アダルトな大人


 ロッカー1つ分の居場所【完】

「しかし、大変でした」
「貴様は茶菓子食ってテレビ眺めていただけだろうが」
「わざわざここまで運んできたのは誰ですか」
「貴様俺に恩を売る気か…!」
「あぁー! くそ、おい店長うるせえよ! 寝れねえだろ!」
「寝るな! というか貴様どこに足を乗せてるんだ! 俺のスーツを汚したら許さんぞ!」
「大体狭いんだって、この車。ただでさえ皆でかいんだからせめて面積縮めてくれないかな」
「ならお前から足削れよ」
「君のこと言ってんだよ、四川君」

「…………」

 どうしてこうなったのだろうか。
 司曰く確かこの車は六人乗りのようだが、如何せん狭過ぎる。というのも言わずもがな隣で大きく寝転んでるこいつのせいだろう。
 隣に座る俺が枕かなにか都合のいいクッションと思ってんのか、思いっきり上半身凭れさせてくる四川に怒りを覚えずにはいられなかったが兄の仕業とはいえ迷惑掛けてしまった今下手に逆らえなくて。

 半強制的な帰還とはいえ久し振りに帰ってきた我が家をあとにして数分。
 俺たち五人を乗せた車は田舎道を走っていた。

 それにしても、疲れた。今日一日で色々あり過ぎたのだ。多分6歳くらいは老け込んだんじゃないだろうかと先程翔太に聞いてみようとしたのだが、俺以上に疲れた顔をした翔太を前にしたらなにも言えなくなる。
 こうして無事に帰ることが出来るのは、ここにいらやつらがいるお陰だと思うとこう、人口密度の高い車内、誰一人にも徒歩で帰れということは出来なくて。

 がたがたと車に揺らされながら、目を閉じれば先程家族たちと別れを告げたときの映像が今でも蘇る。

『井上様、もう行ってしまいますの?あの、また来てくださいますよね?私…私…!』

 そう、ハルカだ。あのカマトト野郎俺よりも先に店長に食い付いたのだ。有ろうことか。
 門の前。
 使用人たちを引き連れがっつり化粧直ししてきたハルカを『青春だな』と大人しく見過ごせる程の器は俺にはないわけで。

『おい、兄にはいう事ねえのかよ!』
『ぅ……っ、ないわよ、別に』
『んだと?大体お前のせいでなぁ…』

 飛び出したのは俺とは言え、元はといえばこいつが使用人をさながらゴミのように扱っていたのが原因だ。
 兄から事情を聞いていて『お兄ちゃん、ごめんなさい!』とはいかずとも少しは反省しているだろうと期待していたのだが俺が馬鹿だったようだ。しかし、そういう頑固なところは俺そっくりだ。悲しきかな。
 と、そのとき。

『カナちゃん、車用意出来たってよ!』

 司たちとともに車を取りに言っていて翔太から声が掛かり、『おう、今行く』とだけ返す。

『佳那汰、本当にいいのか。送らなくて』

 ハルカとともに見送りに来ていた兄は相変わらずの全身黒尽くめで、なんとなく家に帰ってきた気はしないがこうして堂々と兄に見送られながら家を後にするということが出来るのは幸せなことなのだろう。
『いいよ、別に』と小さく笑う俺。
 また妙なところに連れて行かれても嫌だしな。なんて死んでも言えないが。

『そうか。………せっかくまた一緒に暮らせると思ったんだけど、寂しくなるな』
『別に一生会えなくなるわけじゃねえって、お兄ちゃんが言ったんだろ?』
『……あぁ、そうだな』

 こうして当たり前の兄弟のようにあの兄と談笑できることが夢みたいで。
 そのとき、一台の車が門の前に付けられた。
 そしてその窓からいつの間にかその助手席に乗り込んでいたらしい店長が顔を出す。

