雨の日の忘れ物にご用心
アダルトショップで働き始めて、どれくらい経つだろうか。
実家に帰ってからは兄からの妨害はなくなったものの、毎日朝昼晩まるで定期メルマガの如く兄から入るようになった定型文メールにもそろそろ慣れてきた(因みに内容も体調や食事について事細やかなアンケートのような内容で、文末には豆知識のような一文が入るので益々業者メルマガ臭いが無視すると大量にメールが送られ続けるのでそこら辺の業者より質が悪い)。
周りがアクが強い奴らばかりだから毎日何かしら問題は起きるのだが、それでもここ最近は比較的平和な日々を過ごすことが出来ていた。
某日、休憩室内。
外から聞こえてくるのは叩き付けるような派手な雨音で。
さっきから勢いを増す雨音に紀平さんは浅い溜息を吐く。
「あーあ、やだなぁ、雨」
「紀平さんも雨嫌いなんすか?」
「だってさーほらジメジメしちゃってさあ、やる気出ないじゃん?」
どちらかと言えばアウトドア派なので紀平さんの気持ちも分かる。
「ああ、確かに」と、頷き返したときだった。
「仕事サボるのを雨のせいにするとは良い度胸だな、二人とも」
すぐ背後から聞こえてきた冷たいその声に背筋が凍り付く。
いつの間にかに立っている店長だが、え、ちょっと待った、いつから?今扉開いた音しなかったよな?
「言ってる傍から更に鬱陶しいのが…」
「まさか貴様それは俺のことか?なあ?」
神出鬼没な店長に慣れているらしい紀平さんのだらけた態度は変わらない。
慣れってすごいな。俺はまだ慣れそうにはない。というか、それより。
「て、店長…なんかテンション高いっすね」
「俺は雨が好きでな、なんせ小さい頃からの仲だ!」
「店長雨男なんだよ」
「あーなるほど」
通りでいつもに増してテンションがハイなのか。
店長に雨というのもなんか納得してしまう。
「雨も滴る良い男だ!」とか言い出しそうだし。
「良い男には雨が滴るというしな!」
というか言ってた。自分で言っちゃってた。想像はできていたけれども。
「というわけで貴様ら!雨を理由にサボろうなどとは言語道断!」
「ほら戻った戻った!」といつもよりも生き生きした店長に背中を押されるように休憩室から追い出された俺はそのまま雑用に戻ることにした。
「あ、原田さん、おはようございます」
店長に怒られたので自分の持ち場(便所)に戻ろうとしていると、不意に背後から声を掛けられる。
振り返れば、そこには私服の笹山が。
どうやら今来たばかりのようだ。
目があうと、唯一の店の良心もとい俺の癒やしもとい笹山はにこりと笑う。
「あ、はよ。雨大丈夫だったか?」
「ええ、なんとか。ですが、これからまだ激しくなるみたいですからね」
「うえー」
「上がりの時までには止むといいですね」
あーこの感じ、この感じだ。
まさに平和ーって感じの他愛のない会話。
口を開けば説教シモネタ怒声に罵倒、それらに大分心荒みかけていた俺が求めていたのはこういうものだ。
「そうだな」と釣られて笑顔になりながらも頷き返したとき。
「おい、笹山!」
どうやらその平和な時間も終わりのようだ。
他の店員に呼ばれ、「あ、はい!今行きます!」と慌てて返す笹山は申し訳なさそうに俺に頭を下げた。
「それじゃ、また後で」
「あ…ああ」
少し名残惜しいが、またここで話してたら店長が飛んでくるかもしれない。
俺もそろそろ持ち場(便所)へ戻るか。
笹山と別れ、そのまま歩き出そうとしたときだ。
「ん?」
不意に視線を感じ、背後を振り返る。
しかし、そこにはただ商品棚と卑猥なイラストが書かれたパッケージがずらりと並ぶばかりで。
「……気のせいか?」
なんとなく引っ掛かりながらも、俺はそのままその場を後にした。
「あーまじ最悪なんだけど、クソッ、なんなんだよこの雨!」
「雨は雨じゃないのか?」
「じゃなくて、天気予報じゃ20%だったろ!なのに土砂降りじゃねーかよ!」
更衣室前。
中から聞こえてくる四川の大きな声にびっくりして扉を開けば、四川と司がいた。
「どうしたんだ?」
「傘を忘れたらしい」
「プッ」
「おいなに笑ってんだよ、てめえ」
「だってそれ、自業自得だろ!日頃の行いのせいだな!ざまーみろ!」
日頃の鬱憤を晴らすため、ここぞとばかりに馬鹿にしてやればぴくりと四川の額に血管が浮く。
「……なんだと?」
あ、やばい。これちょっとまじな方じゃねえの。なんで怒るんだよちょっと馬鹿にしただけじゃんと早速怯み掛ける自分に慌てて喝を入れ、俺は四川の目から逃げるように自分のロッカーの前へ行く。
「ふ、ふん!そんなに睨んでも怖くねーから!だってほら、お前と違って俺はちゃんと折り畳み傘持ってきたし?」
そうだ、兄からのメッセージで傘を忘れないようにとあったので念のため持ってきたのだ。
今回は俺に責められるところはないはずだ。
と、ロッカーの中を漁る俺だが。
「あ、あれ……?」
そのままぶち込んでいた折り畳み傘がない。
可笑しい。なんでだ。数時間前、確かに入れたはずだよな?
