アダルトな大人


 営業男の嘘真※

 通路にて。
 紀平さんと別れた後もずっと、あの脅迫文のことについて考えていた。
 更衣室ってことはやっぱり内部の犯行か…ってほとんど女いねえし。

 なんて一人悶々と考えていると、向かい側からカツカツと靴音が聞こえてきた。
 顔を上げればそこには店長がいるではないか。
 やべ、またなんか言われると思った矢先目を付けられる。

「原田、どうした。暇ならそこの荷物中に運んどいてくれてもいいんだぞ」
「…わかりました」
「なんだ?やけに素直じゃないか。俺は少々生意気な方が好みなのだがな」

 にやりと不敵な笑みを浮かべる店長。残念ながらためにもならないアドバイスに対しツッコミ返す元気は俺には残されていない。
「そっすか」と気の抜けた返事をすれば、そんな俺の腑抜けた態度が引っ掛かったようだ。

「……何かあったのか?」

 僅かに眉を寄せる店長に尋ねられ、自分の中のなにかが揺らぐのが分かった。
 そうだ。少なからず俺よりは女心の何たるかを弁えているであろうならば。それに多少睫毛であろうがセクハラ野郎であろうが店長は店長だ。自分の店で起こったことならば少しは真剣に相談に乗ってくれるのではないだろうか。
 思い立ったら即行動。
 意を決した俺は、目の前に立つ宛らホストなスーツの男を見上げた。

「む……なんだ」
「店長は、女の子に怨まれたり妬まれたりしたことあるんですか?」
「それを俺に聞くのか…!」

 なんともバツが悪そうな店長だったが、すぐ気を取り直すように咳払いをした。

「まあ、ないことはないな。包丁持って追い掛け回されたり、帰り道、待ち伏せした女に轢かれかけたり焼却炉に監禁されかけたことはある」

 めっちゃあるじゃねえか。控え目な感じで言っているがあんたどうやって逃げ延びたんだと呆れずには居られなかって。

「昔の話だけどな。今はもう全て清算したから問題ない」
「そ、そういう問題なんすか…!」
「そういう問題だ!」

「……と思わなければ身が保たん」と小さく付け足す店長。
 思いっきり自己暗示じゃねえか。
 店長の性格的に少しは修羅場を迎えてるのではないかと思っていたが想像以上だった。何をどうすれば焼却炉に閉じ込められるのか気になったが深く踏み入れないことにしよう。まだ死にたくない。

「それで、どうした?女に恨まれたのか?」
「ま、まあそんなことです」

 まさか自分が妬まれている立場だということだけは知られたくなくて、ちょっぴり意地張ってみる。
 すると目を細めた店長は「ほぉー?」と意味深な視線を向けてくるではないか。

「なんですか、その目は…!」
「いやなに、お前にもそういうあれがあるのだなと思ってな」

 ちくちくと突き刺さる視線が痛い。
 信じてくれたのかどうかはわからないが小馬鹿にされているのには違いないようだ。

「そこまで気が滅入っているのなら未奈人さんに言えばすぐに片付くんじゃないか?」
「じょ、冗談じゃないですよ!兄に泣き寝入りなんてしたらどうなるか…!」
「わ、悪かった。今のは俺が悪かった…。でもまあ、そうだな。そういうことは慢性化する前に面と向かって話付けるなりさっさと片付けた方がいいんじゃないのか」
「そうしたいんですけど…」

 相手すらわからない今の状況、犯人を絞ることすら出来なくて。
 俯く俺に、店長は不思議そうな顔をした。

「なんだ、なにか問題でもあるのか」

 ここまできたらもう素直にぶっちゃけた方がいいのではないのだろうか。
 下手に見栄を張ったところで解決策が遠ざかってしまうくらいなら、余計。

「実は…」

 というわけで、俺は店長に先程紀平さんから聞いたことを洗いざらい話すことにした。



「…ふむ」

 珍しく茶々を入れずに真剣に最後まで聞いてくれた店長に内心戸惑わずにはいられなかったが、誰でもいいから縋り付きたい今はこの目の前の睫毛が頼もしくすら見えてきた。

「どうしたらいいんすかね、俺」
「なるほどな。…答えは簡単ではないか」

 そして、一呼吸置いて店長は口元を歪める。

「笹山に近付かなければいい」

 予想だにしていなかった店長の提案に、思わず「えっ?」っとアホ面になる俺。
 そんな俺を差し置いて、目の前のとんでも睫毛もとい店長は思考を膨らませ始めた。

「しかし、それでは仕事に支障が出るしな。…ならばこうしよう、笹山以外に近付けばいいのではないのか?」

「犯人は笹山と仲が良いお前に嫉妬しているのだとすれば、原田が笹山以上に親しい相手を作れば特別扱いされていると思わなくなるはずだ!」としたり顔で決める店長。
 ああ、まあ、確かに一理あるとは思ったが、店長の作戦には決定的な欠落がある。