『原田! 早く乗れ! 四川が暴れ出す!』
『おい、狭いんだよ! もっと詰めろよ!』

 これは大変そうだ。
 なにやら揺れている車体に冷や汗を滲ませつつ、『わ、わかりました』と頷き返した俺は最後にもう一度、見送りにきていた連中を振り返る。

『じゃ、またな』

 そして、それだけを言い残し、なにならばたばたと喧しい車内に駆け寄ろうとしたときだ。

『…っ待ちなさいよ』

 先程まで仏頂面で押し黙っていた妹に引き止められた。
 またなにか文句でもあるのかと、振り返れば苦虫を噛み潰したような顔をした妹がそこにはいて。

『そっ、その…』
『カナちゃーん!』
『煩いわよクソ眼鏡豚!!』

『なにこの理不尽罵倒っ?!』と車の中から嘆く翔太を無視して、俺の目の前にまでやってきた妹の頭には大きなたんこぶができている。
 俺の視線に気付いたのか、キッとこちらを睨んだ妹はすぐに不敵な笑みを浮かべた。

『今回のことは…悪いこをしたわね。今度は、ちゃんとカナ兄を捕まえられるよう躾けておくから』

 そして相変わらずの偉そうな態度で腕を組んだハルカだったが、その横に立っていた兄に窘められるように『波瑠香』と呼ばれれば『〜〜ッ』と声にならないようなうめき声を上げる。
 そして、じわじわと赤くなったハルカは何度か口をぱくぱくと開閉させ、そして迷ったように俺を見上げた。
 先程とは違う、威勢を感じさせないその目つきに俺は「お」と足を止める。

『ぁ……わ、わた、私のこと……庇ってくれたって聞いて…すごく、嬉しかった…から…っ、あの……っ』

『っごめんなさい、お兄様!』と、涙目で頭を下げる妹に、一瞬俺は凍り付いた。俺だけではない、日頃から妹に振り回されている周りの使用人たちも凍り付いていた。
 まさかなにかの夢かなにかじゃないのだろうか、それともまた俺の反応を嘲笑うための演技か?なんて推測するけど、長い髪から除く耳が真っ赤になっているのを見て、つい俺は破顔した。
 そして、下げたままのハルカの頭に手を伸ばした俺はそのままポンと手を乗せる。
 ぎょっとこちらを見上げるハルカ。
 俺は頭を撫でる代わりに軽くその頭を叩いてやれば、更にハルカは驚いたような顔をした。

『庇ってねえよ。つーか俺があいつらにムカついただけだから、お前のこと関係ねえし』

『自惚れんなよ、ブス』と、とどめを刺すかのようにきょとんとしたあいつに笑いかければ怒りで更に顔を真っ赤にしたハルカの目に炎が浮かぶ。

『ッ…この』

 そうムキになった妹が俺に掴みかかろうとしたときだ。いきなり接近した車のドアが開き、中から翔太がこちらに向かって手を差し伸ばしてきた。

『カナちゃん!』

 って、せめて停まれよ!とも思ったがハルカに捕まって地下牢にぶち込まれては困る。
 翔太の手を握れば、思いっきり体を引っ張り上げられ、無事逃げるような形で移動する車の中へと乗り込むことに成功した。

『うおっ、ぶねえ!』 

『ぐえっ』と呻く翔太を下敷きにしつつ、なんとか体制を取り直した俺は開いたドアを閉め、そして窓から顔を出す。

『覚えてなさいよ!今度あったときはもう二度とそんな生意気な口を効かせないんだから!』
『佳那汰!ちゃんと朝6時には起床し夜10時には布団に入れよ!朝昼晩はバランスの取れた食事を摂取するように!』

 車の外、このまま追いかけて来そうな勢いで声を上げる二人の家族。
『お前の兄貴はカーチャンかよ』と呆れたように呟く四川に心の中で同意しつつ、軽く手を振り直したとき。兄と目があった。

