アダルトな大人


 兄からの忠告

「…中谷君」
「お兄さん、佳那汰もいい歳なんですから少しは放任しましょうよ」
「…っ、俺………いや、私は…………」

 翔太に諭され、兄は呻く。大分揺らいでいるのは目に見えてわかった。
 そんな兄の横、兄の肩にぽんと手を置いた店長は笑う。

「少しは自分の弟のことを信じてあげるべきではないですか、ミナトさん」
「君が言うな」

 そして振り払われていた。

 叩き落とされた手をさすり、「oh…」と呟く店長になぜ英語と思いつつ、俺は兄と向かい合うように並ぶ。
 小さい頃、ずっと大きく見えていた兄は今では見上げればすぐ顔がある。
 今でも身長は追い抜けそうにないが、それでも大きく見えていた兄は今は俺と変わらない一人の人間に見えて。

「…佳那汰」

 苦しそうに顔を歪める兄に、こちらまで辛くなってくる。
 これでいいんだ、これからの自分の自由のためにけちょんけちょんになるまでもっと攻めるべきなのだ。
 そう思うが、やはりいつも自信と余裕に満ち溢れていた兄の苦痛の表情は、見ていて胸にくるものがある。

「お兄ちゃん」と答えるように兄を呼ぶ。そのときだ。

「く…ッ」

 兄が呻いたと思った次の瞬間、自分の体が兄に抱きしめられていた。

「っちょ、お兄ちゃ…っ」
「…お前がそこまで俺から離れたがっていたとはな」

 すぐ耳元で、兄の声が聞こえた。身を捩らせようとすれば、背中に回された大きな手に強く上半身を抱き締められる。
 密着した体。流れ込んでくる体温。どこか懐かしい香り。不思議と嫌ではなかった。
 追いかけてばかりで、ずっと遠くに感じていた兄がすぐ傍にいる。そう感じるには充分で。

「……わかった、お前の一人暮らしを認めよう」

 抱き締められたまま、告げられるその言葉に不意打ちを食らったように驚いた俺は兄を見上げた。

「っ! ほ、本当に……?」

 まさか、俺の気分を紛らわせるためだけの嘘ではないだろうな。
 そう疑ったが、「ああ」と頷く兄は嘘を吐いているようにはみえなくて。
 そもそも、兄は嘘を吐くようなタイプではない。そう頭で理解したとき、今度こそ目を輝かせた俺は嬉しさのあまりに「お兄ちゃん…っ!」と兄の体に抱きついた。

「その代わり、何かあったらすぐに俺を呼びなさい。家事が面倒なら使用人も何人か連れて行ってもいい。今度はちゃんと小遣いだって用意してやる」

 よろめくこともなくしっかりと俺を抱き留めた兄は、そのまま俺の頭を撫でる。
 真っ直ぐにこちらを見下ろすその目は、どこか寂しそうで。

「……だから、二度と縁を切るなんてこと、言わないでくれ」

 弱々しいその声に、俺は軽々しく言い放った言葉を後悔する。

「お兄ちゃ…」

「これが俗に言うブラコンというやつですか」
「ブラコンだな」
「ブラコンとか」

 うるせえてめえら黙るか喋るかどちらかにしろ!空気に徹しろ!!

「…ごめん、俺も言い過ぎた、かも…」

「でも、ちゃんとするから。これから。……遅いかもしれねえけど、頑張る。だから心配しないで」と、できる限りの本心を言葉にすれば、切なそうに兄の顔が歪む。

「佳那汰…っ」

 そして、抱き締められた。
 きつく、肩に回された腕に力がこもりくっついた体は離れなくて若干息苦しさもあったが、それ以上にこう、外野の目が痛いというかなんで翔太お前が泣いてるんだよ。「あんなに人間の底辺だったカナちゃんがこんなに立派になるなんて」ってうるせえよてめえあとで覚えてろよ。

「お兄ちゃん、も…」

 わかったから、ともぞ痒さというか気恥ずかしさに耐えられなくなった俺は兄の胸をぽんぽんと軽く叩く。
 だけど、それでも離れようとしない兄。とうしたものかと困惑したとき、ふと伸びてきた兄の手に両頬を挟まれた。

「……お前、大きくなったな。少し前まであんなに小さかったのに」

 顔を確かめるかのように軽く上を向かされれば、すぐ目の前には兄の顔があって。
 そこには、どこか寂しそうで、だけど柔らかい兄の目がこちらをじっと見据えていた。

「一度も、俺の後ろから離れようとしなかったのにな」

 ああ、そういえば、兄はこんな顔をしていた。
 物心ついたときから怒られた記憶ばかりが印象に残っていたが、今思い返してみると、俺はたまに見える兄の優しい顔が見たくて、ずっとあとをついて回っていた。
 どうしたら兄が喜んでくれるか、そればかりを考えて色々なことに挑戦して、それに失敗する度に怒られて……。
 今更だと思うのに、三年間、封印していた記憶がどっと溢れ出して、俺が勝手にいなくなったときからあの心配性の兄がどんな思いで今まで過ごしてきたかとかを考えたらなんだか酷く申し訳なさやらなんやらが込み上げてくる。けどよく考えたらこいつ翔太に見張り頼んでたわけだよなと思ったら滲んだ涙は引っ込んだ。
 だけど、それでも兄に対しての思いは少し、変わった。
 滅多に自分の本心を口にしようとしない兄の本音を聞くことによって、兄のことが少しだけわかった気がして、嬉しかった。

