20171008_02 | ナノ

春は別れの季節である。それと同時に、始まりの季節である。中学校卒業式の時、長い話の締めくくりに校長先生はそう言った。
そうして、多くの事を初めて多くの事を学んでほしい。そんな事も言っていた。その言葉は確かに私の胸に響いたし、まだ見ぬ高校という生活に向けての期待がむくむくと膨れ上がったのも、良く覚えている。…覚えている、が。
「ここどこ…」
呆然と呟く声に応える人はいない。
高校の入学式当日。大学もある高校の為か、恐ろしい程に広い敷地の中で、高校の校舎はおろか、自分が今どこにいるのかすらもが分からない。人に聞こうにも、どうやら森の方に入ってしまったらしく、人影なんて影も形も見当たらない。
ここはどこだろう。もうすぐ入学式が始まってしまうかもしれない。両親に連絡しようにも携帯は持ってきていない。着慣れていない制服に、入学式の緊張、じわりじわりと目尻に涙が浮かんでくる。
…―――その時。
「…何している」
その時の衝撃を、私はきっと一生忘れない。
褐色の肌、金の目、黒いスーツ。首から下げられた関係者の名札が無ければ、明らかに通報されているだろうと思う程のガラの悪さ。だというのに、私は。わたし、は。
「…新入生か?」
向こうが一歩こちらに近づく度に、ひゅっ、と喉がなる。体は縫い止められた様に動かない。は、と唯一逃すことの出来た息は、すぐに心臓の鼓動にかき消されてしまった。
「……おい?」
相手が不思議そうに首を傾げた、その瞬間、何かが、破裂した。そうそれこそ、パン、と。
「……す」
「す?」
今まで止まっていたかのように激しく動く胸の鼓動、体全身に巡る血液の熱さ、そして何より雑巾を絞るかのような胸の苦しさが、この感情の名をはっきりと表していた。そう、これは、正しく。
「好きです!!付き合ってください!!!」
恋だ。それも、一目惚れの。

「大倶利伽羅先生こんにちは!好きです!!」
「帰れ」
「嘘です嘘です、勉強教えてください」
放課後、理科室の隣にある小さな準備室。日当たりが良く、夕日が部屋中を赤に染めている。そんな教室の、端に置かれた机に座り、ゆっくりと本を読む人に、私は入学式の翌日から毎日会いに来ていた。
「…アンタには一年の数学の先生がいるだろう。そっちに行け」
「一応行ったんですけど、数学の先生は部活が忙しそうで。それにやっぱり私は大倶利伽羅先生に教えてもらいたいし」
大倶利伽羅先生ははっきりと嫌な顔をする。私がこういう事を言うと大体眉毛を少し寄せて、呆れたようにこちらを見るのだ。そして一言。
「早く座れ」
私はどうしてもこの一言が聞きたくて、毎日先生に愛を叫んでしまう。上がる口角を抑えずに、意気揚々と椅子に座る。
「それに、ここなら好きな人と合法的に一緒にいれるんですもん。こっち来ちゃいますよ」
「……」
「あっ、今ときめきました?ときめいたでしょ!こういう風にすると良いよ〜って友達がっ、あて!」
パコン、と頭を数学の教科書で叩かれる。そこそこの強さで叩かれたせいで、じんわりと涙目になりながらも、その教科書が高一用のであるのを目に留めて、私は衝撃的に好きを伝えたくなる。