『それと――』

 車のスピードが上がり、家の門が、兄たちの姿がどんどんと離れていく。
 強い風が吹き、とうとう兄の声は掻き消されてしまったけれど、なんとなく兄がなにを言おうとしていたのか俺にはわかった。
 いつも耳にタコが出来るほど言われていた言葉なのに、なぜだろうか。
 酷く、物寂しさが込み上げてくる。

「…っ」

 情けないことに、別れ際の兄たちの姿を思い出した俺はなんだか寂しくなって、胸が苦しくなる。
 だけど、それ以上に今、俺の気持ちは晴れやかだった。
 つんと鼻の奥が痛くなって、涙が込み上げてくる。
 隠れるようにしてそれを拭おうとしたとき、凭れかかっていた四川がこちらをガン見していることに気付いた。

「おい、泣いてんのかよ」
「べっ、別に泣いてなんか…」
「ハッ、だっせー…」

 こちらを覗き込むなりにやにやと下卑た笑みを浮かべるやつに「うるせえ」と言い返そうと顔を上げた瞬間だった。

「……っ、んッ」

 言葉を遮るように唇を塞がれた。
 キスなんて呼べないほどの短い間の触れるだけのそれだが、俺の思考回路をぶっ飛ばすには充分で。

「なっ、なにし…」
「ちょっとどさくさに紛れてなにやってくれてんの君!!」

 狼狽えた俺が反応するよりも先に、俺の隣で車酔いで死にかけてた翔太が飛び起きるように勢い良く食い掛かった。
 さっきまで死にかけていたくせに一気に復活した翔太に、あからさまに面倒臭そうな四川は臆面もなく舌打ちした。

「チッ、うるせえな、外野はすっ込んでろ。モブ眼鏡」
「はぁ?! モブ眼鏡って僕のこと? ねえ僕のこと? 仮にも幼馴染で親友な上同居人兼保護者という絶対的な地位の確率をしている僕がモブ?! はぁ?!」
「それより、お前言ったよなぁ? …なんでも言うこと聞くって」

 ブチ切れる翔太を無視し、こちらにずいっと顔を寄せてくる四川。
 一瞬その言葉の意味がわからず、「は?」と目を丸くする俺の脳裏に兄たちと接触する前、服を探しているときの四川とのやり取りが蘇る。

『あとでなんでもするから、頼む、今はやめてくれ…!』

 ご丁寧に映像とボイス付きで脳内再生される記憶に、どっと汗が噴き出した。
 確かに、言った。言ったけども、ま、まさか…!いや、そんなまさかだろ。流石にそこまでこいつも鬼ではない。と思った矢先、翔太を押し潰すようにシートの上に押し倒された。

「っちょ、ちょ、ちょ、待った! 待て! おい!」
「ぐぇっ、カナちゃんの匂いとお尻の感触が…! 苦しいけどこの役得感、止められない…! じゃなくて!なにその美味しいシチュ! どういう状況で、って聞きたくない!やっぱり聞きたくない! 僕の知らないところでそんな約束交わすようなカナちゃんのことなんて聞きたくない!」

 いつもに増して怒ったり笑ったり悩んだり喧しい翔太だが面倒なことに変わりなくて。
「ちが、これには深い事情があって…」と慌ててフォローしようとするが、伸びてきた手に服を剥かれそうになってその言葉は声にならない悲鳴に変わる。

「なんでもするっつったよな?」
「いっ、言った…かも…しれないけど! だけど、だからって…ッ」

 こんな、こんな…!しかも車の中で!顔見知りばかりとはいえ、人前で!
 いやここじゃなくて二人きりならというわけではないが、やはり、笑顔で『仕方ねえな!約束は約束だしな!』と自ら脱げるような男前にはなれない。なりたくない。なんとしてでも俺はケツを死守する。

