ヒヤシンスの花畑5 | ナノ
「主」
大倶利伽羅がいなくなった場所にうずくまる主の肩を叩く。それに反応してゆるりと主が顔をあげた。
虚ろで光のともっていない瞳は涙でどこを見ているのかわからない。「きよみつ…?」とこちらを理解しているのかすらわからない、夢見心地の様な声を上げた。
だが、それを見て奥歯を噛み締めたのも束の間、俺を見た途端、はっと主の瞳は開かれ、すぐさま立ち上がった。膝をついたおかげで汚れた服を叩いて、その場にいる全員を見渡す。先程見せた一瞬の暗闇は、もうどこかへ消えていた。
「大倶利伽羅を取り戻す。でもその前に状況を確認したい。全員広間に集まって」
それだけ言うと主は執務室の方向へ駆けていく。その後ろを追いかければ、執務室の前で鶯丸を起こしていた。そうだ、この人、自分から不寝番を言い出してたんだっけ。
「鶯丸、起きて。緊急事態なの。広間に来てほしい」
「あぁ、主。わかった」
今まで寝ていたとは思えない程にすがすがしく起きたこいつに、ほんの少しだけ嫌な顔をしてやる。でもそんな事全く気にしないように、すっと所作美しく立ち上がって主の背を追い出す。
「どうした加州、行かないのか」
なかなか行かない俺に、いつも通りのマイペースさが感じられる声で呼ぶ。それに行くよ、と返せばゆっくりと目が細められた。どうせ、俺の考えてることだってお見通しなんだろうね。
広間に行けば全員が既に広間に集まっていた。視線が一心に注がれる。主が上座に座ると、まっすぐに全員の瞳を見てから、頭を下げた。
「皆、今回の騒動の原因は私にある。大事な仲間を一人連れていかれた。本当に申し訳ない。でも私はあきらめる気はさらさらない。どうか力を貸してほしい」
そう言って顔を上げる。そこにはやはり、先程の闇はどこにもない。皆、今更だとでも言うように頷くのを見て、再び口を開いた。
「状況を整理したいんだけど…私たちは演練上で襲われた。そこまではいいんだよね」
「主、そこからは俺が説明しよう」
そう言って口を開いたのは鶯丸だ。皆の少しだけ責める視線を何ともせず、さらりと続ける。
「まず、主は演練上で呪いをもらってきたんだ。それも特大のな」
「呪いって…もしかして」
「あぁ、男に切られたときの傷だ」
自分自身でも少しだけわかっていたのかもしれない。きゅ、と自身の裾を握った。これは、主のくせだ。何かを我慢するときにする癖。だが鶯丸は言葉をつづける。
「その傷のせいで主は命の危機に陥った。呪いが体中を蝕んだからな。本当に危なかった」
「おい、鶯丸」
鶴丸が声をあげる。この先の鶯丸の言葉を止めたいようにきつく睨んでいる。だが鶯丸は少し鶴丸を見てから、軽く首を傾げた。まるで、何故止める、とでも言いたいように。
「その呪いを大倶利伽羅が全て請け負った。そうして特大の呪いを抱えることになった大倶利伽羅だが、その結果、」
「鶯丸!」
遂に耐え切れなくなって鶴丸が声を荒げた。これ以上彼女を追い詰めるな、そう言いたい鶴丸の気持ちがひしひしと伝わる。それでも相変わらず鶯丸は読めない笑いを浮かべて鶴丸を見るばかりだ。咄嗟に胸倉を掴みかけた瞬間に、広間がざわついた。
「やめなさい鶴丸」
上座から厳しい言葉が飛ぶ。ぴしりと空気が固まるのを感じながら主を見れば、随分と優しく微笑んでいた。
「私は大丈夫。鶯丸続けて」
鶴丸が何かを言いたげに口を開いて、また閉じられる。ゆるゆると行き場のなくなった手を降ろし、その場に再び胡坐をかいて座り直した。主の前でなかったら舌打ちの一つくらいしそうな勢いだ。
「続きか…あとはそう、その呪いのせいで大倶利伽羅はここを去った、くらいだな」
「その呪いは、ここに居てはいけないものなの」
「そうだな、呪いというのは感染のようなものだ。何もしなくても皆に写っていく。だからこそ、彼は自ら出ていったのだろう」
