いつかの夢 | ナノ



血の匂い、汗の臭い、折れた刀、泣き叫ぶ声、木霊する呪い。
地獄だと、誰かが言った。
違う、ここは地獄なんかじゃない。
ここは、ここは。




ぼんやりと視界に入ってきたのは、人の顔。最初は輪郭を伴わず、ボヤけていたのだが、徐々に視界も思考もはっきりしてくる。
そして、それがよく見知った顔だと分かり、とりあえず手刀しといた。

「いっ…た!信じらんない、うなされてたから起こしてあげようと思ったのに」
「もっと普通に起こせ」

よいしょ、と布団の上から退くのを見て、本当にコイツなんなんだと心の底から思う。俺がうなされていたからと言って、普通布団の上に馬乗りになって起こすだろうか。朝から心臓に悪い、悪すぎる。
だが、確かに夢見が悪かったらしく、ひどく気分が悪いのだから一概にコイツを責められない。未だに手刀された頭を痛い痛いと言いながら、慣れた手つきで俺の部屋の襖を全て開けていく。
そういうのは主のやる仕事じゃないと言うのに、コイツはやたらそういった家事を進んでやりたがる。光忠が昔「やることなくなっちゃう」とボヤいていたのを覚えている。
布団から出て、部屋を片付ければ突然違和感に襲われる。しかし、それはすぐに思い当たった。

「おい、光忠はどうした」

彼の姿が見えないのが違和感の原因だ。そもそも今何時なのだろうか。日は昇っているから夜ではないのだろうが、そんな時間になるまで俺が寝ていて、しかもそれを光忠が咎めないとは思えない。
この本丸では光忠と大倶利伽羅は基本的に行動を同じとされる。顕現した時期が近い事もあり、戦場をよく共にするからだ。その際、お互いに普段から行動を知り、呼吸を合わせていたほうがより戦場では戦いやすい。
しかし、今日はその光忠がいない。
本丸でずっと共にいる、というわけではないが、もし今日出陣があったなら俺はとんでもない失態を犯したのではないか。そう思い襖を開けて終えて、こちらを向いた主に聞いたのだ。

「光忠なら万事屋に買い物に行ってもらってる」
「…なら今は何時頃だ。他の奴等はどうした」
「皆、出陣と遠征。今は、私達2人きり」

それだけ言うと、背を向けて歩き出してしまう。おい、声を掛けて部屋から出ると、廊下を曲がりかけた足が止まりこちらを向く。
その表情は言葉で表すことが難しい感情を表していた。悲しい、けれど嬉しい。なんとも言えない、眉間にシワがより、目尻には確かに涙が溢れかけている。しかしそれでも口角を上げているのが、よりいっそう表情を錯誤させている。
こちらの困惑の思いが伝わったのか、表情はすぐに消え、いつも通りの笑顔を浮かべてアイツは言った。

「お昼にしよ!もうお昼の時間だからさ」

またすぐに背を向けて行ってしまったのを見て、仕方無しに部屋を出る。確かに日は頭を超えそうだから、ちょうど昼時だろう。季節は夏前。新緑の芽が顕れている。それを見て、再び違和感に襲われたが、遠くから己を呼ぶ声が聞こえてすぐにそれは拭われた。
誰もいない、静かすぎる本丸に、二つの声だけが響く。




「あぁー美味しい。お腹すいてたんだ」

お昼、と言われ出されたのはそうめんだ。確かにうまいが、それほどまでに感動するものか、少しだけ首を捻るもコイツは変な感覚を持ってる奴だったなとすぐに納得する。自分の主を変だと言うのは恐らく長谷部あたりから押し切られるだろうから、言ったことは無いが、それでも変だと思う。
冬を好きだというが、冬の晴れた日は嫌いだという。夏は嫌いだが、夏の夜は好きだという。運動は苦手だが、畑仕事や草いじりは好きだという。涙は流した方がいいというが、コイツの涙を見たことがない。
どうにもその矛盾だらけのように見える感覚は、俺には理解ができない。

「大倶利伽羅、美味しくなかった?」

どうやら手が止まっていたらしい不安げな顔がこちらを見つめている。
いや、と軽く返して残ったそうめんを全て取れば、絶叫が響く。先程までの少しだけ気落ちした姿はもうどこにもない。