「いいだろ、あのうぜー兄貴もいないんだから遠慮しなくても」
「するわ! 普通にするわ!」
「俺たちのことなら気にしなくてもいいぞ」
「無茶なことを!」

 運転席の店長たちの言葉に更に顔が熱くなる。
 ミラー越しに無言の司と目があって、いたたまれなくなった俺がなんとしてでも四川の下から這い出ようと頑張ったとき。背後からにゅっと伸びてきた手に腰を抱えられたと思えば、もう一本の白い手は四川の顔を無理矢理俺から引き離す。翔太だ。

「ダメだ、君みたいな男がカナちゃんを汚すようなことは許さない! カナちゃんは、カナちゃんは神聖なんだ!」

 しょ、翔太…!言っていることは若干秋葉原の住人みたいなことになっているが翔太お前…!
 身を呈して庇ってくれる翔太に若干涙ぐんだとき、翔太の手を振り払った四川はなんとも凶悪な笑みを浮かべた。

「神聖〜? ハッ! とっくに汚れてんだから今更気にすんなよ、一回したら二回目も三回目も四回目も変わんねえよ」

「なぁ?」と伸びてきた指に顎を軽く擽られる。
 その指が擽ったいとかそんなことよりも、さらりと口にされたその言葉に俺は青褪めた。

「おっ、おい、馬鹿四川…!」

 あろうことか翔太の前で、しかもそんな、そんなまるで人がし、尻軽みたいな言い方をするなんて…!あながち間違っていないので否定できないのが悔しい。

「しょ、翔太…あのな、これはこいつが勝手に…」

 言っているだけだから、と恐る恐る背後の翔太を振り返ろうとした瞬間だ。
 ピシィッと音を立て、翔太の眼鏡のレンズに亀裂が走る。

「いっ、一回目も二回目も…………? そっ、それに、よよよよ、四回目……?」

 みるみる内に翔太の顔色が変わる。
 部屋を掃除しようとしてうっかり飾り棚にディスプレイされていた翔太お気に入りのフィギュアを落としてそのまま踏んでしまったとき、いやそれ以上に危うい空気を醸し出す翔太に俺は青褪めた。

「ま、まずい、あまりのストレスに翔太の眼鏡が割れた……!」
「はっ?! どうやったら割れるんだよ!」
「まずいのは中谷さんの眼鏡だけじゃないみたいだな」

 意味がわからないと困惑する四川に続くようにそう呟いたのは先程まで無言でハンドルを握っていた司だった。

「え?」

 どういう意味だ、と目を丸くしたときだ。いきなり車のスピードは上がり、ギュルルルルと危ない音を立てながら思いっきりハンドルを切る司。
 大きく揺れる車体。頬杖をついて寛いでいた店長はそのまま窓に頭をぶつけていた。

「おい、司、痛いじゃないか!」
「すみません、後方に怪しげな黒いバイクが一台。その更に後ろから真っ白の高級車がついてきていようです」

 あくまでも冷静沈着な司の言葉にもしやと青褪めた俺は慌てて後部の窓を振り返る。
 そこには、司の言う通り一台のバイクがついてきてるではないか。
 と、いうか、あの黒スーツは……!

「お、お兄ちゃん…!」

「冗談だろ」と四川は呆れ果てた様子で呟いた。
 しかし、あのバイクに乗ったシルエットはどうみても先程別れを告げたばかりの兄で。
 鬼の形相でバイクを走らせる兄に流石の俺もちょっともうなんかもうなにも言えない。というか、え?なんで怒ってんの?まさか、え?見えてたの?え?

