誰も聞いていない、夜の事。 | ナノ
※刀が折れています
「人って死んだら綺麗になるの」
特に脈絡の無い話だった。強いて言えば、修羅場が終わった丁度その時としかいうことは無い。
「ぼろぼろ嫌な思い出や言葉は落ちていってね、その人への憧れと尊敬と、愛だけが残るの」
執務室の中に、審神者の声だけが緩く響く。恐らく眠気と疲れがピークで、何を口走っているのかも分かっていないだろう。大倶利伽羅は、振り返りながら審神者と向き合った。
「おい、もう寝ろ」
「だからさぁ、私の中にはもう綺麗な思い出しか残ってないんだ」
肩を掴む力を少し強くして、ハッとした。ぼろりと、大きな瞳から雫が落ちるのを、見てしまった。
「毎日毎日、彼の事を忘れてってるんだ。だって、嫌な事、あんなにあったはずなのに…今じゃ、もう、楽しかったことしか」
今、この審神者の頭の中にはあの刀が浮かんでいるのだろう。初期刀として多くの刀を率い、前に立ち、教え、そして、折れていった刀が。
「…まるで、初めから楽しかったことしか無かったみたいで………」
俯いた拍子に髪がふわりと揺れた。
「もう、怒った顔が、思い、出せなくて………」
あれだけ喧嘩したのに。
ぼたぼたと、畳に幾つもの透明なシミが生まれていく。それを拭うことも無く、大倶利伽羅はじっとその声に耳を傾けていた。
「なんでだろう…なんで、私の、刀、だったのかな…」
大倶利伽羅は、この雫を拭う事は出来ない。この審神者が、立ち直るのを待つだけ、それしか出来ない。
「……最近ね、どんなふうに笑ってたのかも、思い出せなくて、もう、さ」
きらきらと、相手の顔が眩しくて反射して思い出せない。まるで後光がさしてるみたい。審神者はそう言った。それから、くるしい、とも。
「人間は、忘れる生き物、だから。仕方ない、仕方ないって、わかってはいるんだけど、どうしても、苦しくて」
全てを覚えていたかった。何も忘れず、彼の事を抱いていたかった。でも、それは出来ない。審神者は生きていて、刀はもう、死んでいるから。
「あぁ、私、生きてるんだって、なんか…、…愕然としちゃって」
俯く顔からその表情は見る事はできない。だが、相手がどの様な顔をしているのか、理解するほどには大倶利伽羅はこの審神者を把握していた。それほど、距離を縮めてしまった。
「…死にたいか」
ぴくりと、その肩が揺れた。それから恐ろしいほどにゆるゆると顔が上がる。真っ赤に腫らした目元でこちらを見上げる顔は、随分と間抜けな顔だった。
「…やだよ…だって、死んだら、一人ぼっちじゃん…」
ぼろりと最後の1粒が落ちる。
「私、人間なの。知ってた…?人間なんだ、皆と違うの。ぐちゃぐちゃで、どろどろしてて、刺されたら死んじゃう、人間なの」
審神者の手のひらが大倶利伽羅の胸にひたりと当てられる。中身の無い体は、心音を伝えることはない。
「…皆と、同じところには行けないの…」
だから死にたくない。審神者はそう言った。寂しくて、悲しくて、苦しいから、死にたくない。そう、言った。
「…残念だ」
「…バカだなぁ」
審神者の口元だけがへらりと笑う。
「慰めてるつもりだったの?」
「‥‥」
何も言わずくしゃりと頭を撫でれば、審神者の瞳が柔く揺れた。