雨のち晴れ、そして虹_7 | ナノ
「ねぇ、大倶利伽羅君。私、あなたの事が好きだよ」
雨の日。いつかの執務室で、廊下に佇む彼にそう言った。
「だから、だからどうか、幸せになってね」
彼は、何も言わなかった。こちらを向くこともせず、ただじっと外の雨を見つめていた。もしかしたら何かを言おうとしたのかもしれない。何も言うつもりはなかったのかもしれない。
どちらにしても、次の瞬間に本丸は血と、火の海に沈んだのだから、もう聞くことは叶わないけれど。
本丸が、終わった日。
朝から雨が降っていた。静かに降るそれは、血を流す彼らの体温を奪い、容赦なく冷たく降り注いだ。
「大倶利伽羅くん、大倶利伽羅くん」
ゆさゆさと、横たわる体を揺する。
誰もいなくなった本丸。敵が放った火は本丸を容赦なく包み、呪いと怒りが満ちる世界を作り上げた。
「大倶利伽羅君、起きておくれ。お願いだよ。目を開けて」
私を中心に広がる夥しい刀、刀、刀。全て折れていたその光景に、目を抉り出したかった。
「幸せになってって、お願いしたじゃないか。どうして、どうしてこんな事」
ぼたぼたと、彼の頬に雨が降り注ぐ。あっという間に消えていく温度が、ひどく嫌だった。
「大倶利伽羅君。お願いだよ、起き、」
言葉が止まる。その瞬間を、よく、よく覚えている。
「…泣くな」
ゆっくりと、彼の指が私の頬に触れた。冷たくて、体温の感じられない指先の感覚が伝わる。
「泣いてない、泣いてないよ大倶利伽羅くん。でも、どうにもね、悲しくて、悲しくて仕方が無いんだ。胸が苦しいんだ。いやだよこんなの」
だって、もう何も残ってない。
余りにも急すぎる襲撃に、本丸には何も残らなかった。私の刀も、私自身も壊れ、無くなった中では涙すら出てくれない。
「幸せになって欲しいだけなのに、どうして、どうして…」
彼の手のひらを必死に掴むと、大倶利伽羅君の視線がゆるりとこちらを向く。常通りの穏やかな温度を堪えた金が、雨に濡れて光る。
「…アンタは、ここで生きて、死んだ。その事を、俺が知っている」
誇れ。
泣くな。
「……大倶利伽羅君」
違う、違うんだ大倶利伽羅君。
首を振る。
私が欲しいのはそんな事じゃない。そんな言葉が欲しくて戦ってたわけじゃない。戦の先に必ず貴方が幸せになれる世界があると思ったから。だから、戦っていたのに。あなたを、戦わせていたのに。
「こんな事のために戦ってたわけじゃない……」
ぎゅ、と音がするほど彼の手を握る。が、彼の目は、ゆっくりと閉じる。それが終わりの合図だと、心が訴えた。
あぁ、あぁ、やめて、やめてくれ。
音がする。金属が欠ける、命が尽きる音がする。
「大倶利伽羅君、私、あなたを幸せにしたかったの」
ぱきん。
折れた刀がひとふり、増えた。
「貴方に、幸せになって欲しかったんだよ……」
陽のあたる縁側でゆっくりと目を細めて、気持ちよさそうにあくびをして眠るんだ。時折目を覚ますと小虎達がいたりしてね。それでまた目を瞑る。
そうやって、穏やかで暖かい場所でたまに笑って欲しかった。望んだのはこんな終わりじゃない。こんな、冷たくてぐちゃぐちゃで、何も残らない終わりじゃない。
「こんな、こんな……」
ねぇ、大倶利伽羅君。お願いがあるんだ。
「こんな結末を望んだわけじゃない…!」
すべてを流す雨が、延々と私に降り注いだ。
お願いだよ、大倶利伽羅君。どうか、しあわせになってね。
ぱちっ、と目を覚ます。
「……」
体を起こして大きく体を伸ばせば、ようやく頭が働き始める。
「…夢か……」
久しぶりに見たなぁ。いや、むしろこっちが夢なのだろうか。わからないけれど、大倶利伽羅君が幸せならそれでいいと思う。
カーテンを開けて、青々とした空に目を細めた。
「んん、いい天気だなぁ……」
穏やかな天気だというのに、私の心は一向に晴れる事は無かった。
「あーあ」
放課後。ザアザアと降り注ぐ雨の中、呆然と空を見上げる。黒い雲の中、白糸は降り注ぐ。