四川の冷ややかな眼差しを受け、全身冷や汗だらだらになっていると、ふと傍までやってきた司の手が俺のロッカーに伸びる。
そして、
「原田さん、ここになにか張り紙が」
ぺりっとロッカーからなにか剥がした司は俺に手渡してきた。
それはメモ用紙のようで。
そこに書かれた文面に俺は目を疑った。
『カナちゃんへ
傘持ってくるの忘れちゃったから借りるね! 翔太』
「あああああの野郎……!!」
いつもタクシーだの専属運転手など無駄に活用しているくせになんで今日に限って徒歩なんだよ!嫌がらせかよ!昨日俺があいつの杏仁豆腐食ったからか!
「ブハッ!てめー偉そうなこと言って傘なしじゃねーかよ!」
「う、うるせえな!ちゃんと持ってきてたんだからお前とはちげーし!」
「どっちも傘ないというのには変わりないけどな」
「……」
「……」
もっともな司の言葉にぐうの音もでなくなる俺たち。
そうなのだ、俺も傘を持ってきてすらいない四川と同類になってしまったのだ。しかもこの雨。笑えない。
何も言えなくなる俺に、四川はまだ腑に落ちないようで司に突っかかる。
「そ、そういうあんたはどうなんだよ」
「俺?車あるし」
「……」
「……」
再び撃沈。全く関係のない俺までダメージ食らいそうになる。
車か、確かに車があればいいが実家に助けを求めたくないし運悪く兄が来てしまったら「あれ程傘を持って行けと言っただろうが!」と延々説教食らうことは間違えない。
やっぱり、早くに雨が止むのを祈るしかないな。
そう、落胆した時。
「なんなら、家まで送ろうか。原田さん」
それは思いもよらない司からの誘いだった。
「えっ、俺?」
「おいナチュラルに人を無視してんじゃねーぞこのムッツリ野郎!俺!俺も傘ねーんだけど?!」
「お前は体丈夫そうだから……大丈夫だろ。雨に打たれてこい」
「ひでー差別!」
「ありがとう、司……」
「遠回しに軟弱扱いされてお前も喜んでんじゃねえ!」
そんなこんなで揉めていると、更衣室の扉が開く。
やってきたのは紀平さんだった。
「お、集まってんねー」
「紀平さん」
「丁度よかった、透は…いないね」
「笹山?笹山がどうしたんですか?」
どことなく様子がおかしい紀平さんに尋ねれば、少しだけ困ったように笑う。
「ん……いや、ちょっとね」
珍しく歯切れが悪い紀平さん。
何かあったのだろうか、と深く聞こうか迷っていると「あ、そうだ」と紀平さんは俺を見た。
「ところでかなたん、聞きたいことがあるんだけど…ちょっといいかな」
「えっ?」
てっきり笹山を探しているものばかりと思っていただけに、ついでとはいえ名前を呼ばれてしまえば身構えてしまうわけで。
「またなんか失敗したんだろ」
「お前と一緒にすんじゃねえよ」
ぽそりと言い返したつもりがしっかり四川の耳に届いていたようで。
「なんだと?」と睨んでくる四川から慌てて視線を逸らす。こういう時は無駄に耳聡いんだよな。
「はいはい、四川も構ってもらいたいんならあとでね」
「構…ッ!ちげーから、余計なこと言わないでください!」
「どうどう」
「お前もうるせえ!」
あいつが司に宥められている隙に四川から避難する俺。
流石二人とも、四川の扱いには慣れているようだ。また噛み付かれる前に場所を移動しようとしたとき、紀平さんと目があった。
「じゃ、移動しようか」
そう言ってちょいちょいと扉を指差す紀平さん。
やっぱり二人きりになるのは緊張するが、断る理由もないので俺は頷き返す。