「最後の一口っ…!許せない!」
「別にそうめんくらい良いだろう」

取ったそうめんを全て口の中に収めれば、信じられないというような顔をしている。それを横目に立ち上がり、皿を台所に持っていく。それに続いて後ろからトボトボと歩いてくる姿は、正直そうめんでそんなにか?と思ってしまうほどだ。それでもそれを仕方ないな、と思ってしまうくらいには、コイツを気に入っているのも事実だ。

「…冷蔵庫に光忠が作ったわらび餅があっただろう」
「え、ほんと!?」

パッ、と顔を上げ持っていた皿を俺に預け、冷蔵庫に直進する。今までの態度は何だったんだ、嘘だったのか。これでおやつがない、と光忠に怒られたら主が悪いと言っておこう。そう心で決め、皿を洗い始めたのも束の間、唸る声にそちらを向く。

「どうした」
「いや、わらび餅どこかなぁって思って」

冷蔵庫を開けながら、こちらに向けて首を捻る姿は酷く幼い。
皿を洗う手を止め、隣に立つ。冷蔵庫を覗けば確かにわらび餅の姿はない。おかしい、確かに昨日光忠が作っていた筈だが。

…昨日?
途端、体中に違和感が走り、言い表しきれない胸のむかつきと焦燥感に襲われる。
頭の中にフラッシュバックの様に光景が映る。
昨日、確かに光忠はわらび餅を作っていた。俺は隣でそれを見ていた。見ているだけで、本当に何もしなかったが。ただたまに主がつまみ食いに来るのを止めるために、入口付近を見張っているだけ。
そうだ。それでやはり予想通り主がつまみ食いしに来たから、それを止めて、追いかけてきた近侍が、大将、と笑いながら呼んで、それに首根っこ捕まえて渡した。
それは、確かに昨日のはずだ。
寝て、起きて、今日が来たはずだ。

足の先から頭の頂点までを走る居心地の悪さが、全身を打つ。頬を汗が伝うのがわかったが、それが暑さからではないのは明白だ。

昨日、昨日は。
慌てて廊下に出る。後ろから俺を慌てて呼ぶ声が聞こえたが構っていられない。
そうだ、この記憶は確かに存在する。俺の物だ、確かに、昨日の俺の記憶だ。
廊下からは先程と同様に、新緑の木々が美しく輝いている。
普通の時に見れば、それはそれは感動するくらいの素敵なものかもしれないが、残念ながら俺は平素でもこれに感動する心は持ち合わせちゃいないし、何よりも今回はこれが最悪の光景に見れてならない。

「大倶利伽羅?」

突然飛び出した俺を追いかけてきたのだろう、後ろから声が掛かる。
途端、なぜ、という疑問符が心に浮かぶ。俺の違和感をなぜ主は感じていない。例え人間であろうとも、審神者だ。そもそも主はそこまで審神者としての力が弱いわけではない。俺がこれほどまでに感じている違和感をなぜ感じていない?
頭が、辿りついてはいけない答えに着こうとしてるのがわかる。
背中に嫌な汗が伝う。ゆっくりと振り返れば、首を傾げて突然飛び出した俺を不思議そうに見つめる瞳がある。

「アンタは…」

聞いたらダメだと、そう頭の中の何かが告げる。それでも一度開いた口は止まらない。戦場でもここまで嫌な気持ちに襲われないだろう。
朝、気付くべきだった。目が覚めてここまで誰もいないことにもっと違和感を持つべきだった。
昨日、確かに光忠はわらび餅を作っていた。俺は隣でそれを見ていた。見ているだけで、本当に何もしなかったが。たまに主がつまみ食いに来るのを止めるために、入口付近を見張っているだけだった。
やはり予想通り主がつまみ食いしに来たから、それを止めて、追いかけてきた近侍が、大将、と笑いながら追いかけてきたから、それに首根っこ捕まえて渡した。
確かに、昨日の記憶だ。
思い出す。思い出した。思い出してしまった。



昨日、本丸には、雪が降っていた。



「誰だ」


ヒュ、と喉がなる音がした。本丸の雰囲気が一変する。今までそよそよと凪いでいた木々は一気に音を立てて暴れだす。晴れていた空は夕焼けに変わりだし、赤の空が世界を染め上げていく。余りの変化に、無意識に本体に手を掛ける。ほぼほぼ本能に近いその動きは、誰に対しても動く。例えその相手が、主だったとしてもだ。