「カナちゃん…どういうこと…? 四回ってなに? ねえ、カナちゃん、なにが四回目なの? 僕のいないところでなにを四回も致したの?」

 こっちがあれだと思いきや、今度はあっちと大忙しの車の中。
 じわじわと表情がなくなる翔太に「おっ、落ち着け翔太!早まるな!」と必死に宥めていると、外から派手なクラクションが。
 下手な真似をすればこのまま突っ込んでくるのではないかと思わずにはいられない、そんなスピードで突っ込んでくる車とバイクに店長は舌打ちをした。

「おい司、撒けるか?」
「…………」

 無言。ちらりと店長に視線を向けた司はハンドルを小さく叩き、指を三の形に開いた。

「…わ、わかった、嵩上げしてやるから」

 どうやら、店長たちの間でなにやら交渉が成立したようだ。一瞬、僅かに口元を緩ませた司は両手でハンドルを握り締めた。
 そして、

「…………しっかり掴まっててくださいよ」

 それが司の笑顔だと気付いた次の瞬間だ。

「へ? ……って、うおおおわああああ!」

 この日、俺はあまり食事をしてなくてよかったと心の底から安堵することになる。



 魂が口から出そうになっていたとき、ようやく車は停車する。死にかけながら降りたそこは見慣れた路地裏の駐車場で。
 最早死んでいるも同然の翔太を担ぎ、店員専用のエレベーターを使って店内へと向かった俺たちを一番に迎えたのは笹山の笑顔だった。

「原田さん……っ! 皆さん、おかえりなさい!」
「た…ただいま」

 実家暮らしだった頃は「お帰りなさいませ!佳那汰ぼっちゃま!」とドスの利いた男たちに迎えられることは日常茶飯事だったが、どうしてだろうか。こうも笑顔で出迎えられると、なんだか照れくさくて。

「…ごめんな、迷惑掛けて」

 そう、駆け寄ってくる笹山に謝ったときだ。

「それは寧ろ俺に言ってもらいたいんだけどね」
「紀平さ…うおっ」

 どこからともなく現れた紀平さんに驚いた俺は、更に紀平さんの姿を見て呆れた。
 げっそりと青褪めた紀平さんは以前見たよりも心無しかやつれている、というか目が死んでいる。車酔いで昇天し掛けている翔太と同じ目になっている。

「き、紀平、貴様どうした」
「大変だったんだよ、皆が居ない間。透がかなたんのこと心配しまくって本当もう…」
「それは…ご苦労だった。休んでおけ」

 あの店長に気を遣わせるほど疲れ果てている紀平さんは「言われなくても」とだけ告げ、そのまま俺の横を通り抜ける。すれ違いざま、咄嗟に「あの」と紀平さんを呼び止めた。

「あの、すみません、紀平さん、色々…」
「……」

 ぴたりと動きを止めた紀平さんはゆっくりとこちらを振り返った。
 無表情の紀平さんに『怒られるだろうか』と身構えたとき、不意に手が伸びてきた。
 殴られる、と咄嗟に目を瞑る俺。しかし、痛みは一向にこない。それどころか、頭部に置かれた大きな手に髪を掻き混ぜるようにわしわしと撫でられた。

「サボっていた分、これからバンバン扱き使うから」

 びっくりして見上げる俺に、紀平さんは「覚悟してなよ」といつもの笑みを浮かべた。
 扱き使うという言葉が喜ぶものではないとはわかっていたが、それでも紀平さんに必要にされている。自惚れだとしても、受け入れてくれるその言葉は今の俺にとっては充分なもので。

