。
泣くことに疲れ、息をすることも嫌になった私の目の前に来てくれた刀。桜を舞い上がらせて現れた彼は、まさしく神様だった。

「私も忘れないさ。初めの一言が『風呂には入ったらどうだい』だった事」
「…君はあの時ずっと入っていなかったろう。僕は見ていたからね。知っているよ」
「いやぁ、思い出すと恥ずかしいね」
「全くだ」

「でも」と、歌仙が優しくこちらを見つめる。エメラルド色の瞳が、暗闇の中に光った。

「だからこそ今の君がいるのならば、それも必要なことだったのだと思うよ」

優しく、諭すような声だった。だというのに、自分の奥底に突き刺さる。
あぁ、確かに歌仙の言う通り言霊というのはあるのだろう。そうでなければ、ただの文字の羅列がこんなにも心に響くわけがない。きっと彼は、言霊という魔法を使っているんだ。

「歌仙のその優しさに、私はずっと救われている。ありがとう」
「…どういたしまして、と言っておこうか」
「うん。これからもどうかよろしく」

お互いに酒を煽りながら蜜な夜は続いた。思い出話に花を咲かせながら。

――――ねぇ歌仙。私は本当に感謝してるんだ。君がいなかったら私は今頃ここにいなかった。気付いているかな。伝わっているかな。
…どれほど伝えても足りないんだ。君達への愛が。



:::



「残りの暑さ、と書いて残暑と読むけれど、今年は些か夏が残りすぎてる気がするね」


背の高いトウモロコシ畑の中、私は座り込んで土に触れていた。その隣では大倶利伽羅君が、それの収穫をしている。
もう暦的には夏は過ぎているというのに、涼しいとは感じない、むわりとした暑さが未だにこの本丸には残っていた。

「ねぇ大倶利伽羅君、何か涼しくなる事とか知らないかい。先人の知恵を教えておくれ」
「知らないな」
「それは残念」

真夏の煌々とした日差しは過ぎ去ったものの、未だに日差しは辛いものがある。
麦わら帽子を被っているとはいえ、流れる汗は止まらない。

「おや、これはこれはミミズじゃないか。私達の庭をよくしてくれて助かるよ、これからもよろしく」
「…」
「あぁ、今年も美しい野菜が収穫できたよ。君達のおかげさ。ありがとう」
「…おい」
「なんだい大倶利伽羅君。何事も言葉にするのは重要だよ。通じる通じないは関係なくね」

怪訝そうに見つめる彼の籠の中には、多くのトウモロコシが詰められていた。
夏の日差しが、あんまりにも大倶利伽羅君に似合うものだから、私はサングラスをしたくなる。だけどそうすると、フィルター越しに彼を見ることになるからしたくない。ううん、困った。私の目が潰れたら、それはきっと大倶利伽羅君のせいだね。

「収穫終わったんだね。どうもありがとう、一本だけ茹でて皆に内緒で食べちゃおうか」

よっこらせ、と立ち上がると立ちくらみがした。普段から書類仕事ばかりだから、体力がなくなってしまったようだ。

「、おい」
「あぁ、悪いね。少しくらりとしてしまったみたい、」

だ。続けられる声は、するりと膝下に入れられた腕と、空中に浮いた体の浮遊感によってかき消された。

「お、大倶利伽羅君?」
「黙っていろ」

私を抱いたまま歩いていく大倶利伽羅君。きっと優しい彼は、私を心配してくれたのだろう。ただ、少しだけこの体制はいただけない。

「大倶利伽羅君、大倶利伽羅君。この抱き方はどうかと思う」
「思わないな」
「いや、だってこれ、あれだよ?お姫様抱っこと呼ばれるものだよ。それに私歩けるから」
「黙っていろ」

2回目。黙ります。
どうやら執務室に向かってくれているらしい。
彼は本当にさらりとこういう事をする。構えていないところからのロケットランチャーのような爆撃だから、私はいつも受身も取れず丸々焦げている。
やがて執務室についたらしい、そっと畳に降ろしてくれた。

「ありがとう、すごく助かったよ。あとでトウモロコシ食べようね」
「布団を敷く」
「いや、そこまでは大丈夫だよ。ただの立ちくらみに大袈裟さ」

これは本心だった。現にもう立ちくらみはすっかり治っているし、出来るなら大倶利伽羅君とトウモロコシを茹でに行きたいと思うくらいにはピンピンしていた。

だが、どうやら大倶利伽羅君の琴線に触れてしまったらしい。

「…大袈裟?」
「? あれ、大倶利伽羅君怒ってるね?待って、落ち着こう」
「黙れ」

ひく、と喉が鳴った。ここまで怒っている彼を見るのは初めてだ。もちろん、そんな表情ですら尊くて愛おしくてたまらないのだけれど、それを言える雰囲気では無い。

「人間の弱さを知らないのか?人は手入れで治らない。火に炙られれば跡形もない。床についてそのまま起きないことなぞ、ザラだろう」
「…」
「アンタだって人間だ。…どこまでも弱く脆く、簡単に呆気なく死ぬ」
「…お、大倶利伽羅く」
「だというのに、アンタ昨日も夜遅くまで仕事をしていたな」

……………おや?流れ変わったな?