そうか、朝の夢はこれのせいだったか。
「傘、傘……」
リュックをがさごそと漁る。確かここら辺に入れてあるはず……。
「……あれ」
再度漁る。しかし、その目的の物は一向に見当たらない。おや、おやおや。
「…無い……」
えーっと。最後に置き傘を使った記憶を辿る。確か数日前に雨が降ったからさして、家で干してそこからどうしたっけ。
「畳んだ記憶が無い…」
ちなみにリュックにしまった記憶も無い。つまりはそういう事だろう。役立つ日に傘は家で置いてけぼりをくらってしまったわけだ。
「どうしたものかな……」
私の横をどんどん生徒達が下校していく。それをぼんやりと見つめた辺りで、覚悟を決めた。
「濡れよう」
仕方ない。こういう事もある。
あぁ、でも大倶利伽羅君はちゃんと傘持っているだろうか。持っているといいなぁ。彼が濡れるところなんてもう二度と見たくない。
ぽんぽんと心配事を頭の中に浮かべながら、雨の中、一歩を踏み出した。
「うううう、意外と降ってる…!」
頭上に感じる冷たさに嫌になりながら、駆け足で学校の門を抜けようとした、その瞬間、足を止める。
「大倶利伽羅君…?」
校舎と剣道部の道場を繋ぐ渡り廊下。道着の彼か立っていた。
「大倶利伽羅君!」
その瞬間、今自分がどんな状況にいるのか忘れ、ぶんぶんと彼に向かって手を振る。
うん、やっぱり大倶利伽羅君は道着が似合うなぁ。素敵だなぁ。
「部活頑張ってね!」
彼の視線がこちらに来た所でようやく自分が土砂降りの中にいるのだと思い出した。
おっとおっと、こうしちゃいられない。流石に風邪を引いてしまう。
大倶利伽羅君に背を向けてまた走ろうとしたがそれは途中で止められる。なにせ、手首を誰かに引かれてしまったため。
「…アンタ」
雨音に混じって、彼の声が響く。
「何してる」
「おっ、大倶利伽羅君こそ何してるの!?」
手首を引いたのは、先程まで渡り廊下にいたはずの大倶利伽羅君だった。
そう、彼は渡り廊下にいたはずだ。屋根のある、濡れることのないそこに。だというのに今、彼は私の腕を引いている。雨に濡れながら、私の手を。
「早く戻って!」
「アンタが戻れ」
「私は今から帰るから良いって…ああもう!戻る、戻るからこんなのやめて、貴方が濡れてる所なんて見たくないのに」
今度は私が大倶利伽羅君の手を引いて走り出す。すっかり冷たくなったその指先に触れて、途端に泣きたくなった。
「あぁもう…!ぐしょ濡れになっちゃったじゃないか!」
どうにか屋根のある渡り廊下まで来て、ようやく私は彼の手を離す。
「どうしてあんな事を…。ううん、今はいいや。とにかく保健室に行こう、あそこならタオルが」
「必要ない」
「…ダメだよ。今ばかりは貴方の言う事を聞けない。風邪を引いたらどうするの。それに、手だって…、……あんなに、あんなに、冷えて……っ」
冷えた指先が、未だにはっきりと残っている。泣くな、と、そう言った彼の体温がフラッシュバックした気がして、それを打ち消すように、手のひらを強く握った。
「…アンタも濡れていただろう」
「私は別に良いよ!濡れてても濡れてなくても関係ない。でも大倶利伽羅君はダメだろう…!」
彼の全てが濡れている。髪の毛から落ちる雫も、頬に垂れる水も、全部全部、彼を奪っていってしまいそうだ、と。おかしなことまで考えた。
「お願いだから、もう二度とあんな事しないで……」
くしゃりと、自身のスカートを握って俯く。彼の濡れている姿を、見ていられなかった。
「…おい」
彼の声が届く。顔を上げることが出来ず、唇を噛んだ。
「…大倶利伽羅く、ンっ!?」
ゴッ。
頭に衝撃が走る。その重たすぎる一撃に思わず頭を抑えてしゃがみ込む。
な、なんだ、何が起きたんだ。雷が落ちたのか。
「お、大倶利伽羅くん、いま、たぶんシリアスな、シーンだったよ、ゲンコツは、いかがなものかと……」
「アンタは」
涙目になりながら顔を上げる。
「…何故、自分自身を勘定に入れない」
