亡霊が思うには


 15

 精神状態が不安定な奈都を一人にしていいのかはわからなかった。
 だけど、浮かべたその笑顔からどこか吹っ切れたものを感じ、俺は、「お前が妙な真似しようとしたらすぐ飛んでいくからな」と念を押した。
 本当はそんな能力がないが、奈都を無理に束縛しても奈都の心的ストレスになってしまう可能性がある。だから俺は、奈都を見送った。
 詰めが甘いと罵られようが、それが最善のように感じたのだ。

「……っ、はぁ」

 奈都がいなくなり、一人取り残された大樹の前。
 足から力が抜け、俺はその場に膝をつく。全身がひどく気だるい。奈都に突き飛ばされたとき負った負傷を回復するのに大量の精神力を費やしてしまったのだろう。俺だけでもこんなに困憊しているのに、奈都の疲労を考えたら背筋が薄ら寒くなった。
 しかし、今は奈都を追いかける気力は残っていない。そのまま地面の上に蹲った俺は体力を回復させることに集中させる。
 そのときだった。背後で、土を踏みしめるような音がした。

「っ!」

 慌てて顔を上げ、気配のする方へと振り向けばそこには見慣れた人影があった。

「馬鹿だとは思ってたけど、ここまで平和ボケしてるなんて」

 末期だな、と藤也は呟く。
 いつからいたのだろうか。現れたそいつに目を丸くした俺は、そのまま藤也から目を逸らす。

「悪いな、平和ボケで。生憎平和な世界で育ってきたもんでな」
「じゃないと、そんな考えにならないだろうし」

 近づいてくる藤也は呟く。いくら自虐しても他人に指摘されると頭にくるものがある。

「なんの用だよ」
「別に」

 目の前にやってくる藤也を見上げた時、不意に腕を掴まれる。

「いっ」
「……」

 先程結界に当たった拍子に擦り剥いた肘はまだ完治してなくて、藤也はそれが気になったらしい。
 無言で生々しい傷跡を眺められ、その擽ったさに小さく舌打ちをした俺は藤也の手を振り払った。

「別に、これくらいどうって事ない」

 そう、藤也に背中を向ければ藤也もそれ以上執拗に絡んでくるわけではなく「あっそ」とだけつぶやき俺から離れた。
 やけに絡んでこない藤也が気になってその後ろ姿に目を向けた時だった。