「お兄ちゃ……」

「おい、そろそろ空気を読んで退出するぞ」
「うーっす」
「せっかくいいところですのに」
「馬鹿、このまま熱い接吻交わされたらどうする! ぎくしゃくするだろ!」

「交わさねえよ!!」

 というかまたかよ!気遣いは有り難いけどせめて俺のセリフを遮るなよ!雰囲気台無しってレベルじゃねーぞ!

 ふいに、兄の手が離れたかと思えば、まだ傍観したいという四川と司を引きずろうとしていた店長の元へ向かう兄。

「井上君」

 そう、店長の名前を呼ぶ兄に店長は露骨に緊張を表した。
 二人は学生時代の知り合いだそうだが、二人の間の空気はどこか殺伐としている。
 もしかしていきなり殴りかかったりしないだろうなとひやひやしながら眺めていると、ふいに、兄が手を出した。

「…私は君のことを信用してもいいんですか?」
「…!」

 自分に向けられた手が、握手を求めるものだと気付いた店長は一瞬ぎょっとし、そしてすぐ「ええ」と笑顔でその手を握り返す。
 おお、あの兄が店長と仲直りを!
 驚いたと同時に以前の兄なら考えられない行動に兄も成長したのだろうと嬉しく思った矢先だった。

「って、いたたたたたたた痛い痛い痛い!」
「佳那汰を泣かせたりでもしたら許しませんよ。それと、今度ハルカに妙な色目を使ったりでもしたら…」
「はいはいはしませんしませんしませんから! もげる! 関節がもげる!」

 ……やはり相変わらずだった。
「俺の形の整った美しい指が変形する」だとかなんとか言い出す店長から慌てて兄を引き剥がす。
 そして、ようやく店長を離した兄が目をつけたのは司と一緒にテレビを見ていた四川だった。

「それと、そこの君」

 まさか今度は四川に喧嘩売りするつもりかと兄の腕を掴む手にぎゅっと力を入れて抱き締めれば、兄はちらりとこちらを見て、すぐに四川に目を移す。

「弟を助けてくれたのは感謝します」

 そう、悔しそうながらも頭を下げる兄に頭を下げられた四川は相変わらず不機嫌な様子で。

「拉致ったことへの謝罪はないわけ?」
「拉致? なんのことですか?」
「おい、まさかしらばっくれてんじゃねーだろうな。ここに連れてこられたときのことを言ってんだよ」
「恐らく、下の者が勝手に動いたんでしょう。部下へは私の方からキツく言っておきますので」
「あんたなぁ…」
「ですが、ある程度の原因がなければうちの部下は動かないはずですが…。例えば、私の可愛い弟に不貞を働いたりと」
「不貞ぃ?」

 これはまずい。
 負けず嫌いご二人揃い、流れる一発触発の空気に慌てて俺は四川と兄の間に立った。

「お兄ちゃん、もうやめろってばっ!」
「佳那汰」
「こいつは、確かに目つき悪いし口も悪いし態度もクソ生意気だけどほら、珍しく優しいと思えばすぐ見返りを求めてくるようなやつだけどそんな打算含めて助けてくれたことには代わりねーんだからいいんだよ! 取り敢えずなに言っても暴言投げ掛けてくるようなやつだから口の悪いインコだと思って見なかったことにしてくれよ! お兄ちゃん、昔インコ飼ってただろっ?」

 どうにかしてこれ以上揉めないように努めようとしたのだが、俺の言葉が四川の気に障ったようだ。

「てめえ、誰がイン……っ」

 そして、司に羽交い締めにされていた。
「どうどう」と言いながらそのまま騒ぐ四川を引きずり部屋を後にする司。
 どこまでもマイペースなやつには感服するが、取り敢えず助かった。
 騒がしい奴がいなくなり静けさが戻る広間内。

「…まさか、あの佳那汰が誰かを庇おうとするなんてな。あの、イタズラがばれたら使用人に擦り付けすぐに逃げ出していた佳那汰が…」

「可愛い子には旅をさせろ、ということか」としみじみと呟く兄。ちょっとそういう思い出は思い出さなくていいですと当時、俺の代わりにこってり搾られていた使用人に心の中で土下座しながら小さくなる俺。
 ふいに、ぽんと頭に手を置かれる。
 顔をあげたら、こちらを見下ろしていた兄と目があって、兄は僅かに微笑んだ。

「実母ものはやめておけよ」

 ほっといてくれ。

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