ヒヤシンスの花畑11 | ナノ



心臓が掴まれて、頭がぐらぐらと揺れる。霞がかった思考の中で誰かが俺を呼ぶ。ひたすらに、ただひたすらに名前を呼びそれに応えよと命じてくる。何もわからない思考の中で、口が自然と答えようとするのをすんでのところで誰かが止める。それはダメだと、応えてはいけないと誰かが止める。その誰かの腕を掴みたくて必死に手を伸ばしても、まるで霧のように霧散してしまう。そうして再び思考は沈んでゆき、名を呼ばれる。

それはゆっくりと、けれど確実に大倶利伽羅の体力を奪っていく。
段々と霞の中の名を呼ぶ声もわからなくなってきて、そもそも今どこにいるのか、何をしているのかもわからなくなる。

「大倶利伽羅、ほら、応えて」

低く、どこか疲れた声。
違う、俺の名を呼ぶのはお前じゃない。

「大倶利伽羅」

頭の全てがこの声を否定する。
だが声は幾重にも重なって頭の中でこだまするように響く。

「大倶利伽羅」

呼ぶな、俺はお前のものじゃない。だがどれほどそう思っても、理性が段々と蝕まれていくのが手に取るようにわかる。一面は霧の中。さっきまでどこにいたのかも思い出せない。ここはどこだろうか、俺は何をしていた、俺はどうしてここにいる、俺は、俺は、俺の名は何だ…?
「大倶利伽羅」

声と共に瞳を開けば、そよそよと風を感じた。一面白い花が咲き誇り、ところどころで蝶々が飛んでいる。見渡しても、地平線まで花は続き、果ては見えない。空は青く雲が所々にある。うららかな春の陽気だ。
ここはどこだ、と思っても思考がうまく纏まらない。何かを考えようにも、フワフワと全てが消えていく。

ふわりと風が白い花びらを巻き起こす。アイツがいたら、お弁当持ってこよう!とか言いそうな幻想的なこの光景に、少しだけ目を奪われた。
白い花と、その花の茎と葉の緑で見事に美しく彩られる花畑。しかし生憎と俺に花を愛でる気概は持ち合わせていないしもう既に興味もない。そもこんな花畑本丸の近くにあったのかと思うほどには興味がなかった。さっさと出たい気持ちとともに足を進める。
そんな中で、遠くの方に一輪だけ色の違う花があった。
真ん中にポツリと、紫色がそこにある。白の中に一つだけあるその色は、種類は周りと同じなのに異様に浮いて見えた。近くに行って見てみると、随分と濃い目の紫だ。名前すら知らならいが、その花は色とは似つかわしい、不思議と嫌いになれない、暖かな雰囲気を持っていた。

「その花の名前、知ってる?」
耳に馴染んだその声に、ゆっくりと振り返る。特に驚きはなかった。そこにいると何故か思った。

「知らないな」
「だろうね」
軽く笑いながら、そいつは俺の隣に立つ。いつもの巫女装束に、長い髪。俺よりも低い身長だから見えるのはつむじだ。常通りの姿にどこかほっとする。それが何故かは、わからない。

「まぁ私も知らないんだけどね!でも、花言葉は知ってるよ」
それもまた随分とおかしな話だなと思いながら、相手は先に進もうと一歩踏み出す。その足元を見て驚いた。

「おい、履物はどうした」
「え?」
コイツの足は裸足だった。ここまでそれで歩いてきたのだろう、いくつも草木で切った跡と、石などで血が滲んでいる所もある。

「えっと、なんでだろうね。履いてなかったんだよ」
「バカか」
腕を取って引っ張ってすぐに横抱きにする。最初は驚きと恥ずかしさからかうだうだ言っていたが、暫くすると静かになった。やはり足は痛かったのだろう。
進む先は、一面白い花しかない。どこに進むのかもわからず、とにかく歩き出す。コイツの顔は俺の胸に埋められていて見えない。そうしてどれくらい歩いただろうか、不意に声が漏れた。