「……奈都のこと、止めてくれてありがとう」

 小さな声。藤也の口から感謝の言葉が出るとは思いもしなくて、一瞬聞き間違いかと思い目を丸くすれば、不意に藤也がこちらを見た。

「あと」
「……なんだよ」
「あんたの友達。放っといていいの」

 忘れてた。


 ◆ ◆ ◆


 藤也の言葉に仲吉のことを思い出した俺は慌てて館の中へと向かった。
 屋敷内、応接室。

「仲吉っ!」

 声を荒げ、勢い良く扉を開けば、部屋の奥から「ひぃっ!!」と情けない声が聞こえた。

「って、あれ、南波さん…?」
「すっすみません!俺ですみません!」

 ここを出る前、仲吉が眠っていたソファーには丸まって震える南波がいるだけで。
 居た堪れなくなるほどの怯えっぷりを見せてくれる南波の他に人影は……あった。

 部屋の隅。壁にかかった絵画を写メっていた仲吉はこちらを振り返るなり、ぱっと表情を明るくした。そして、切羽詰まっている俺に不思議そうにする。

「ん?どうした?準一」
「いや…早とちっただけだ」

 どうやら、目を覚ましていたようだ。俺がいない間に花鶏たちに妙なこと吹き込まれてないか心配だったが、いつもと変わらない脳天気なやつを見る限り心配は要らないようだ。

「南波さん、ずっとこいつ見ててくれたんですか?」
「いや、その、勝手に動いていいという許可を貰ってなかったので」

 そもそも最初からそんな許可は必要ないのだが。それでも、仲吉から目を離さずにいてくれたのは嬉しい。なんだかんだ、南波が一番まともそうだし。

「ありがとう」

 お疲れ様の意を込め、ぽんっと南波の背中を軽く叩く。瞬間、南波の大きな背中がビクッと跳ね、そこで俺は自分のとってしまった行動にハッとした。

「あっ、わ、すみません……つい」

 相手は男嫌いだった。いつもの癖でスキンシップを計ってしまったことを激しく後悔しながら南波から手を離す。
 しかし、南波は全身から血を吹きながら痙攣を起こすことも、皮膚が腐敗し溶け出すこともなくて。
 おお?と思いながら南波を見上げれば、ど派手な金髪の間から覗く耳が真っ赤になってることに気付いた。これは、進歩なのか。
 思いながら、まじまじとその様子を見守っていた矢先だった。

「しっ、失礼しましたっ!」

 震える声を無理に張り上げ、南波は脱兎のごとく応接室を飛び出した。元気そうで何よりだ。

「なぁ、どうしたんだよ。血相変えて」

 南波がいなくなったあとの応接室。
 眠っていたのでなにがなんたかわからないのだろう。不思議そうな顔をしてこちらを見る仲吉に「いや」と重い口を開く。

「俺が目を離した隙にまたお前がちょろちょろしてないか気になってな」
「しねぇよ、俺は鼠か」
「なんで鼠だよ、バカ」

 心外だとでも言うかのような仲吉。
 確かに、大人しくしていたみたいだ。ちょっと目を離した隙にやれ心霊スポット、やれホラー映画と騒いでいた仲吉も仲吉で成長しているのかもしれない。俺は何も言えなくなる。
 むっとした仲吉が俺を見た。

「準一こそ、どこ行ってたんだよ。ちょろちょろして」
「ちょろちょろしてねえよ。……ちょっと、奈都が気になったから」

 嘘ではない。ちょっとだけ、ちょろちょろしていたかもしれないが。奈都の名前を聞いた瞬間、仲吉の表情が不安げに曇った。

「あいつ、どうだった?」
「多分、もう心配いらない」
「大丈夫なのか?」
「気になるけど……あいつなら、大丈夫だろ」

 あとは、奈都の精神状態回復を待つしかない。
 もう、俺にやれることはあいつの憂さ晴らしに付き合うことぐらいだろう。カウンセラーでもなければ心療内科でもない、これ以上は俺の専門外だ。

「そっか。……なら、よかった」

 俺の言葉を聞いてほっと仲吉が息を吐いた。
 そのときだった。

「っつ、ぅ」

 仲吉の顔が引き攣る。胸元を抑え、小さく呻く仲吉に驚き、慌てて俺は奴に駆け寄った。

「仲吉?」

 言いながら、丸まったやつの背中に手を伸ばそうとした時、慌てて仲吉は体勢を直した。そして、青褪める俺に笑いかける。引き攣った笑み。

「いや、悪い、なんでもない」
「大丈夫か。顔色酷いぞ」
「うん、大丈夫、大丈夫だから……、っ」

 言い終わる前に、仲吉は口元を抑える。
 吐き気か、或いは。

「仲吉?」

 そう、再度仲吉を呼び止めようとした時だった。
 仲吉に触れようとした手が、擦り抜ける。そのことに気が付くのと、仲吉が身を引くのはほぼ同時だった。

「わり、ちょっと、ごめん」

 呆然と自分の手を見つめる俺に、仲吉はそういうなり慌ただしく応接室を出ていった。
 何がごめんなのか、奴がどこへ行ったのかはわからなかったが、ただ、俺が近付かないほうがいいということはなんとなく理解できた。

「……」
「随分と、具合が悪そうですね。仲吉さん」

 仲吉のやつ、大丈夫だろうか。立ち去った友人のことを気にかけていた矢先だった。
 背後から聞こえてきた声に、全身が緊張する。艶かしく、甘いその声の持ち主はすぐにわかった。