雨の音と同じくらい、淡々としていて静かな声だった。彼らしい温度の無い、それだというのに心がある声。
「…濡れていたのは、俺じゃない。アンタだ」
「それは…」
「濡れていたアンタを見て、俺がどう思うか、分からなかったのか」
アンタは、本当に分からないのか。
追いうちをかけるように彼は言葉を続けてくる。
「…アンタが濡れた俺を見て何を思っているのかなんざ知らないが」
大倶利伽羅君が、へたりこんだ私と視線を合わせるように膝を折る。金の目の奥底に潜む熱が、私を捉えた。
「濡れたアンタを見て、殴りたくなった」
「……」
「……そう思う相手がいるのだと、自覚しろ」
言葉が、詰まってしまう。
彼は、何を言っているんだ。彼の言っていることはまるで私の事を言っているような。それも酷く、私に都合のいい言葉のような、気が。
「…分かったのか」
「……分かんない……」
ゆるゆると首を振る。
「でも、でも、だって大倶利伽羅君。おかしいよ。今の言葉がなんだか、すごく私に良いように聞こえてしまって」
足元から何かが溢れてくるような、滲んでくるような感覚がする。彼の言葉が、私の心に染み込んで、消えていく。
「どうしよう、大倶利伽羅君」
「……」
「このままじゃ私が、幸せになってしまう」
「……なればいい」
顔を上げる。柔らかく、雨に濡れて滲んだ彼の瞳が写った。
「…俺は、アンタに何もされずともひとりで生きてひとりで死ぬ。それでいい。それが俺だ。変えようとも思わない」
「……」
「…だが、そう言ったところで、アンタは勝手についてくるんだろう」
「…勿論、勿論だよ。大倶利伽羅君がいるならどこへだっていくよ」
例えそこが世界の果てでもいばらの道でも地獄でも、きっと私はそこに大倶利伽羅君がいるなら喜々として突き進むんだろう。それは、世界が終わっても変わらないというのは、簡単にわかる。
「なら、そうしていればいい」
何も言えなくなった私に、大倶利伽羅君は呆れたような、目尻を緩くした視線を向けてから小さく息を吐き出した。
「…アンタくらいだ。ここまでしつこいのは」
「……当然じゃないか。だって私、貴方の事が好きなんだもの」
大倶利伽羅君は何も言わなかった。渡り廊下にぐしょぬれでふたり。傍から見たら何をしているのかという状況だろう。それでも、私はきっと、この瞬間を忘れない。
「ねえ、ねえ、大倶利伽羅君。私、ずっとあなたに言いたい事があったの」
あぁ、酷く胸が苦しい。涙が出そうだ。
「私、貴方が幸せならそれだけで良いって思ってたし、今も思ってる」
優しくて、美しくて、愛おしい大倶利伽羅君。こんなこの世の全ての財宝を集めたような人が幸せにならない事など、なんの冗談だろう。
「でも、でもね、大倶利伽羅くん。もし許されるなら、私、あなたを幸せにしたい。私の隣で、幸せになって欲しい。一緒に笑ってほしい」
私、貴方を幸せにしたかったんだよ。ずっとずっと、私が貴女を笑わせてあげられたらどんなに幸福だろうって思ってたんだ。
「…アンタが幸せになればいい」
「…」
「それで、全部終わる」
大倶利伽羅君が立ち上がる。呆然とした私に、彼は手を差し伸ばした。
「…いるんだろう、隣に」
「……いいのかなぁ。私、今、余りにも幸せ過ぎて、こんな事じゃダメなのに」
「何がダメなんだ」
「幸せ過ぎて死んでしまいそう」
「…死ぬにはまだ早い」
じいさんになった姿、見るんじゃないのか。彼は小さく口角を上げて、悪戯を思い浮かべたように目を細めた。
「…止んだな」
大倶利伽羅君が空へと目を向ける。どうやらゲリラ豪雨だったらしい。雲の流れは早く、やがて隙間から光が漏れた。眩しさに、目を細める。
「………あ」
大倶利伽羅君と一緒に立ち上がる。光の先、ゆっくりと開いて行く青空の中に、綺麗に輝く虹が見えた。きらきらと光る七色の橋。その美しさに、息が漏れる。
「…雨って、いつか止むんだね」
「…そうだな」
穏やかな風が頬を撫でる。二人、顔を見合わせてゆっくりと笑った。