「何もない。何もないわ。何もなかった、何も起きてないわ」

ブツブツと呟かれるが、顔は下をむいてしまっていて読めない。

何か声を出すべきか、だが相手を下手に刺激できない。もしあれが主でなく、主を模した何かなら簡単に切れるのだが、そうもいかない。霊力が、完全に主のものだからだ。己の中にも流れている、間違えることのない気の流れ。
じわりと背中に嫌な汗が滲み出した。

ごとり。

部屋の奥から何かが転がり落ちた音がして、思わず体が強ばる。コロコロ、と軽く転がってから主の足元についた『それ』を凝視する。
黒い物体、丸くて、大きい。
体に旋律が走る。見間違う筈がない。あれは戦場で幾度となく見てきたものだ。

「…おおくりから」

ぽそり、つぶやかれた言葉に返事はできない。

「おおくりから」

主が顔をあげた途端、体中に悪寒が走る。
酷く歪に上げられた口角、涙で赤く赤く染まった瞳、やつれた頬。

―――これは、誰だ?

「大倶利伽羅!!!」

叫んだ途端に、主を中心に景色が一変する。
まずい。思った瞬間には既に景色は一変し、どこかの部屋へ来ている。畳は刀傷で割かれ、あちこちに血しぶきが飛んている。綺麗だった状態など見る影もないが、この部屋を俺は知っている、
主の執務室だ。よくここで仕事をし、たまに抜け出しては、結局ここに戻ってきていた。部屋をもっと広い所に変えるか?と問われたときに、なんやかんやここが気に入っていると答え、その言葉通り大して広くもない部屋をとても愛していた。

景色の変化から、すぐに主を見遣れば、ドクリとわかりやすく音を立てて心臓が揺れる。

部屋の中心、そこに『それ』はいた。いや、ずっといたのだ。この世界に彼女は、ずっと共に俺といた。

「…っ」

部屋の中心。血だまりの中心に『それ』はいた。
美しく背筋を伸ばし正座をして、だというのに着物は血で見る影もなく赤に染まっている。

首のない主が、そこにいた。

先ほど、音を立てて転がってきた『それ』を、首のない主が拾う。そこでやはり先ほど転がってきたのが人の生首だったのだと理解した。首なしが首を持つように、まるで当たり前のように自分の頭を拾った主は、その頭を自身の膝に乗せこちらに向けた。

生気のない、虚ろな瞳は半分だけ開かれ焦点は定まっていない。だが表情は先程のようにやつれていない、落ち着いている。それがやたらこの異常な光景を、より錯誤的にしていた。

「大倶利伽羅」

まるで人形が喋るように、口だけが動く。思わず抜刀しかけるが、もうまともに剣が振るえる気はしなかった。
自分の中で、あれが主か否かの判断がつかない。見る限り明らかに主ではない、何せ首のない体が、自身の首を膝にのせているのだ。
だが俺を呼ぶ声が、流れる霊力が、ここにいる魂が、あれを主だと言っている。

「大倶利伽羅」

声が頭の中で反射する。何度も何度も呼ばれる名前は、俺の思考を奪っていく。まるで酒のように、はっきりしなくなってきた頭の端でも、変わらず警報は鳴り響いている。
あれは主だ、あんなものが主なわけないだろう、主だ、違う、そうだ主だ、そうではない、主、ダメだ違う、主、主だ、主、

「おいで、大倶利伽羅」

片手がこちらに伸ばされる。いつものように。夜、縁側で出会った時のように、朝、起こしに来る時のように。優しく、こちらに手を伸ばしている。

「もう、大丈夫よ」

そうか、大丈夫なのか。もう苦しまなくていいのか。あの苦しみをもう忘れても大丈夫なのか、もう、もう、主を失わなくていいのか。

ふらり、足がそちらに向かう。
ゆっくりと踏み出せば、うつろな瞳が、こちらを向く。そしてすぐにやわらかく微笑むのだ。
あぁ、やっぱり主だった。



「大倶利伽羅!!!!」

後ろから腕を引っ張られた、そう思った瞬間に俺の意識は沼に沈んだ。





:::::::