「司君、商品入荷してるよー」

 俺から手を離した紀平さんはそれだけを言い残し、そのまますたすたとその場を後にした。
 その後ろに続くようにして、無言の司は紀平さんのあとについていく。

 いなくなった二人を合図に、店長はパンと手を叩いた。

「ほら、お前たちもさっさと仕事に戻れ」
「あ、はい」
「今日俺パス、そんな気分じゃねえし」
「そうか。原田、中谷、貴様らはどうする?」

 店内へと戻る笹山と、その場に残る四川。
 こちらを振り返る店長に問い掛けられ、俺は僅かに口籠った。

「俺は……」

 今日、色々あったお陰で心身ともに疲労を感じているのは確実だろう。
 それでも、兄たちに正式に独り立ちを許可された今、一分一秒でも今の時間を無駄にしたくなくて。

「出ます」

 考えるよりも先に、口が動いていた。真っ直ぐに店長を見据え返す俺に、ニヒルな笑みを浮かべた店長はフンと鼻を鳴らす。

「なら早く着替えろ。雑用がいないと困るからな」

 どことなく嬉しそうな店長。そんな店長を押し退けるようにして、先程まで黙ってそこにいた四川はずかずかとこちらに寄ってきた。

「おい…お前忘れてんじゃねえだろうな」
「は?」
「さっきの話だよ」

 忘れたとは言わせねえぞ、と言うかのように至近距離から睨んでくる四川。
 くそ、このままいい感じになかったことにできないかと思っていたのに、どうやら俺が思っているよりもこいつはしつこい男のようだ。
 しかし、今度はそんな俺たちの間に店長は割り入った。

「四川、貴様は帰るんだろ?帰るならさっさ帰ってお家でゆっくり休め。原田にはこれから色々してもらわなければならない。あまり邪魔をするなよ」
「な…ッ」
「どうした、帰ったらどうだ」

 店長が庇ってくれているだと。
 天地がひっくり返ったのだろうかと疑ったが、わかった。どうやら店長は真面目に働く人間には優しいようだ。露骨な差別だがありがたい。寧ろもっとやれと加勢しそうになったが、四川も四川で負けず嫌いということを忘れていた。

「……ッ、出ればいいんだろうが!」
「そうそう、大人しく帰………っえ?」
「出てやるっつってんだろ。聞こえねえのか、ノロマ」

 いや、帰れよ!と言い掛けたが、「よろしい!」という高らかな店長の声に遮られる。

「ならば早く支度をしろ。ああ、ついでにそこで死にかけている中谷を休憩室に運んでおいてくれ」
「てめえでやれよ睫毛野郎!」
「俺はあれだ、長道で疲れているからな」
「おいおっさんもう体力落ちてんのかよ? あ? お前広々とした助手席で一人優雅に座っておでん食ってただけだろうが!」

 四川がやる気になるとは予想だにしていなかった。
 …こうなったら、やつが店長に食いかかっている間にこの場を退散するしかないようだ。
 一歩ずつ、忍び足でひっそりその場を離れる俺。しかし、あともう少しでやつから半径十メートル離れられると思ったところで躓いてしまう。
 誰だこんなところにダンボール置きっぱなしにしてるやつは!

「あっ、てめえ…ッ」

 こうなったら仕方ない。全力疾走だ。
 抱えていた翔太を放り、走り出した俺。その背後から「待てよ、おい、ブラコン!ブラコン野郎原田佳那汰!」という四川の怒声が…

「…って、誰がブラコンだ!」

 そして、フルネームはやめてくれ!



 なんとか逃げ切った俺は既に虫の息で。
 ガクガクと生まれたての小鹿のような危うい足取りで更衣室へ入った俺は自分のネームプレートが入ったロッカーの前に立つ。
 既に取り払われたと思っていただけに、残っていたという事実に喜んでいる自分が居て。
 扉を開けば、最後に来たままのそこには無造作に詰め込まれたエプロンがあって。

 それに手を伸ばした俺は、そのままエプロンを手に取り、ゆっくりと胸に抱いた。
 小さなスペースだけど、それでも自分の居場所がそこにはあって。
 そして、恐らくこれからも…。

 食べかけの惣菜パンとか丸めた雑誌とかその辺のゴミを無視して感傷に浸る俺は「よしっ」と小さく呟き、エプロンを広げた。
 雑用でも、俺の仕事だ。
 ならば、今日もひたすら使用済みコンドームやらオナホやらが散乱したイカ臭い便所を徹底的に磨き上げるだけだ。
 エプロンに身を包み、ネームプレートを胸に取り付けた俺はそのまま店内へと歩き出した。



 アダルトな大人【原田佳那汰編】

 -END-



「いらっしゃいませ!」



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