首をひねる暇もなく、大倶利伽羅君は矢継ぎ早に言葉を続けてくる。

「俺は昨日寝る直前にわざわざ顔を出したな。『仕事は』と」
「あ、あぁ。そうだね。よく覚えているよ」
「だが執務室は結局明かりが消えることは無かった。どういうことだ」
「! 今日ずっとなぁんか機嫌悪いなぁって思ってたけどもしかしてこれが原因かい?」
「だったらなんだ」

なんだも何もない。そんなこと、私が思う事なんてただ一つだ。

「そんな事気にしないで早く寝なきゃダメじゃないか!具合が悪くなったらどうするんだい!」
「アンタがそれを言うのか」
「私は慣れてるから平気」
「なら俺は刀だから平気だ」
「そういうことじゃないだろう。君達が風邪をひかない保証も決まりも無いんだよ」
「アンタが体調を崩さないという保証も決まりもないな」
「そ、れは…そうだけれど……」

確かに昨日は書類が終わらなくて寝たのはとても遅くなった。だが、それは彼に任せられる書類が無かったわけだし、彼は寝て然るべきだ。

「私は政府の中間管理職だ。君達に任せられない仕事もある。それを夜にやっているだけだし、別に体調は崩していないだろう」
「さっき倒れかけた」
「立ちくらみくらい誰だってするよ」
「俺はしない」
「健康な証拠だ。嬉しい」
「…」
「…」

話は平行線。大倶利伽羅君は大きなため息を吐き出してから、覚悟を決めたようにこちらを見た。

「…次同じような事があったら、アンタと1ヶ月は口を聞かない」
「あぁっと、ごめん私が悪かった次からはしっかりと言うからそれだけは勘弁しておくれ…!!!」

今の私の状況を伝えよう。日本人の伝家の宝刀。DOGEZA、土下座である。およそ今までで最速の速さだったのではないだろうか。頭を擦り付けながら懇願する。
もう負けでいい。政府の機密書類とか知ったことじゃない。大倶利伽羅君と話せなくなるくらいなら、こちらの事くらいなんだって話そう。
後にこの光景をたまたま見かけた山姥切に「鬼気迫る雰囲気だった」と言われた。うん、間違ってはいないね。

「…主たる人間がそうやすやすと頭を下げるな」
「私の頭一つで大倶利伽羅君と話せるならむしろ安いものさ。それにやはり私が悪い。君に隠し事なんてしてはならないね」
「…」
「? 大倶利伽羅君?」

一瞬、大倶利伽羅君が酷く嫌な顔をした気がしたけれど、彼は何も言わずに立ち上がった。どうしたのかと伺えば「トウモロコシ、食うんだろう」と返ってくる。

「茹でてくる」
「え、私も行くよ」
「待っていろ」
「……」

明らかにむすりとした顔を見せたはずだが、大倶利伽羅君は気にせずに茹でに行ってしまった。
その後、二人で食べたトウモロコシは格別に美味しく感じた。


:::





蝉が死んでいる。夏の終わり、鳴く気力もなく、天に腹を見せて死んでいる。
あれほど力強く鳴いていた彼らも、今はナリを潜めかけ、弱々しく地面に横たわるのみ。
羨ましい事だ、と思う。
彼らはきっともうするべき事を終えたのだ。番を見つけ子を成し、未来へと己の命を繋げる。それら全てを終えたのだ。
誰に言われるでもなく与えられた本能のままに、夏の間中泣き叫び存在を証明する。彼らは、恐ろしいほどにまっすぐだ。そう、それこそ、

「主?」

彼らのように。
振り返った先には、見慣れた紫色がいた。思わず口元が緩む。

「あぁ、長谷部。どうしたんだいこんな所に。今日は非番だろう」
「いえ、少し歩こうと思いまして。その際主を見かけたのです」
「わざわざ来てくれたのかい?それは嬉しいねぇ」
「…何をなされていたのですか」

