雨のち晴れ、そして虹_3 | ナノ

……―――何かやりたい事とか無い?
ただ、漠然とした質問だった。誉が沢山貯まったから、したい事を聞きたくて、何かないのかと聞いた。

その時彼は、なんと答えたのだったか。



朝の教室。当然まだ、誰もいない。
そんな所で私は一体何をしているのかと言ったら、そう。勉強である。

「エックスの二乗…あ、いやここ三乗になるから……。ん、んん……?んんん……?」

あ、だめだ分からん。あきらめよ。

そう、思った瞬間、頭上から手刀が落ちてくる。咄嗟に「ヴッ」と、一切可愛らしくない声を出しながら手刀の相手を見上げた。

「お、大倶利伽羅君、おはよう……」
「諦めるな」
「だってだって!何回も見直してるのにどうしてこの答えになるのかが一切分からないんだもの!」
「公式」
「えっ」
「もう一度見直せ」

こ、公式から間違っているというのか…?
まさかの事に戦慄しながら改めて見直す。

「アッ」

なんてこったパンナコッタ。一行目に自信満々に書いた公式が間違っているじゃないか。

「…もう少し周りを見たらどうだ」
「どうにもまだ視野が狭くてね。良くない良くない、こんなの戦じゃ一瞬で蹴散らされてしまう」
「数学の話をしろ」
「分かってるよう」

さて、何故こんな誰も来ていない時間帯にわざわざ学校に来て勉強しているかと言うと。

「しかし宿題が多いね……」

そう。早速入った予備校、驚く事に結構な量の宿題が出るのだ。それに加えて学校の宿題もちゃんとやることにした。
そうなってくると自然と時間が足りない。具体的に言うと、朝、学校に来て勉強するくらいには。
いやはや、我ながら中々に充実した毎日を送ってしまっているなぁ。白目を剥くとはこのことか。いつかの終わらない執務作業を思い出すよ。

「大倶利伽羅君の朝のお勉強は何?」
「英語」
「ワオ!イングリッシュ!アイドントライクイングリッシュだよ!」
「そうか」

彼は前に座りながら、黙々と勉強を始める。きっと、今頃今日の英語の小テストの勉強をしているのだろう。
頬杖をついて、前の背中を見つめる。
シャーペンの走る音だけが響く、静かな教室。暖かな朝の光が、彼の背中に当たっている。

「…………」
うつくしい、と、思った。
それから、いっそ息を止めてしまいたい、とも。

自分の呼吸音ですら、この美しい空間を壊してしまう。教室から出たいけれど、椅子を引く音すら邪魔だ。
あぁ、もう。なんでったって、こんなにもうまくいかないのか。
しかし、この静寂はまさかの目の前の人物によって終わりを迎える。

「……おい」
「ん?どうしたの大倶利伽羅くん。貴方から振り向いてくれるなんて今日は良き日だねぇ」
「今日、テストあるぞ」
「あぁ、英語だよね。覚えてるよ、覚えてますとも。出来てるかは別だけど」
大倶利伽羅君が小さくため息を吐き出す。
あ、このため息知ってるぞ。心底呆れてる時のそれだ。よく知ってるぞ。

「勉強は」
「んん、するよ。というか今してる。集中力は持ってないけど」
いつかのTVで「人の集中力は十五分しか持たない」と聞いたことがある。
その時私は「まさかそんなハハハ」なんて笑ったけれど、勉強するようになると分かる。人の集中力は全く持たない。今の様に。

「もう少ししたら再開するよ。数学がひと段落したからね。休憩だよ」
「……」
「あっ、信じてないなその視線。分かってるわかってる。じゃあ三分後に私が英語の勉強を始めなかったら大倶利伽羅君にジュースを奢らない」
「…奢らない?」
「なんだか今は大倶利伽羅君にジュースが奢りたい気分でね。だから出来れば奢りたい。それなら奢らないにすればいいと思って。どう?」