「た、確かにそうですけど…でも、いきなりそんなり女の子とそんな…」

 そりゃ店長ならばその気になればいくらでも金やら顔やら酷使してホイホイ女の子捕まえられるかもしれないが、自慢ではないがこの俺、生まれてこの方まともに妹と女中以外の異性とはまともに話したことがない。
 妹のせいで下手なことを言ったら罵倒されたり鞭取り出されて打たれるかもしれないという余計な恐怖心を植え付けられてしまったのだ。許すまじ。

「別に女である必要はないだろう」

 一人悶々と悩んでいると、あっけらかんとそんなことを言い出す店長。
 一瞬意味がわからなくて、「えっ」と顔をあげようとした瞬間、伸びてきた手が頬に添えられる。
 その感触にびっくりして、全身の筋肉が硬直した。

「…原田、俺と付き合ってみるか?」

 あれ程喧しかった土砂降り注ぐ雨音が確かに遠く聞こえた。
 顔のすぐ側まで迫った店長の目から目が逸らせなくて、一瞬反応に遅れてしまう。
 辺りに妙な沈黙が流れた。
 とにかくなにか返してこの妙な空気を打破しなければ、しなければ、まずい。なにがまずいのかはわからないが。

「……は?」

 というわけで、精一杯悩んだ結果俺の口から出たのはなんとも頭の悪そうな返答だった。
 そんな俺に、店長は喉を鳴らして笑う。

「なに、ちょっとしたフリだ。こういうことは男同士の方が手っ取り早いだろ?」
「な、何言ってんすか…!そんな、両思いでもないのに…お、お付き合いだなんて…!」

 小さい頃から兄から『付き合う相手はまず数年じっくりと時間を掛けて相手を知り、それで人生を共にするに相応しい相手と永遠を添い遂げることを前提としてお付き合いを申出しなさい』と煩いくらい叩き込まれていた俺からしてみれば軽々しくそんなことを口にする店長に今更ながらも戸惑えずにはいられなくて。
 フリだとしても、というかフリだとしたら尚更兄に知られたらなんて言われるかわからない。
 一人百面相を繰り広げていると、不意に店長の顔が近づいて来て。

「お前のためだぞ、原田」

 近付く唇に、脊髄反射で後退ろうとすればすぐ背後の壁に背中がぶつかってしまう。

「俺なら事情も分かってるしお前の不利になるようなことはしない」

 あっと言う間に追い込まれ、いくら人気がないとは言えどいつ誰が来てもおかしくない通路のど真ん中。
 本来ならば振り払えば済む話なのだが、そう追い込んでくる店長は俺の為だというし。

「え、あ……うぅ…っ」

 頭がこんがらがって、なんだかもうなにがなんなのか。
 店長を追い払うにも、店長の提案を飲み込もうとしている自分がいるせいで顎を掴んでくるこの手を振り払うことができなかった。

「ただちょっと他の奴らに見せつけるだけだ。…どうだ?中々悪くない案だと思うが」

 店長が喋る度に生暖かい吐息が吹き掛かる程の、至近距離。
 その言葉に、ただでさえこんがらがってる思考回路は既に渋滞を起こしてしまってて。

「見せ…つける…?」
「ああ、例えば…そうだな」

 顎を撫でていたその指先に、軽く顔を持ち上げられた。
 瞬間、唇に柔らかい感触が押し当てられる。

「ん…っ」

 目の前、すぐ傍にある店長の長い睫毛に、自分が何をされたかは理解出来た。
 全身の血液がどっと熱を帯びたのは恐らく気のせいではなくて。
 呆然とする俺に、店長は何事もなかったかのように唇を離す。

「こんな風に恋人らしいことしてれば勝手に騒いでくれるはずだ」

 キスというにはあまりにも優しくて、ただ触れられただけにしてはあまりにも刺激が強すぎて。
 硬直する俺に、微笑む店長。
 肩を掴んでいたその手が、ゆっくりと腰に回される。
 その生々しい動きに、ハッとした俺は慌てて店長の胸を押し返した。