「あの黒い手は何なんだ」
疑問を呈したのは和泉守兼定だ。それは皆思う所だったらしい。一様に言葉を求めている。だが、答えたのは今まで話していたものではなく、その隣に座っている優しい笑みと美しいかんばせを持つものだった。
「あれは人の作り出した物だな、主よ」
「うん、そうだと思う三日月。しかも大倶利伽羅が受け入れていたとはいえ、主従契約無視して勝手に空間を超えるなんてできない。あれは未来で作られたものを呪具によって改造してる」
あの一瞬でそこまで見ていたなんて。さすがというか、逆にそこが恐ろしいというか。そんな俺の考えをよそに、いきなり襖が景気よくスパンと開いた。
「誰だ!」
怒号と共に、全員が一気に鯉口を切る。中には抜刀しているものもいる。当然だ、先程からの今なのだから。だが、刀を向けられた奴は、きりっとした表情を見せて息を吸った。
「どうも、政府直属対歴史修正主義者対策本部審神者対策課担当部備前国花の間担当コウと申します!!コウというのは紅の方のコウです。今回はご連絡がありましたので来た次第にございます。先程門構えの方からお声をかけさしていただきましたが返事がなかったので失礼ながら勝手に上がらしていただきました。事態は一刻を争うので。あぁ、私の事はコウでも役人でもお好きにおよび下さい。私の相棒は和泉守兼定ですが、こちらの本丸にもいらっしゃるという事で勝手ながら髪を結わいておりますのでそちらで見分けを付けていただければ!審神者様、ここまで何かございますか?」
「ううん、大丈夫。そのちょっとおかしい敬語、やめて平気だよ」
「いやぁ悪いね、あまり慣れてないんだ」
「だろうね」
少しだけ笑いながら、ぽかんと刀を構える奴らを他所に主と入ってきた人間は会話を続ける。驚いてないのは俺と長谷部位なものだ。表情読めないのも何人かいるけど。
「皆、刀を収めて。彼はこの本丸の担当の人。さっき連絡して来てもらったの」
「なんだ、そうだったのか」
皆ゆっくりと刀を降ろす。それを見て主はその役人を隣に呼んだ。まっすぐ上座に向かう役人の後ろを、髪を結った和泉守が静かにつく。相変わらず俺の本丸の和泉守とは随分性格が違う。
先程主が言ったにも関わらず皆、完全に警戒を解いていない。彼が何者か、見極めるには早すぎるのだろう。きっとまず思ってるのが、コイツの性別は何だ、ということなんだろうなと周りを見渡した。
コウと名乗る役人は、長い髪を下で結び大きく開かれた茶色の瞳は、髪の色と同じ。男とも女ともいえる華奢な体系に白い手足、そして整った顔がより性別をわからなくさせている。年齢も同様に読めない。主と同じくらいと言われても納得できるし、それよりも年下、逆に年上と言われても納得がいく。
そんな風に俺が改めてまじまじと観察している内に主はだいたいの事を説明し終えたらしい。
「話はだいたい理解した。大倶利伽羅様がいなくなってそれを連れ戻したいんだね?」
「うん、何があっても連れ戻す」
「なるほど。わかった、その男の情報はさっき電話もらってだいたいかき集めてきたから、説明するよ」
ここに来るまでの間に、演練で主を切り付け厚に殺された男の情報を集めてきたらしい。さすが、いくつもの本丸を請け負って、それらすべてとうまく折り合いをつけているだけあるな、と感心する。
「あの男は薩摩国鳥の間の人間で、性格は温厚、情に熱く一振り刀が折れた際に心を半分病み一時病院に入院している。だけどすぐに復帰して昨日まで審神者を続けてきたみたい。連れていた刀剣は明石国行様、小狐丸様、三日月様以外はそろってたよ」
それから一つ息をついて、主を見る。その視線の先には主の胸元から見える包帯だ。昨日の呪いは大倶利伽羅が持って行ったとはいえ、まだ傷自体は癒えていない。ほんの少しだけそれに眉を顰めるてから、再び言葉を続ける。