「ねぇ大倶利伽羅」
「…なんだ」
「痛いの」
「なにが、」
続く言葉が出なかった。俺の腕で横抱きにされていた体に、肩から腰に掛けて続く刀傷があった。じわりじわりと血は滲み出て、その表情は苦痛からか額に大きな汗を持っている。どうして今の今まで気付かなかったのか。
咄嗟に本丸へ引き返そうと振り返ろうとした。が、腕が磔られたかのように動けなくなり、足は何かが止めているかのように重い。走らなければ、血を止めなければ、戦わなければ。焦りと不安が体中を駆け巡るにも関わらず、体はいう事を聞かない。

「いたい…!」
「…っ…」
とうとう言葉も出なくなった。絶望が体を包む中で、誰かが俺の足を引っ張って無理矢理その場に膝立ちになる。いきなり訪れたガクンという感覚の中で、腕の中のコイツだけはと腕の力を込める。その衝撃でかこいつは痛みに涙をぼろぼろ零すのに、俺はそれを拭うこともできない。

べちゃ、と何かが這いずる音がした。咄嗟にそちらを見て慄く。

「…!!」
足元を見れば、いくつもの黒い腕が俺の足にまとわりついていた。それぞれ皮膚が爛れ、腐り、蛆が湧いている。それらがべちゃり、と音を立てて体を上ってこようとしている。振り払いたくとも体は動かない。舌打ちをしながら這い上がってくる腕から、少しでも遠ざけようと腕の中のコイツを強く抱きしめる。
ぬちょ、と音がした。
まるで時間が止まったようだと思った。スローモーションで腕の中のこいつが顔を上げる。さっきのように苦しんでるのかと思った、苦痛で顔を歪めているのかと思った。
ぬちょ、と音がした。
俺の胸を服を持つ腕が、こちらを見上げる瞳が、泥のように崩れていく。崩れる指先が俺の頬に触れる。その間にも二の腕の肉が泥に変わりぼたぼたと落ちて、骨が見えてくる。どんどん茶色に侵食される体は、いっそ初めからそのような色だったのではと思うほどになってしまった。
指であった泥が、頬に触れた。顔はもう、目は沈み鼻は骨が浮かび、口元からは歯だけが残って、茶色の中に白さが際立って見えた。その歯が何かを告げるように動かす。その光景は明らかにおかしいのに、何故か俺はコイツの言葉を理解したくて、必死に頭を動かした。

「おい…」

声を発さない骨は、ゆっくりと、それでも確かにはを動かす。もしかしたら気のせいだったのかもしれない、思い込みかもしれない、それでも確かにこの骨は、コイツは言った。

―――おおくりから、と。

ぶわっと風がこちらに向かい、それが花を散らす。途端に白の花びらが風にのって視界を覆い尽くした。思わず両手で顔を覆い目を守るが、風の勢いは止まらないままとうとう視界を白い花びらで埋め尽くした。激しい風の音しか聞こえず、視界は白一色。これでは何が何だかわからない。気付くと腕の中の泥も、骨も、足元から続く腐った腕も無くなっていた。
立ち上がって周りを見て、愕然とする。
大倶利伽羅を中心として花びらがまるで竜巻のようなものを起こしているのだ。くるりと体を一周させても変わらず、風で巻き起こされた花びらの竜巻は変わらない。どうやら大倶利伽羅は竜巻の目にいるようだ。

「――――」

はっと振り返る。すごい風の音に乗って、何かの声が聞こえた。恐らく気のせいじゃない、呼ぶ声が。

「どこだ、どこにいる」

辺りを見渡してももう風が花びらをまき散らす音しか聞こえない。舌打ちをしてもその音すらかき消される。
何か大事な声を聞きもらしてしまっている。そんな気がして背中に嫌な汗が垂れた。

「どこだ…!」
「ここだよ」

振り向いた瞬間、誰かが俺の襟足を掴んだ。だが、それと同時に。

「大倶利伽羅!!」

見慣れた姿が目の前に現れて、俺の手を引いたものだから、俺は咄嗟にそちらに体を傾けた。

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