記憶喪失大地




せっかくの休みの日。
寝て過ごそうかと思った矢先、一本の着信に叩き起こされる。

それは、岸本からの電話だった。


『愛斗、大変、どうしよう、大変だよ……っ』

「はあ?なに……」

『大地が……ッ大地が……ッ!』


木江大地がバイクと事故った。

そう、受話器越しの岸本は震えた声で俺に伝えた。
あんな自分勝手なやつ、いつかは痛い目に遭うと思っていた。
けれど、それが今であることは少し、驚いた。


『愛斗、明日遊ぼうぜ。面白いもん手に入ったんだ』


昨日の夜、話した時あいつはそう笑っていた。
ダルいから断ったのに、あいつは俺の家に向かっていたらしい。
そんで、バイクに突っ込むとか、本当聞いた時は馬鹿じゃないかと思った。


病院に向かう。
予め伝えられていた病室へ向かえば、扉の前には岸本がいて、俺の姿を見るなり目を丸くした。
それも束の間、その表情にはすぐに陰が差す。


「愛斗……来たんだね」

「お前が呼んだんだろ。……あいつは?」

「ピンピンしてるよ。本当、化物だよね」


そう笑う岸本。だけど、その顔は暗い。


「……本当に無事なのかよ」

「うん、そうだね……体は、元気だよ」


けど、と口を開く岸本。
その言葉を聞いた時、俺の体は勝手に動いていた。
病室の扉を開けば、白いベッドの上、満身創痍のやつがそこにはいた。


「……大地」


名前を呼ぶ。
やつは、その声に反応するように笑った。
そして。


「お前、誰?」


△ ▼ △ ▼ △


木江大地が記憶喪失になった。

それは俗に思い出と呼ばれる記憶だけを全て失っているという状況で、つまり、今ベッドの上で眠ってる大地は真っ更な状態だと言う。


「僕のことも、誰かわからないんだってさ。小さい頃からずーっと一緒なのにさ、誰?ってあのアホみたいな顔で言われた瞬間、なんかもう、ショックだったよ、正直」

「……」

「十和のことも、おばさんもおじさんも、皆覚えていないんだって。本当、都合いいよね、いっつも皆に迷惑掛けてるくせにさ、こんなときだけ、自分だけ忘れるなんて」


「酷いよ」と呟く岸本の目からボロボロと涙が溢れる。
木江大地の喪失した記憶の中には俺もいた。
最初は騙してるんじゃないかと思ったが、全部、本当に忘れたのだという。
岸本のように涙は出なかった。
寧ろ、真っ更な状態になったということはもうあいつに付き纏われずに済むというわけだ。
そう思うと清々した。

だけど、実際は、

もしかしたら何かの切っ掛けで思い出すかもしれない。
そんな可能性のため、岸本に引っ張られ、暇な日はあいつのいる病院に向かう羽目になる。
その度にあいつは屈折のない笑顔で俺たちを迎えた。
患者服から覗く無数の包帯。
その白がやけに眩しくて。


「えーっと、確か……蒼衣ちゃんと古賀君だっけ?」

「よかった、ちゃんと覚えてたみたいだね」

「そりゃあんだけしつこく覚えさせられたんだから。……それに、あんたら目立つから覚えやすいんだよね」


まるで初対面であるかのようなこのやり取りに、正直ウンザリした。
白々しいにも程がある。
それ以上に、何も知らない顔をして笑う大地を見てると、腹の虫が収まらなかった。


「それじゃ、また会いに来るよ」


岸本は、大地に優しくなった。
もし記憶が戻らなかったら、それもそれでいい。また新しく関係を結び直すだけだ。
そう岸本は思っているのだろう。
けれど、俺はそんな気にはなれなかった。