「あの男が誘拐の犯人だと、まだコチラは決めることが出来ない。男は死んでるし、その魂ももう見当たらない。あの男の痕跡がどこにも無くて、決定打がいささか少ないんだ。ただ奇妙なことが一つあって」
その言葉に主が少し反応する。どこか思い当たる節があるようだ。
「その男の刀剣男士がどこにもいない。本丸にも、刀も見当たらない。というより、本丸に誰もいないんだ。
…ここから先は僕の勝手な推察だから軽く聞き流してくれると嬉しいんだけど。あの男、死んでないかもしれない」
「…というと?」
ざわめきだした広間の中で主が続きを言わせる。
「この中に厚藤四郎様はいらっしゃいますか」
落ち着かなくなった広間によく通る声が響く。キョロキョロと見渡すと、小さな頭が険しい顔でこちらを見ていた。
「俺だ」
長い机の端の方、粟田口が集合している中で一人、手をあげる。それを見て、役人が一つ頷いた。
「厚様、あの男を刺した時の事覚えてますか」
「あぁ、いつも通りだったぜ。人を切ったのは久しぶりだったけどな」
「どこを切りましたか」
「…喉仏と、頭」
まさか、と小さく主が呟いた。隣にいる俺しか聞こえないような小さな声で。その表情は驚きとまだ信じられないような気持ちで埋まっているような顔をしている。
「では、心臓は刺してませんね」
「…刺してない」
質問に答えるうちに厚の顔色が悪くなっていく。点と点が悪い方向につながってしまうように、彼の頭の中で何かに気付いてしまったようだ。そうはいっても俺も、ほとんどの刀剣もわかっていないのだけれど。
「恐らくあの男は式神です」
「嘘だろ」
厚が絶望の声をあげて、広間が一気にざわついた。当然だ、彼が敵の大将首を仕損じてしまったようなものになる。だが、主は小さく厚、と名前を呼んで顔をあげさせた。
「今はまだ、後悔するときじゃない。全てが終わってから後悔なさい」
「大将…」
それだけ告げて、役人の方に言葉をつづけさせる。ここの主は俺達に甘いけど、それと同じくらい厳しくも接する。厚はまだ少しだけ泣きそうな、でもどこか吹っ切れた顔で前を見ていた。
「式神という事は、本人を殺さなきゃだめなんだね」
「あのね、何回も言うけど殺さないで。それの後始末すっごい大変なんだから。話を戻すけど、恐らく男はもう別の本丸に刀剣男士達を連れて逃げてるんだと思う。政府の手が回るのに気付いていたんだろうね」
男の本丸は既にもぬけの殻。それも荷物や生活用品は置いたままで。よほど切羽詰っているのが目に見える。
「その本丸の特定は」
「一日頂戴、それから時間がもったいないからここで仕事するよ。客間を貸してほしい」
「おい、」
今まで何も言わなかった和泉守が厳しい声を掛ける。だがその視線を一身に受け止めて、役人はまっすぐ向き合った。
「いずみくん、この問題は遅かれ早かれやらなくてはならないんだから、今やってしまおうと思う。もちろんいずみくんにも手伝ってもらうけど…ダメかな?」
「…チッ」
頭をがりがりと掻いてから、和泉守は勝手にしろ、と返していた。この二人に何度かあってるとはいえ、その数は両手で数えて指が何本か余るくらいだ。そのたびにこの和泉守と、ここの本丸の和泉守の違いに驚いてしまう。なんというか、大人しい。ここの本丸の和泉守ならば、確実に「ふざけんじゃねえ、ぜってぇやらねえぞ!」と返ってくる。まぁ、最終的にはいろいろ手伝ったりするのだけれど。おかげで、そんな和泉守が普通なこちらとしては、違和感が常につきまとう。
「それじゃあ客間の準備をするよ。食事を用意してもいいかな?」
「いや、それはこちらで用意して食べるよ。ありがとう」
「あれ、そうなの。わかった。後で手伝いに行くよ」
「悪いね」
明日明後日は丸々遠征出陣は休みになった。いつでも出陣できるように、準備はしといて欲しいという事。それらを告げて今日はもう解散となった。そこに異議を唱える者はいない。