私にとってはかなり名案だったけれど、彼は滅茶苦茶バカにした視線をこちらに向けた。
ちぇっ、すごく良い案だと思ったのにな。

「大倶利伽羅君は勉強が好き?」

唐突な私の質問に、彼の視線が不思議な色に染まる。

「あっ、いや、なんとなくね。ふと気になって。大倶利伽羅君、すごく頭が良いから。その原動力は何なのかなぁって」
確かに聞いた理由はなんとなくだ。それでも一度聞いてみたかった。こんなに勉強する彼の理由は、何なのだろうか。

「…嫌い、では無い」
「…」
「知らない事を学ぶのは、悪くない」
さわりと、窓から風が入り、穏やかなそれが大倶利伽羅の髪を揺らす。

「……どこか、学ぶということを、してみたかったように思える」
「……あ……」

……―――何かやりたい事とか無い?
緩やかな視線と声に、かつての言葉が反響する。
私が審神者で、彼が刀の時。誉が貯まったから何か褒美を、と思っての言葉だった。
私の質問に、彼はこうして目を伏せてゆっくりと、答えたのだった。

……―――アンタの、勉学の本を貸せ。

いつも通りの穏やかな声に、目を瞬かせたのはこちらである。

……―――え、そんなのでいいの?新しい教科書買うよ。それに私のは沢山落書きがしてあって…。
……―――それで良い。
……―――大倶利伽羅君が良いなら、いいんだけど。

そうして、私の実家からたくさんの教科書が送られた。数学に英語、理科に社会。中学から高校まで。
しかしそれが届くよりも先に、私は。私達は。

「、おい、どうした」
「……え?」
大倶利伽羅君のぎょっとした顔が映る。なんだろうと思った辺りで、机に雫が落ちる。
おや。おやおやおや?これは、泣いているのかな?
「あっ、ごめん、なん、なんだ、なんだろう」
拭っても拭っても涙は止まらない。ぼろぼろと絶え間なく落ちるそれを、必死に止めようと擦った。

「ごめん、大倶利伽羅くんは何も、何も気にしないで、ごめんね、違うんだ。少し顔を洗ってくるから」
早口に捲し立てて、その場から逃げるように教室を出る。大倶利伽羅の声を聞かないフリをしたのは、きっとこれが最初で最後だろう。

「っは、はぁ、ぅ」
廊下を抜けて、校舎を出て、人の居ない方へ。
次第に、走り出していた。
誰もいない校舎。朝練の響く声。遠くから聞こえてくる生徒が来る声。どれもこれも、今の大倶利伽羅くんを作り上げるもの。

……―――学ぶということを、してみたかったように思える。

彼は、ずっとずっと学びたかった。学ぶ為に人になった。そして今、学んでいる。学べている。
それが、こんなにもこんなにも、苦しくて。

「大倶利伽羅くん……っ」
余りにも、嬉しかった。
彼は人になって、やりたい事が出来ている。やりたかったことが、出来ている。それはきっと、酷く幸せな事だろう。酷く、満たされている事だろう。

誰もいない校舎裏にしゃがみ込んで、嗚咽を漏らす。

「っ、ふ、ぅ……」

喜びだ。胸の中に喜びが溢れて溢れて、それが涙となって出てきている。大倶利伽羅君がここにいて、やりたい事が出来ている。こんなにも嬉しい事は無い。

「大倶利伽羅君……」
「なんだ」

え。
体の動きが止まる。ぎぎぎ、とまるで錆びたかのように硬い体で振り返る。

「お、大倶利伽羅君……!?」

驚き動けぬ私と対照的に、彼はずんずん歩いてきて隣で私を見下ろした。その視線の冷たさに思わず「ひぇ」と声が漏れる。

「ご、ごめん大倶利伽羅君。そうだよねいきなり居なくなったりしたら気分悪いよね、ごめんね」
「……」
「私自身、急に泣いちゃってよく分かってないまま飛び出しちゃって、それで、それで」

あわあわと言っているうちに、自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきた。
しかし彼は、ひとつため息をつくと壁際に座って目を伏せた。