入学式の日、迷子になった私を助けてくれた目の前の人に、私は完全なる一目惚れをした。
金の目、褐色の肌、一見するとチャラい兄ちゃんだというのに、そのあまりに美しい姿は私の心を鷲掴みにした。なんと罪深い。雷が落ちるとはあの事か。それから、学校中を探し回り、大倶利伽羅廣光という名を知り、この教室に行き着いたという事である。
『先生!やっと見つけました!好きです付き合ってください!』
初めて化学準備室の扉を開けてくれた時、私は二度目の告白をした。まぁ、それも一回目と同じように丁寧にお断りされたのだけれど。とはいえ、それだけで諦めきれる訳もなく。私はこうして毎日毎日、大倶利伽羅先生に愛を伝えに行っているというわけである。説明終わり。
「でもほんと、なんでこの教室なんですか。よりによって化学準備室って。数学の先生って聞いてたからそっちの方探し回っちゃいましたもん」
「ここが一番静かだろう」
「それは、確かに…。そうですけど」
穏やかな鳥の声が聞こえてくるここは、学校の中でも特別教室が立ち並ぶ校舎の中だ。こんな所、生徒は滅多に来ない。おかげで非常に静かなこの場所に、寡黙な大倶利伽羅先生はここに住み着いた、というわけだった。
「でも私も好きですココ。だって大倶利伽羅先生とふたりっきりでいれるんですもん!」
「……」
「あぁー、無視はやめてください…それが地味に一番堪えるんです……」
はぁ、と先生のため息が響く。それからすぐに目の前に出される数学のテキスト。これは、先生が私に「どこが分からないのか」を聞いてくれている。ぱっ、と一瞬で表情を変えて、テキストを開いた。
「ここです、ここ。問五」
「他の問題は解けたのか」
「はい。でもそこだけが解答見ても良く分からなくて」
 それは今日の授業の内容だった。何故この答えになるのか、解説が無いワークの答えは私にとっては不親切極まりなかった。
「……ちょっと待っていろ」
先生は立ち上がって、部屋の奥にある所からホワイトボードを持ってきた。
「…これがAとB。ここの被ってる所があるだろう。これがCだ」
ここまでは良いな。そう言われて、必死に頷く。そうそう、ここまでは良いのだ。
「これがA。これがB…で、被ってるCが幾つか、と言う話だ」
「はい、分かります。ここまでも分かります」
「問題文読め。それぞれ何らかの条件があるだろう」
「ええっと。Aは七の倍数。Bは奇数。全体の数は五十までである。…合ってますか?」
合ってる。その意味で大倶利伽羅先生が頷く。ホワイトボードに、先生の達筆な数字が乗る。
「五十までの七の倍数。言っていけ」
「えっ、えっと、七、十四、二十一、二十八、三十五、四十二、四十九…」
「B求めてみろ」
ノートに奇数の数を書き連ねていくと、大倶利伽羅先生が目の前に座ってノートを覗いた。
「…その中でAとB同じ数は」
「二十一、三十五、四十九」
「それがCだ」
「……これだけ?」
「これだけだ」
なんと。私はこんな事に悩んでいたのか。あんぐりとしていっそ驚いてしまう。
「えぇ…思った以上に簡単……」
「授業聞いてたか」
「…ほんの一瞬目を離したすきに」
「寝てたのか」
「ねっ、寝不足で……」
ううぅ、先生の視線が痛い。
高校に入ってまっさきに思った事は「何を言っているのか分からない授業が多い」という事と「聞こうと思って聞かなければ理解が出来ない」という事だった。今日の数学だって、聞けばわかった筈だけど、余りにも長谷部先生の声は心地よく、それでいて良い声だった。
「明日からはちゃんと聞きます…。ごめんなさい、先生。こんな事聞いちゃって」
聞けばわかったことを、わざわざ先生の時間を取って教えて貰ってしまった。毎日教室に来ている私が言えることではないが、例え部活の顧問でなかろうとも、先生の放課後が忙しいものであるということくらい私にも分かる。だというのに、先生は全く気にしないように、窓を開けて穏やかな風を部屋の中に入れながらこちらを向いた。
「…これが仕事だ。謝るな」
「……うん」
「敬語」
「はい」
ふわりと春の風が部屋を包む。窓の外に目をやる先生の横顔に、夕日が反射して光る。日本人には珍しい金色の目は、赤と混ざり混ざって、私には言い表せない色に見える。きらきらとして、宝石みたい。
「……先生」
金の視線が、こちらを向く。
「かっこよすぎます。付き合ってください」
「帰れ」
「帰りません」と、今日だけで何度目かのやり取りを経る頃には、夕日は沈んでいた。
今日もまた、私は先生に恋をする。

:::

「先生!今日も来ました好きです!」
化学準備室の扉を開けるのと同時に言葉を発する。が、今日はその声に対する返事が無かった。というより、誰も居なかった。
「あれぇ…」
ガランとした教室は電気も付いておらず、部屋主の不在をわかり易く告げている。いつもの椅子に座りながら、数学のテキストを取り出す。今日も今日とて、数学は難しい。でもせっかく教えて頂いてるのだから、次のテストで良い点を取りたい。私にとっては、だけれど。
「えーと、ワークワーク…」
長谷部先生の宿題はエグい。何がエグいって、量がエグい。しかし、私は長谷部先生が大好きだ。なにせ、そのお陰で私は毎日ここに来る口実を手に入れられているのだから。
パラパラとワークを開きながら、窓に差し込む夕焼けを見る。
私がここに来る時間帯はいつも夕方になる。放課後しか来れないのだから当然だけれど。そのせいで私は夕方の大倶利伽羅先生しか見た事が無い。勿論夕焼けを反射して、目を柔らかく細める先生も素敵だけれど、やっぱり朝も昼も見てみたい。いつか、見る事は出来るだろうか。見れたら良いのだけれど。
「……先生、遅いなぁ……」
ゆったりと夕日が沈み、暗闇が近づいてくるのを実感する。机におでこを載せながら、待望の人を心待ちにしたのだけれど、その人はとうとう下校時間になっても現れなかった。宿題は、終わらなかった。