「花鶏さん」
「まあ、生身の人間がここにいたら誰も彼も当てられてしまうのは仕方ないですからね」

 カラン、と下駄が鳴る。声を出さずに薄っすらと笑う花鶏の言葉に、俺はわずかに眉を寄せた。

「当てられるって、なにがっすか」
「人の感情は空気感染します。私達のような負のオーラの塊は健全な人間にとっては毒同然。肉体精神を蝕んでいきますからねぇ」

 つまり、一緒にいるだけでも仲吉の負担になるということか。
 ただでさえ胡散臭い花鶏の言葉を何でもかんでも鵜呑みにはしたくなかったが、妙な説得力が花鶏にはあった。それに拍車をかけて、慣れてない環境での疲れや奈都のことでの考え事やらで仲吉の疲労は限界に近いのかもしれない。
 このままでは、駄目だ。俺は、口の中で呟いた。自分に言い聞かせるように、呟いた。
 言いたいことだけ言った花鶏は満足そうに消えていった。
 善意と愉快犯が共存しているあの人が俺たちのことを心配しているかどうかはやはり謎だったが、追いかけてまで確認しようとも思わない。
 戻ってくるはずであろう仲吉を大人しく待っていると、やつは応接室に戻ってきた。先程よりか、幾分顔色を良くして。

「わりーわりー、ちょっと便所いってきた。って、どしたの」

 そう不思議そうにする仲吉の手にはビニール袋が握られていた。
 ここを出ていく時には持っていなかったものだ。もしかしたらそれを取りに行ってたのかもしれない。思いながら視線を外した俺は「いや、別に」とだけ呟く。

「ん?そう?まぁ、いいや」

 人気のなくなった応接室。
 俺の座るソファーの隣、「よっこいしょ」と掛け声付きで仲吉は腰を下ろしてきた。
 そして、ガサガサとビニール袋を漁り出す仲吉を横目に俺は「あのさ」と俺は重い口を開く。

「お前、今日はもう」
「あ、そーだ」

 帰れよ。そう続けようとした矢先だ。
 ビニール袋から市販の弁当を取り出した仲吉に遮られる。出鼻挫かれ何とも言えない気分になる俺のことなんか気にせず、仲吉はその弁当を開く。

「ほら、準一にお土産!」
「……なにこれ」
「一応来る前食ってたんだけどやっぱ腹減るだろうなぁって思ってさ、途中で買ってきた。でも、やっぱ近くにコンビニないって不便だよなぁ。まじで」

「ほら、これやるよ。お前、卵焼き好きだっただろ?」味はどうか分かんねーけどさ、と楽しそうにはしゃぐ仲吉になんだか俺は頭が痛くなってくる。
 本当に、こいつは、マイペースにも程があるんじゃないのか。

「準一?」
「余計なことすんじゃねえよ」

 箸で摘んだ卵焼きを食べさせようとしてくる仲吉を手で止めた俺は、そうやつから目を逸らした。

「自分で食えよ、弁当くらい。俺が食べたって仕方ないだろ、馬鹿じゃねーの」

 ひどく、自分の言葉が冷たく聞こえた。しかし、謝らない。謝る気はない。こいつの場合は、ハッキリ言わないとわからないのだ。
 案の定、仲吉は表情に不快の色を浮かべる。これも、想定内だ。

「なんだよ、その言い方。……俺は、準一が喜んでくれたらそれで……」
「だから、それが余計だって言ってんだよ」

 仲吉の顔を見れなかった。見たら多分、俺のほうが無理だったから。
 もう少し俺が上手いこと物を言える人間なら、やつを傷つけるような言葉を遣わずに済んだのだろう。それがなによりも悔しい。

「俺はもう死んでんだよ。優先順位を間違えんじゃねえ」
「死んでねえよ」

 ハッキリとした言葉だった。膝を掴んでいた手首を掴まれ、そのままぐっと引っ張られる。え、と顔を上げれば、仲吉と目があった。
 戸惑う俺に構わず、やつは俺の手の甲に自分の手を重ねた。
 触れ合った箇所から、やつの体温が流れ込んでくる。全身が、金縛りにあったように動かなくなった。