「…大倶利伽羅くん、ごめん。すごく失礼な事をしたね。ごめんなさい」

もそもそと、彼と向かい合うように方向を変える。視線が絡むことはない。

「私、大倶利伽羅君がイヤイヤで勉強してるんじゃないかなって、心のどこかで思ってたんだと思う。それが違うってことが分かって、嬉しくて堪らなかったんだ」
「…」
「大倶利伽羅君のしたい事が出来てるっていうのが、本当に本当に嬉しくて。思わず泣いてしまったんだよ」

ごめんね。再度謝ると、彼の口が開かれた。

「…アンタは」

大倶利伽羅君の視線は伏せられたまま。まだ、金の目は見えない。

「何故、俺に構う」

きょとんとした。てっきり伝わっているものかと思っていたから。
優しくて、穏やかで、美しい大倶利伽羅くん。馴れ合うつもりは無いと周りを近づけさせない、孤高の存在。
そんな彼に構う理由なんて、一つしかないだろうに。

「そんなの、貴方が大好きだからだよ」

そこに来てようやく、彼は視線を上げた。きらきらと光る彼の瞳と、交錯する。

「……馴れ合うつもりは無い」
「うん、知ってる。でもそれでいいよ。そのまんまの貴方が大好きなんだもの」

彼は眉間のシワを一本増やして、ため息を吐き出した。
呪詛のようなそれに、笑ってしまう。

「一目惚れだったんだもの。仕方ないよ」
「……迷惑だ」
「うん。もし貴方が本気で私が嫌だと思った時はスルッと居なくなってるから気にしないで」
「話を聞け…」

思い出す。
鍛刀部屋の中、桜が舞い光に包まれて現れたその神様の姿を。美しい神様だった。美しくて、かっこよくて優しくて、穏やかでいて鮮烈な神様だった。
それは人になっても変わらない。相も変わらず私の心を虜にして止まない彼は、今年の春、私の目の前に桜に包まれて現れた。恋に落ちるなという方が無理な話だろう。

「…俺に構うな」
「そう言われても。さっきも言ったけれど私は貴方が好きなんだもの。好きな人の事は構いたくなるよ。あ、隣座っていい?」

何も言わない事を肯定と勝手に受け取り、彼の隣に座る。空を見上げると、鳥が静かに飛んでいた。

「…ところでさぁ、大倶利伽羅君」
「……」
「もうとっくに朝のHR始まってると思うんだよね」

先程聞こえたチャイムはきっと気のせいじゃ無いはずだ。
適当人間な私ならともかく、真面目な大倶利伽羅君は気にしてしまうんじゃないだろうか。

「そろそろ戻る?」
「………」
「戻らなくても私は構わないけど…。あぁ、でも、ここいい場所だねぇ。静かだし、適度に涼しいし。ううん、これは眠くなる…」

さっき全力疾走したからか、落ち着いたせいか、適度に眠気がやってきてきるのがわかる。
そういえば最近勉強時間が増えて睡眠時間が減ってるんだっけ。

「大倶利伽羅君、私はもうこのまま朝のHRと1限くらいをサボるよ。昼過ぎから行こうかなぁ」
「…好きにすれば良いが、アンタ、荷物どうするんだ」
「………………あ」

すっかり忘れてた。荷物、全部机の上に置きっぱなしじゃないか。
「あ〜……」と意味の無い声を上げた。

「んんん、残念。じゃあおサボりはまた今度にしようかな。大倶利伽羅君も戻る?」

服の汚れを叩きながら立ちあがる。しかし隣の大倶利伽羅は立ち上がらない。首を傾げた。

「…大倶利伽羅君?このままサボるなら荷物持ってこようか?」
「…いや。いい」
「……そう?サボらせたの私が原因だし、出来ることなら何でもしたいのだけれど…」
「もう、アンタのことは諦めた」
「…………ん?」

どういう意味?
ぱちくりと目を瞬いていると、彼がふわりと顔を上げた。

「アンタはずっと、そうしていろ」

それだけ言って、彼は立ち上がりスタスタと歩いていってしまった。その背は一度も振り返る事は無く、そして私もまた動く事は出来なかった。

「い、いいの……?」

か細く聞いた疑問の声に、返事は当然ない。無い、が、私の胸には驚くほどの熱量がそこに入れられたのだった。

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