検非違使が来た。
そう一軍が告げられたのは阿津賀志山の途中だった。伝えに来た今剣も満身創痍で、来るまでに何体か敵を屠った後だという。とにかく帰らねばと、ゲートを超え、ようやく着いたそこは、本丸だった場所になっていた。
屋敷の大半は壊され、あちこちから咆哮と刀がぶつかり合う音が聞こえる。
血の匂い、汗の臭い、硝煙の匂い、すべてが混ざって何もわからない。こちらもすぐに応戦するが、最高錬度の奴のいる本丸で、検非違使を倒すのは、非常に苦しい。
そんな時、誰かが叫んだ。

『主!!!!』

誰の絶叫だったか。
とっさに目の前の敵をかわし、すぐに声の方へ走る。
心臓がいやに痛い、こういう時の予感が当たっていないことを心の底から望む。
主の部屋の前で、折れた刀が倒れているのが見えた。乱藤四郎だ。二軍の隊長を務め、今日は一軍のいない間、主の近侍をしていた筈だ。
やめろ、やめろ、やめろ。
スパン、と勢い良く部屋を開ければ、血の気が一気に引く。
真っ先に目に入ったのは、刀を振り下ろす寸前の太刀だ。咄嗟に足を踏み込み、その刀を弾く。突然の相手にバランスを崩した敵に、その瞬間頭を飛ばす。この本丸の最高錬度は俺だ。倒せない訳が無い。すぐにサラサラと消えていくが、そんなことすら気にせず足元の主を見て、言葉を失う。
何故、何故、こんなこと。
腹は引き裂かれ、腕が片腕見当たらない。恐らく正しくないやり方で結界を貼ろうとしたのだろう、自分に反動として足から血が溢れている。頭がこの状況を飲み込もうとせず、ただうずくまって冷たくなった体を抱きしめた。
涙が止まらない。胸が何かの感情で満たされていくような、逆に何かが溢れ出しているような、訳のわからない感覚に襲われる。
泣いたことなど、この本丸に来てから一度だってなかった。これからだってそうだろうと、そう思っていた。だというのに、溢れ出る感情と涙は止まらない。
いつも笑顔の主だった。戦で傷付くのを見て度々何とも言えない顔をする。泣きそうな、だがそれを必死に隠して気丈に振舞うのだ。
畑仕事をしながら笑って、ご飯を共に食べて笑って、書類仕事をしながら笑って、共に桜の下を歩いて、俺も、主も笑っていたのだ。
いつも、いつも、笑顔の主だった。



主の首には、頭がついてなかった。






::::::






―――大倶利伽羅

名前を呼ばれた感覚がして、ゆるりと目を開ける。
俺は縁側に座っていた。桜の咲いた、美しい本丸を眺められるこの縁側があまり嫌いではなかった。もちろん人がよく通るから、こんなま昼間からここにいた事は無いが。

「目が覚めた?」

驚きながら横を向けば、主が立っていた。縁側で寝ていたのか、と思っていれば、やぁ!とらしくもない挨拶をして片手を上げ、隣いい?と尋ねられる。断る理由もなく首肯すれば、すぐに隣へ座ってくる。

サラサラと桜が優しく散っていく。こんなに穏やかなのは何時ぶりだろうかと、時間の感覚もわからなくなるような感覚に襲われる。
良く見れば、本当に何も動いていないのだ。雲は動いているが、太陽が一向に動いていない。池の中の鯉が、ぱしゃりと跳ねた。

「ここはね、私の世界なの」

ぼんやりと空を見上げていた視線を、隣の主へ向ける。しかし、分かっていたことなので特に何かを言う事は無い。重要なのは場所ではない。

「俺は、折れていないな」
「うん」

所在無しに、主が足をブラブラさせる。お茶でもいれてくればよかったねぇ。なんてまるで事の深刻さを分かっていないような発言をするが、お茶が飲みたかったのは確かなので、ゆっくりと首を縦に振る。

