アダルトな大人


 本職さん

「ふう……」

 でも、これで一先ず安心だ。
 ようやく、笹山を避けなくてもよくなるのだから。
 冷蔵庫の中、『原田』と張り紙をしていた炭酸ジュースを取り出す。ちょっと待て、確か俺新品のまま突っ込んだはずなのになんで3分の1なくなってんだよ誰だよ勝手に飲んだ奴。
 誰が飲んだのかわからないものをラッパ飲みするのもあれなので、適当なグラスを用意しようとしたとき。
 休憩室の扉が開く。

「あれ、かなたん」

 現れたのは紀平さんだった。
 少しだけドキドキしながらも、慌てて振り返った俺は「どうも」とだけ会釈する。
 いつもと変わらない笑顔の紀平さんだったが、俺を見た瞬間目が細められる。

「…かなたん、すごいねーそれ」
「え?」
「わざと見せてんの?それ」

 それ、と同時に伸びてきた手に首筋を擽られる。
 ビックリしてグラスを落としそうになったが、なんとか抱き留めた。
 ……それよりも。

「ぅっ、あ、あの…なに…」
「ん?もしかして気付いてなかった?」
「…え?」
「キスマーク、すごい付いてるよ」

 囁くようなその言葉に、一瞬で顔面に血が集まるのがわかった。
 そういえば、店長も俺の首を見て笑っていた。
 まさか、そういうことだったのか。
 あの睫毛一言くらい言ってくれたってよかったのではないかと憤慨するが、それよりも今は目の前のこの人だ。

「いえ、あの、これは…」
「ん?」
「こ、これは……」

 そうだ、店長と付き合うことになったって言えば信憑性増すんではないだろうか。
 そう閃いた俺だが、如何せん笑顔であるはずの紀平さんの目が笑ってなくてちょっと本当怖いんですが。

「どうしたの、別に怒らないから言ってみなよ」
「え、えぇと…その、店長…」
「は?店長?」

 紀平さんの嘘つき。めっちゃ怒ってるじゃん。

「なに?まさか、店長に?」
「いえ、その、無理矢理とかじゃないっすけど…」
「合意で?かなたんそういうプレイ好きなの?……そんなの、俺に言ってくれればいつでも消えない痕、全身に付けてあげるのに」

 やばい、まずい、話の流れがおかしい方向に向かっている。
 口を開けば開くほどややこしくなる話の流れ。
 そもそも、紀平さんは脅迫文のことを知っているわけで隠す必要も誤魔化す必要もないだろう。
 全身に消えない痕付けられてしまう前に、俺は店長に協力してもらって付き合うフリをすることを紀平さんに打ち明けることにした。

「…ということなんです」
「……」
「あ、あの…紀平さん?」

 ちゃんと説明したはずなのに、誤解は解けたはずなのに、紀平さんの表情は強張ったままで。

「あのさ、かなたん……」
「は、はい」
「なんで店長なわけ?」

 何とも言えない表情の紀平さんの問い掛けに、すぐ反応することが出来なかった。
 何故、何故だろう。

「えっと…提案されたからですかね」
「なら、俺とでも良かったんだよね」

「えっ?」と顔を上げればすぐそこに紀平さんの顔があって、咄嗟に後ずされば壁にぶつかった。
 あっという間に追い込まれ、「え、え」と一人狼狽えていると伸びてきた手に頬を撫でられる。

「今からでも遅くないよ。かなたん、俺と付き合わない?」
「えっ、あの、きっききき紀平さん?」
「……」
「あの、その、俺……」

 悪い冗談だとわかっていても、男相手に追い込まれれば動揺せずにはいられなくて。
「すみませんっ」と軽く紀平さんの胸を押し返せば、少しだけ目を丸くした紀平さん。それもすぐ、いつもの柔らかいものに戻る。

「やっぱり、本職には負けちゃうねえ」

 そう諦めように、それでも愉しそうに笑う紀平さん。
 その口から出た言葉に、「本職?」と思わず聞き返した。

「あれ、かなたん知らなかったっけ。店長、結構有名なとこの一番だったんだよ」
「一番?…って、え、まさか」
「ホスト」

「だからまじの口説き落としは敵わないなーやっぱ」となんでもないようにヘラヘラ笑う紀平さんに、口説き落とされたであろう立場である俺は少なからずカルチャーショックを受けていた。
 べ、別に店長が本気でそういうあれのつもりで俺に協力してくれていたと思っているわけではないが、あの時、頭を撫でてくれた時も、店長の目には客の一人として映っていたのだろうか。
 そう思うと、なんでだろうか。何故だか胸の奥が少しだけ、ちくりと痛んだ。ような気がした。

「まあ、かなたんが店長と付き合うっていうんなら別に構わないよ。俺も協力するし」
「いいんですか?」
「勿論、だって面白そうだし」

 そう言う紀平さんの笑顔に一瞬寒気がしたが、何故だろうか。
 しかし、一人では心もとない状態である今紀平さんの協力はありがたい。

「あ…ありがとうございます…!」
「いえいえ、どーいたしまして」

 ヘラヘラ笑う紀平さんに頭を撫でくり回される。
 よく紀平さんに頭を撫でられるのだがそんなに俺の頭部は撫でやすい位置にあるのだろうかと疑問に思いながらも、悪い気はしなくて。

「それで?他のやつらに広めとけばいいわけ?」
「はい、なんか店長はそう言ってましたけど…」
「わかった、それなら任せてよ。ついでに尾ひれ背びれつけて広めとくから」

 あ、せめて尾ひれぐらいにしといて下さい。
 めっちゃ生き生きしてきた紀平さんになんだか早まったような気がしてならないが、どちらにせよ第三者の協力は不可欠で。
 取り敢えず俺は紀平さんに任せておくことにした。
 そもそもそれが間違いだったということを知るのに、然程時間は掛からなかった。


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