長谷部が隣に立ちながら尋ねてくる。私の足元に落ちた蝉を見せれば、僅かに長谷部の目が開かれた。

「これは、蝉ですか」
「うんそう、どこからどう見てもまさしく蝉だ。正確には蝉の死骸」
「埋めますか?」
「うん、そうだね、埋め……え、埋めるのかい?」

思わず流れで頷こうとしてしまったのを抑えて、隣の長谷部を見ると至極当たり前のような顔をしてこちらを見ていた。

「? 死んでいるのですよね。ならば、埋めるのかと」
「あぁ……確かにそうだね。埋めて、あげようか」
「俺がやりますよ」
「いいや。私もやりたい」
「…汚れてしまいます」
「それじゃあ一緒に汚れよう。それでお風呂に入ろう。これでどうだい?」
「…わかりました。主の思うままに」

少し不服そうな長谷部に笑いながら、その場にしゃがみこんで地面を抉る。長谷部も、同じように掘ってくれる。そこそこの深さが出来ると、奥の方の土はとても冷たく感じた。それに暗い。

ざくざく、ざくざく。

ただ無心に穴を掘る。

ざくざく、ざくざく。

もっと深く。

ここに、あの蝉は入る。体を分解し、土に還る。そう、還るのだ。魂を昇華し、体を地に帰し、廻ってまだ生まれでる。来年の夏に、また泣き叫びにくる。


あぁ、なんて、なんて羨ましい。


「―――主!」

びくり、と肩が震えた。長谷部が肩を掴みながら、私を覗き込んでいる。その表情が随分と切羽詰っていたものだから、こちらが驚いてしまう。

「どうしたんだい長谷部。何かあったのかい」

「…いえ…突然申し訳ありません」

ゆっくりと掴まれていた肩が離れる。彼の手は当然土で汚れていたので、私の肩は泥に濡れた。全く気にしていなかったが、反応したのは長谷部の方だった。

「あっ、主!肩に土が…俺のせいですね、申し訳ありません。今すぐ着替えを」
「いや全然大丈夫さ。それよりも、この蝉、埋めてあげてくれないか」

指で指せば、それなら、と長谷部は快諾してくれる。蝉の上に土を被せれば、徐々にその体が見えなくなった。

「…主は、蝉に何を思ったのですか」

半分位穴を埋めた時。長谷部が唐突に聞いた。ふむ、と考える。穴を見つめる紫の瞳は、何も見せない。

「そんなのは簡単さ。たったひとつ、羨ましい、だ」
「羨ましい、ですか」
「そう。なんてったって彼らはどこまでもまっすぐだ。生まれて土の中で眠り暮らし、やがて外に出て番を見つけ子を成すために泣き、そして死ぬ。どこまでも決められたルーティンワークでも、それが彼らの生き方であり、誇りだ。私はそれが羨ましい」

長谷部が疑問の視線を向ける。その視線の意味合いがあんまりにもわかりやすくて、ふは、と笑ってしまった。

「長谷部。君は、死んでしまいたいと思ったことはあるかい」
「……、…。…はい」
「うん。私もある」

お揃いだ、そう告げればかち合った瞳が淡く揺れる。

「私という存在が許せなくなった。私なんかいなくていいから、私の大切な人達を返して欲しいと願い、そして最後には全てを恨んだのさ」
「…」
「何故生きてるのかわからなくてね。寝る理由も食事を取る必要性も、ましてや風呂や排泄すらも私には不要と感じたのさ」
「…知りませんでした」
「話してないからね。当然さ。でも今ではそんな事すら考える暇が無いよ。何故かわかるかい?」

長谷部はふと瞳を伏せた。一瞬の逡巡の後、口を開く。

「大倶利伽羅、ですか?」
「………はは!確かに!間違ってはいない。大倶利伽羅君の事を考えていると、1日なんて一瞬で終わってしまうだろうね」

長谷部の両頬を自身の手で挟んで、こちらを向かせる。藤紫の瞳がキラキラと瞬いた。

「私の今の生きる理由は何よりも君達なんだ。君達が私の隣にいてくれる。それだけで、明日も生きよう、それどころか胸が満たされて涙が溢れそうになる。……あぁ、改めて言うと酷く恥ずかしいね」

手を離して、土に埋められた蝉を見る。
逞しく強く美しく生きる彼らの様になれたらと。その生き方に誇りが持てるようになれたらと。
隣にいてくれる刀達に、胸を張れる生き方ができたら、と。

…なんてね。烏滸がましいのは、私の方だ。

「ねぇ長谷部。君は優しい子だね。私は今日、君と話せてよかった。ありがとう」
「いえ、俺は何も」
「謙遜しないでいいんだよ。あのね長谷部、これは内緒なんだけれど私はあの蝉を埋めてあげる気など全くなかったんだ」