「…だが、堕ちたんだな」

再び空に視線を戻す。ゆったりとした雲の動きは、嫌いじゃない。昔、風が雲を動かしていると聞いたことがある。風はそんなに強いのかと驚いたものだ。

「正確にはまだ墜ちていない。堕ちる前にここに連れてきちゃったから」
「だが、もう助からないだろう」
「…うん」

ねぇ、大倶利伽羅
言いながら主がこちらを向く。その瞳は揺れていない。覚悟を決めたのだろう。

「一緒にいこうか」

何処に。そんな事は聞かない。分かっていることを聞いたところで意味はない。

「ここで死ねばね、心が死ぬから体が自然と消滅するの。貴方が墜ちかけてるのを見て、咄嗟にここに連れてきちゃったんだけど…」

ここは主の夢の中だという。
審神者というか、神職者というものは稀にそういった付属品の様な能力を手に入れる事がある。主は体の中に己だけの空間を持っていた。夢を見る時は必ずここにいるのだという。ただ、現実では一切役に立たないし、そもそもあくまでもここは夢であり、主の本体は現実世界にある。本体の霊力が尽きて死ねばここも消える。しかし、心が死ねば、本体に戻る魂はなくなりそのまま自然と体は死んでいく。俺の場合は、もう体が堕ちてしまっているから、戻った所で苦しいだけだ。

「死ぬと思った瞬間にね、ここに逃げてきちゃったの。意味なんてないのにね。体は死んじゃったけど、ほんの少しだけ霊力が残ってたみたい」

随分淡々と語るものだと思えば、まるでこちらの気持ちが分かったように声を上げて笑った。

「貴方が居るだなんて、何だか嬉しくって」

先程までの淡々とした口調は何処かへ行き、いつも通りの笑顔をこちらに向ける。何となく気恥ずかしくなって、頭をくしゃりと撫でると、だらしない声をあげてまた笑っていた。
ずっとこうだったら良い。
ダメだとわかっていても期待してしまう自分を笑う。

ごろん、と縁側に寝転がれば、それに続いて主も横たわる。お互いに顔を見合って、少しだけ微笑む。頬を撫でると、くすぐったそうに体を捩らせた。

「…もう時間か?」

尋ねると、柔らかく首が頷かれる。
別に苦しいことなどない。主は本体の霊力が尽きれば自然と消えるだろう。そしたら俺は異物となって追い出されてしまう。その前にやらなければならない。

「ねぇ大倶利伽羅、一緒にいこうよ」

その言葉に、一瞬固まるがすぐに思考を働かせる。

「ダメだ。わざわざ苦しむ必要はない」
「ケチ」
「言ってろ」

上半身を起こし、本体を手に持つ。すらりと鞘から取り出せば、いつもの刀身は金鍔の辺りから黒いシミが進んでいるのがわかった。

「先に行って待ってる、ではダメか」

声をかけると、まだ寝転がっている主は視線だけこちらに向けた。それから、優しく本体に触れる。端から端に。

「素手で触っちゃダメなのにね。貴重な体験しちゃった」

す、と上半身を起こし、こちらを見据える。それから、姿勢を正し三つ指をつくものだから、思わずこちらも身構える。

「刀の付喪神よ、貴方の魂が続く長い道の中、清く美しくあることを祈っております。どうかその気高き魂、これからも決して落ちる事のないように」

言葉の後、主が笑うと本体のシミが一瞬で取れる。何を、と言う前に違和感に気付く。体が欠けていく。パキパキ、嫌な音を立てながら足の先が空に消えていくのだ。

違う、これは俺の望んだものではない。

「やめろ!!」
「あのね大倶利伽羅、貴方死んでないの。大丈夫。貴方は私を守ってくれたわ。立派にしっかりと。だからもう大丈夫。ね、泣かないで」

何を言っているのかわからない。理解したくない。必死に手を伸ばすが、肘までもう消えていて、何も掴むことができない。目の前にいる主に触れる事のできない自分が、ひどく歯がゆい。

「どうか、どうか生きて。廻り廻ってまた会えるように。
一緒に逝く、と言ってくれてありがとう。」

ふわり、微笑んだ瞬間、視界が光に呑まれる。最後に聞いた言葉は、脳の中で鐘のように鳴り響いた。




::::::




硝煙の匂い、汗の匂い、充満する緊張感、発せられる殺気。
遠くで刀どうしがぶつかる音がする。幾度となく経験してきたこれらは、もう俺の体に染みついてる。

刀を握り直し、目の前に広がる戦場に意識を集中する。
地獄でない、ここは戦場だ。
いつか俺が折れて、あるべきところに還るための場所だ。

いつか、いつか、俺が折れたとしたら、この戦が終わったとしたら、再び会えるだろうか、彼女に。


―――大好きよ、大倶利伽羅。



最後に伝えられた言葉は、どこまでも俺の体に染み渡った。






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