「じゃあねー」


出ていく俺達に手を振り見送り出すあいつを一瞥し、病院を後にする。


大地に未練はない。
元々好きだと思ったこともないし一緒にいればイライラしてばかりだった。


『愛斗、大好きだよ』

『またそれかよ』

『俺、まじで好きだよ。顔とか、手とか』

『……』

『俺のこと、嫌いなところも』


どこまでが本当でどこまでが嘘かも分からない。
掴み所のないあいつが本当にいなくなったこと思うと、腹が立って仕方なかった。


翌日、俺はまた大地のおる病院へ向かった。
隣に岸本はいない。
単身だ。

受付を済ませ、病室へ向かう。
あいつはいつものようにベッドの上で寝ていた。


「……古賀君?」

「……」

「吃驚した。今日は随分早いな。……あれ?アオイちゃんは?一人?」


古賀君、とまたあいつの口が動いたのと、俺がその口を塞いだのはほぼ同時だった。

すぐ目の前には丸くなったやつの目があって、その中に自分の酷い顔が覗く。


「なに、どうしたんだよ、古賀く……」

「それ、やめろよ。古賀君古賀君って……気持ちわりぃんだよ」


「そんなキャラじゃねえくせに」引き攣る顔。
胸を押し返されるが、弱い。
あいつなら、顔面だって躊躇いなくぶん殴ってくる。
けれど、こいつは。


「……俺、何かした?どうして、こんな……」


知らない顔して、綺麗なフリして、そんな態度が余計、踏み躙ってくる。癪に障るのだ。


「古賀、く……ッ」


固く結ばれた唇は舌を這わせればすぐに開く。
けれど、その舌が絡み付いてくることはない。咥内奥、窄まった舌を引き摺り出せば、やつの背中は小さく震える。


「っ、や、めろ……ッ」

「散々強請っておいて、今更嫌かよ。……っざけんじゃねえ」

「何、言って……んんッ」


変わらない感触。匂いも、髪も、変わらない。
それなのに、怯えたその目が余計ムカついて、止まらなかった。

傷だらけの腕を抑え付け、唇を重ねる。
こうしてれば、その内あいつの方から腕を回してくるんじゃないのだろうか。そんな可能性はあっさりと切り捨てられる。
息が浅くなる。熱くなって、血が昇った頭ではなにも考えることが出来なかった。

あいつは泣くばかりで、最後までずっと俺を拒んでいた。
今度こそ、あいつが本当にいなくなったんだと分かった。
傷だらけの体を弄っていたらあいつが戻ってくるのではないだろうか。そんな甘い考えは簡単に叩き壊された。

嗚咽の響く病室内。
シーツに包まり、泣きじゃくるあいつを尻目に服を着直した。

その時、不意にサイドテーブルに置かれたそれに気付いた。
それは、ブレスレットで。
俺の名前が入ったその革製のそれを見た瞬間、頭の中で何かがキレるのが分かった。


『愛斗、明日遊ぼうぜ。面白いもん手に入ったんだ』


あいつに脅迫され、付き合い始めて一年。


「ガキかよ……」


顔の筋肉が引き攣る。ブレスレットに手を伸ばそうとした瞬間、蒼い顔をしたあいつに腕を掴まれた。


「やめろ……ッ」

「……」

「お願いだから、それは、取らないで」


「すごく、大切なものなんだ」真っ赤な目で声を荒げるあいつに背筋が冷たくなっていく。
それと同時に、腹の奥底が焼けるように熱くなるのを感じた。
記憶がないくせに、覚えてないくせに、なんだこいつ……ふざけてんのか。


「うるせぇ、触んな」


しがみついてくるあいつを振り払い、ブレスレットをしまえばそのまま病室をあとにした。
「畜生、畜生」と吠えるあいつの声が木霊する中、俺は、ポケットの中のそれに触れる。

あいつは馬鹿だ。頭の中は中学生、いやそれ以下だ。
それでも、こんなに俺をイライラさせることが出来るのは、あいつしかいないだろう。

やけに強張る表情筋、そのとき笑っているのだと気付いたのは鏡を見た時だった。


おしまい