「っ、店長……!」

 腰を撫でるその手に、こそばゆさと恥ずかしさで力が抜けそうだった。
 それでも必死に店長の腕から逃げようとするけど、如何せん、体勢が悪すぎる。

「どうした?そんなにガチガチになってたら不自然だぞ」

 壁に押し付けられた体は実質八方塞がりで。
 恋人同士はこんな人目につきそうな場所でもこんなことするのか。
 恐らく一生俺には理解出来ないであろう世界だ。

「もっと力を抜け」

 不意に、耳朶に寄せられた唇に息を吹き掛けられ全身が震える。
 あまりのあれで硬直する俺に構わず、這わされる舌に耳朶を舐められぞくりと悪寒にも似たなにかが背筋に走った。

「待って下さ、ぁ…やっぱり、こんなこと…!」

 なんとか店長を離そうと奮闘してみる。
 しかしそんな俺に構わず、伝う唇は徐々に硬化してくる。
 耳元から首筋へと舌を這わされ、熱い舌のその濡れた感触に触れた箇所が痺れるように疼き始めて。

「ちょ、ぁ…ッ」

 そんなこんなで舌に気を取られている内に、伸びてきた手に胸元をまさぐられる。
 それだけでもただでさえ混乱している俺を更にこんがらがらせるというのに、店長の指はあろうことか衣類越しに乳首を撫でて来て。
 今まで散々噛まれたり抓られたり潰されたり吸われたりと嬲られてきたそこは少しの刺激でも結構あれなあれなわけで。
 びっくりして、慌てて身動いだ俺は肩口に顔を埋めてくる店長の頭をばしばし叩く。やっぱり俺には恋人はまだ早い。

「や、ぁ、ッだめ、やっぱり無理です、こんなこと…っ!」

 二人きりの今でも顔から火が出てのた打ち回りたくなるというのに、人前で?いや、普通に無理だ。俺は清いお付き合いで十分だ。
 そう訴え掛けるが。

「問題ない、直に慣れる」

 ばっさりと一蹴された。
 出来ることなら慣れたくねえという俺の意思は例の如くガン無視である。
 だけど、誰かと仲良くなれないなら笹山と普通に話せなくなるわけで。
 それは嫌だ。だけど、だからといって…。

 なんて一人悩んでる矢先、シャツ越しに浮かび上がった突起を指で押し潰され、悩み諸共頭の中が真っ白になる。

「ッ、ぅ、あ…っ」

 両胸の乳首を指先でやわやわ刺激されれば、胸の奥、体の芯がぼうっと熱くなってきて。
 よくないと分かってても、その心地よい刺激に全身の力が抜け落ちそうになる。

「も、ほんと、てん…ちょ…う…!」

 店長の肩を掴む手に力が入らず、それどころか腰を抜かしそうになるのを堪えるため店長にしがみつくような形はなってしまう。
 それでも店長は楽しそうに目を細めるだけで。

「そんなに好きなのか?」

「胸を弄られるのが」と耳元で笑われ、多分、5センチくらいは火が吹いたんじゃないだろうか。
 意地の悪いその言葉に、吹き掛かる吐息に、もどかしいその指の動きに、どれ程取り繕ったところで全てを見透かされた上で誂われている気がして。

「っは、ぁ……う……」

 直接触ってなんて口が避けても言いたくない。
 だけど、店長なら多分俺の言葉も聞いてくれるような気がする。
 だけど、だけど、なんて考えた結果、今の俺には店長を離そうとしていた手を緩めることが精一杯だった。
 おずおずと抵抗を止める俺に、何か悟ったのだろう。
 微かに店長が意外そうな顔をして、そして満足そうに笑った。

「…可愛いやつだな」

 その声に、言葉に、脳髄の奥、何か色々詰まっているであろうそこら辺がどろっと蕩けたような気がして。
 火照ったみたいに熱くなる全身。
 首筋に触れる店長の唇が冷たくて、気持ちよくて。

「てんちょ……」

 つい、その背中に手を回しそうになった、その瞬間だった。
 びびびびびび!と鋭いサイレン音がけたたましく通路に響き渡った。
 その音源は俺のエプロンのポケットからで。
 ああ、そうだった。兄からの着信を聞き逃さないため、とにかく喧しいものに兄だけ設定していたのだった。
 すっかり忘れていた俺は思い出すと同時にあまりにも測ったような兄からの着信に血の気が引いていく。

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