翌日。同じように教室に来たのはいいが、やはり先生は居ない。何でだろう。がらんどうの教室が、やけに寂しく思えて、ふと、なんでこの教室に来てるのかなんて思ってしまった。だって、先生が居ないなら、ここはただの教室。何も無い、ただの空間だ。
「はぁ……」
昨日と同じ位置に座り、外を眺める。昨日より少し遅い時間だった為か、夕焼けは殆ど沈んでいる。ワークを取り出すことも無く、再び立ち上がった。明日は昼に来てみよう。もしかしたら会えるかもしれない。扉に手をかけた瞬間、勝手に扉が開いた。
「っうぇ!」
「…お前……」
おかしな声と動きをしたのも忘れて、目の前の人を見つめる。そこにいたのは、正しく、昨日今日、恋焦がれてたまらない人だった。
「せっ、先生ー!」
「静かにしろ」
抱きつこうとした体を、先生の掌で頭を抑えられ、腕一本分の距離で止められる。
「うえぇ、会いたかったです。寂しくて死ぬかと思いました」
「テスト期間だろう…職員室にいる」
「えっ、テスト期間ってこっちいらっしゃらないんですか」
「…色々あるからな」
その言葉を聞いて納得した。先生は三年生の学年を担当している。テストも難しくなるし、三年生は成績が大学に重要になってくるから、他のことにも気を配らなくてはいけない。忙しいのは当然で、逆に気付かなかった自分が恥ずかしい。
「すみません、忙しいのに引き止めちゃった」
「いつもだろう」
「あっ、それは引き止めても良いよって事ですか?」
「何故そうなる…」
ぱっ、と先生から離れる。先生に会うというここ数日の目標は達成した。迷惑をかけるのは本意じゃないし、引き際は大事である。
「先生、お話出来て嬉しかった!テスト終わったら来ますね!」
「来なくていい」
「数学良い点取りますから、期待しててください!」
ぶんぶんと手を振りながら、先生が教室の中に入っていくのを見てから下駄箱に向かって歩く。角を曲がって、階段に差し掛かる頃、じわじわと喜びが上がってきた。
「んふふふ…」
先生が聞いてたらドン引きするような声を上げて、跳ねる勢いで階段を駆け下りる。触れた頭が熱い。そこから熱が伝染して、体全身を五度上げている気がする。自然と上がる頬をそのままに、私は駆け足で家へと帰ったのだった。

:::

そうして、毎日の様に長谷部先生に化学の猛特訓と、他の科目への勉強を繰り返し、繰り返し、早三週間。私は無事、期末テストを終えたのだった。
「ああ〜疲れた…」
 テストの疲労を隠さず、化学準備室に向かう。その足取りは重たいが、仕方がないだろう。何せ、相当頑張ったのだから。寝ずに勉強とはこのことである。恐らく、補習になってる授業は無い筈だ。そうした疲労を前面に出したまま、理科室の扉に手を掛けて―――止めた。
「―――あの子には言ったのか?」
 校長先生の声が、聞こえたからだ。あの子、とは誰の事だろう。
「…言うつもりは無い」
「…だが、良いのか。彼女は悲しむだろうに」
 扉の向こうから聞こえるこれは、一体何の話だろうか。頭がぐるぐるしてくる。なんだか、聞いてはいけないと体が拒絶しているようにすら感じてしまう。それでも、体は動かない。聞き耳を立ててしまう。
「…伽羅坊とまともに話せるのは、今年までなんだ。来年の異動は決まった。何も言わないってのは……」
 ガタン。思わず脚を扉にぶつけて、音を立ててしまった。すぐに開かれる扉。開けたのは、見慣れた金の目。
「お、大倶利伽羅、せんせい」
「…聞いていたのか」
「こ、今年までって、どういう事…?」
 大倶利伽羅先生の視線が、痛々しいものをみる物になっている事に気付く。あ。胸の奥で、何かがぴしりと音を立てる。
「…来年度は、別の学校に赴任する」
「うそ」
「嘘じゃないぜ。もうお達しが来たからな」
 机に座る校長先生もまた、どこか苦し気に眉を寄せてそう告げた。その視線が余りにも苦しくて、逃げる様に声を押し出した。
「あ、ええと…。そっ、そりゃそうですよね、先生は先生だから異動とか当然だし…。そういう事もありますよね、うん」
 笑顔を作りながら答えると、先生の視線がよりきつくなるのがわかった。ああ、いやだな。すごく嫌な視線だ。心臓を直接つかまれたみたいだ。
「あ、あの、どちらに異動なんですか?あ、いや、ほら! 遠くても会いに行きますから!」
 声が震えないように、腹に力を込める。会いに行く。そう言っても、心の底では近い所であってくれと願う自分がいる事に気付いていた。すぐに合える距離であってほしい。放課後に会いに行ける距離に居てほしい。そう、願ってしまった。
「…アンタが、来れる距離では無い」
 ぐわっ、と胸の奥に多くの物が一気に溜まる。勢いよく顔を上げて、先生の顔を見ても何を言ったら良いかが分からない。開いた口は何も言葉を発せないまま、空気を飲み込んで閉じてしまう。再び俯くと、先生の指先がゆっくりと持ち上がるのが見えた。
「…今日はもう帰れ」
 持ち上がりかけた手が、私の頭まで伸び掛けて触れることなく降ろされる。それが酷く悲しくて、いつものように触れてほしくて、苦しくて、どうしたら良いかが分からないまま、涙が溢れそうになる。
「すみません、今日は、帰ります」
 頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたら良いかが分からない。何かを叫びたいのに、何を言ったらいいのかやっぱり分からない。
 しかしそれから私は三日ほど熱を出して、学校に行く事が出来なくなってしまった。
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