「生きてんだろ、ちゃんと。ほら」

 目を丸くし、きょとんとする俺に仲吉は笑う。だけど、その目はどこか怒気を孕んでいて。
 仲吉にそんなことを言ってもらいたかったわけじゃなかったのに、その言葉に自分の心が軽くなるのを感じて、自分が恥ずかしくなる。

「……っ、ほんと、馬鹿だろ」

 こんなこと、まやかし以外の何物でもないとわかっているのに、その言葉を待っていたみたいに喜ぶ自分が情けなくて、恥ずかしくて、バカバカしくて、心地よかった。
 大馬鹿は俺かもしれない。

「なに今更反抗期になってんだよ。素直にもらっとけばいいんだよ、こういうのは。ほら、口」

 反応が鈍い俺を不満に思ったらしい。
 むーっとしながらも、そう、箸で摘んだ卵焼きを近づけてくる仲吉。

「……後から返せって言われても返さないからな」

 目の前に迫るそれから視線を外し、仲吉を見上げれば奴は「はいはい」と笑う。そして、俺は鼻先に突き付けられる卵焼きをぱくりと頬張った。咀嚼。

「ど?」
「……んまい」
「そうか!ならよかった」

 やつの思考回路は単純らしく、拗ねていたと思えばすぐ表情を崩し、無邪気な笑顔を浮かべる。
 そのやつの笑顔に、ほっと自分が安堵するのを感じた。そしてすぐ、バツが悪くなって仲吉から視線を外す。

「これ、食い終わったら帰れよ」
「は?そんな嫌わなくていいだろ」
「嫌ってねえよ。……嫌ってないけど、行ったり来たりで疲れてんだろ。扱き使いまくったし、ちょっと休め」

 怒鳴りそうになるのを我慢しながら、俺は続ける。
 どうも自分は相手のためを思えば思うほど強制してしまうらしい。それが無鉄砲で無茶する仲吉だから、尚更。

「心配してくれてんのか?」
「そーだよ、心配してんだよ。悪いか」

 もう、ヤケクソだった。
 もともと、こいつ相手に意地を張ったところで意味はない。開き直れば、きょとんとしていた仲吉はぶんぶんと勢い良く首を横に振る。

「いや、すげー嬉しい」
「……」
「わかったわかった、ちゃんと帰ればいいんだろ。準一って結構心配性だな」
「お前だからだよ」
「え」
「お前と一緒にいると、心臓がいくつあっても持たない」

 弁当を食べ進んでいた箸を止め、こちらを見る仲吉の目が大きくなる。みるみるうちにやつの顔が赤くなっていき、こっちまで恥ずかしくなる。開き直るんじゃなかった。

「ほら、食ったんならさっさと帰れよ。すぐ夜になるぞ!」
「わ……わかった、わかったから引っ張んなってば!」

 恥ずかしさを紛らすように弁当を平らげたやつの腕をグイグイ引っ張り、バタバタと俺はやつを崖上まで連れて行く。そして、半ば強引に見送れば、渋りながらも仲吉は素直に車に乗り込んだ。
 いつものあいつの正確なら無理してでもここに居座ろうとするのだが、やはり、心のどこかで帰りたがっていたのかもしれない。


 仲吉を見送ったあとの樹海の中。
 エンジンの音が遠ざかるのを聞きながら、俺はあいつが無事旅館へと戻れることを祈る。そして、やがてそれすら聞こえなくなり静寂が周囲に戻ったとき。
 俺は、肺の中に溜めていた息を引き出した。

「……」

 そうだよな、いつまでもあいつを巻き込むわけにはいかないよな。
 まだ心の中で決心つくことが出来ない自分に言い聞かせるように繰り返す。

 あいつと俺は、もう違う。


 第五章 完

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