長谷部が目に見えて不安になる。恐らく、余計な事をしたとでも思ったのだろう。首を振って、それを否定する。

「だって私はこの蝉を羨ましいと思いこそすれ、悼んでやろうとかは一切無かったんだ。だけど君はすぐに『埋めますか』と聞いてきた。その魂を昇華させてやろうと。…嬉しかった。誰かの優しさは誰かを幸せにするんだね」

途中で放置されてしまった穴をしっかり埋めるために、更に土を被せる。
来年もまた、来れるといいねと思いを込めて。

「本当に君達はすごい。私の考えなんて、一瞬で変わってしまうんだ」
「…主」

「ん?」とそちらを向けば、いやに真剣な長谷部の視線とかち合った。

「優しさ、というものは俺達の心の中からは出てきません。あくまでも俺達は刀ですから。そもそも感情そのものを持ち得る事自体、滅多にある事ではありません」

そこで一旦、長谷部は言葉を切った。紡がれる言葉がまるで歌のようだ、と漠然と思う。

「ですから、この気持ちはどこから来るのかといえばそれは人からです。人から感情を与えられる。そしてその人というのは、主、貴方でもあります」
「…」
「ですから、俺達が優しいというのならばそれは、貴方の影響でしょう。優しい人の周りには、優しい人が集まると言う言葉を聞いたことがあります。…刀に、当てはまるかはわかりませんが」

あぁ、この刀の神様達は優しすぎる。彼の言葉が全て染み込むみたいに体に入ってくる。私の体をふわりと持ち上げて、そのまま布団に包んでくれるような。あまりにも心地よい優しさだ。

「あ、主!?どうしました!」

唐突に慌てだした長谷部に首を傾げたが、すぐに私が泣いているのだとわかる。


「あぁ、ごめん。あんまりにも嬉しくて嬉しくて。不思議だね、人って嬉しくても涙が出るんだよ」
「…えぇ、そうですね。不思議ですね」

つい、と長谷部の親指の腹が私の頬を拭いてくれる。それにつられて顔を上げると、酷く柔らかく微笑んだ長谷部と目が合った。

「…君のその表情、好きだなぁ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「君達の笑顔は魔法の様だ。一瞬で私の胸を満たすのだから」
「俺にとっては主が魔法の様ですよ。主がいてくれるからこそ、俺達は人の身を得て戦うことが出来ます」
「…それじゃあ、私たちは魔法使いだ。きっとどんな軌跡も起こせるよ」

笑うと、長谷部も破顔した。良い年した人間と、数百年生きてる刀のふざけた世迷い事だ。それでも、私たちは今だけは魔法使いだった。

ねぇ、長谷部。本当に心の底から思うんだ。君たちは魔法使いだよ。そうでなければ、こんなにも心が満たされていっぱいになるとは思えないんだ。
だって、ほら、涙が止まらない。胸が痛いんだ。なんだか、叫び出したいくらいだ。君達が大好きだよって、愛してるよって、叫びたいんだ。

君達と、共に生きていたかった。


:::






秋も中ごろに入り、とうとう木枯らしが吹いた翌日の事。

とす、と何の前触れもなく、私の胸に突き刺さった弓矢。「え」と間抜けな声があふれると同時に、ジワジワと広がり出す胸の血の海と、腹の中から沸き上がりだす血液の塊。

「ぐ、あぁ…!!うあぁ!!!」

べちゃべちゃと口の中から溢れ出る血を止めることなくして、廊下を汚す。その場に膝をつけば、袴が血でじわりと染まった。
必死に首を回す。私を射った敵が居るはずだ。だというのに、視界がぼやけだしてなにもわからなくなってくる。なんだ、なんだこれは。心臓がドクドクと焼けるように速くなる。指先が震えて止まらない。涙も血も全て溢れ出してくる。

痛い、苦しい、熱い、熱い、苦しい、熱い。

「うぁ…あぁ!ああぁあぁああぁあああぁぁあ!!!!!」

バタバタとあちこちから足音が聞こえる。誰かが私を覗き込む気配がしたけれど、それすらもう私の世界には理解してくれない。
皆の声が聞こえない。頭が割れるようだ。何も聞こえない。

熱い、熱い、熱い。寂しい。どこにいるの。熱いよ。怖い。どこ。隣にいて。寂しい。怖い。

大倶利伽羅君、どこにいるの?

伸ばした手が、誰かに掴まれた気が、した。



続きます……
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