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皆がちりじりに去っていくのを見て、俺も腰を上げる。向かう足取りに迷いはない。広間のある屋敷から廊下を挟んだ少し先。そこに主の執務室はある。
部屋の前に立ち、声もかけずにすぱんと襖を開ける。部屋の真ん中で、ぼんやりとどこかを見ていた主の瞳が、こちらを捉えると大きく見開かれた。この本丸で声もかけずに執務室を開ける奴なんて、一人しかいないから驚くのは当然だ。同時に今まで溢れさせていたであろう涙が、頬を伝って畳に落ちた。
「清光?」
「うん、そう。俺だよ」
後ろ手で襖を静かに閉めると、先程の涙はどこかへ消えたかのように淡く微笑んでいた。思わず、唇を噛む。だがそれを見せずに、こちらもゆっくりと微笑んだ。
す、と主の隣に座れば、どうしたの、と首を傾げられる。
「ねぇ主。そんな不安にならなくても大丈夫だよ」
ぽんぽんと優しく頭を撫でれば、こちらの意図をくみ取ったらしい、段々と眉毛がへの文字になってくる。口は開いたり閉じたりを繰り返して、結局最後にはとじられた。
大倶利伽羅が消えたあの瞬間、主は確かにただ一人の人間になっていた。目の前が何も見えてなくて、大倶利伽羅がいなくなったという事実を受け入れる事すら厳しかったと思う。それを、一人の将に戻したのは俺だ。俺が声をかけた途端、主の瞳は涙を抑えた。泣きわめきたいのを、ぽっかりと空いた心を無理やり抑えて、ただ一人で立ち上がった。それは主としては模範だし、百点満点だったと思う。でも、一人の女の子の肩に乗せるのはあまりにも重たい。その原因が親しいものだったら、より。
「大倶利伽羅ならひょっこり帰ってくる。ていうか連れ戻すしさ。主はいつも通りどーんと構えてればいいんだよ」
ぎゅ、と抱きしめれば肩にゆっくりと濡れた感覚がしてくる。それから小さく震える体。こんな時でも声は上げない彼女の背中を、静かに撫でる。
この役目は、本来ならば俺じゃない。常ならばこの腕は、倶利伽羅龍が彫られたアイツだった。だというのに、アイツが泣かせてどうする。今居ない顔を思い浮かべて、殴りたくなった気持ちを抑える。
「…清ちゃん」
どれくらいそうしていただろう。彼女がぽつりと名を呼んだ。それに「ん?」と返せば、まっすぐな瞳が俺を捕まえる。
「ありがとう」
言葉と共に見た笑顔が、凪いだ水面に雫が落ちるように、水面下にじんわりと広がっていく。じわじわと暖かくなる心を理解しながら、こちらも満面の笑みで返す。
「いーよ、友達だしね」
彼女に呼ばれた時、俺は主と呼ばなくても良い、と言われた。そんな殊勝な人間でないし、できれば家臣としてではなく友として隣にあってほしい。そうして友が道を間違えた時、殴ってでも止めてほしい。逆の時もそうするからって。
だから俺は彼女の友になろうと決めた。この本丸で最初に呼ばれた時から、彼女が俺を使ってくれた時から。名前を呼んでくれた時から。
そうして段々と刀剣男士が増えていく頃、人前では主従に戻っていった。それでも二人きりになる時にだけ俺達は友達に戻る。たまに甘味を食べに行ったり愚痴を聞いたり、何気ない事を話したり。たまに秘密を共有してみたりね。主と家臣ではない、この関係が酷く心地よくて愛おしい。だからこそ、大事な友達が悲しんでるのに何もしないなんて、おかしいでしょ。
その悲しみに寄り添って、心を聞き出して支えになるのは俺じゃない。何も聞かず何も言わず、彼女の隣にいるだけでいい。目を閉じて浮かぶ、彼女の呼ぶ声。彼女の幸せを何よりも望むのは、当然だった。
「私、頑張る」
「うん、そーこなくっちゃね!」
彼女の瞳はまだ涙に濡れている。それでも、これを全て拭うのは俺じゃないから。早く戻ってきて「大丈夫」って言ってやって。
俺はまだ、その背をゆっくりと撫で続けた。