アダルトな大人


 ブラザーコンプレックス

 まず、意識を覚醒した俺が感じたのは焼けるようなケツの痛みだった。

「ぅ…………」

 ひりつくそこに唸りながらゆっくりと寝返りをうとうとして、ふと、違和感に気付く。
 なんか…温かい。そんで、硬くて、まるで人みたいな……。

「ん……っ?」
「おはよう。ようやく目が覚めたか」

 耳もとで囁かれるその声に寝ぼけた脳は一気に覚め、反射的に目を開けばそこには涼しい顔をした兄がいて。
 夢じゃなかったのか。というか、

「なっ、なんで、裸……ってか俺も!」

 やけに肌色だなと思いきや一糸も纏わず人の布団の中に入り込んでいた兄に顎が外れそうになり、同様全裸の自分に気を失いそうになる。
 なんだこれは、やめてくれ、朝から裸の実兄とかそんな余計なサービスとかいらないから。

「久し振りに帰ってきた愚弟の成長を調べるには服は必要ないはずだが、なにか問題でも?」
「あんたまで脱ぐ必要はないだろっ!」
「これはお前だってお兄ちゃんを全身で感じたかっただろうと思ってだな」
「うるせえ! 今すぐ出ていけ!」

 シーツを取り上げ、慌ててそれに包まり全身をお覆い隠せば、歳の離れた兄はその場で仁王立ちになる。
 それだけで、俺はその威圧感に押し潰されそうになった。

「佳那汰、なんだその口の聞き方は」

 冷めた目で見下されれば、いくら全裸の変態とは言えど怯んでしまう。
 ぐっと唇を噛んだ俺は慌てて目を逸らした。

「……っじゃ、じゃあちゃんとパンツくらい穿けよっ!」

 布団のそばに転がっていたぬいぐるみをぽふんと兄へと投げつければ、兄は「仕方ない」と肩を竦め俺に背中を向ける。

 というか、なんだこの無駄に愛らしい装飾が施された部屋は。
 兄の全裸でいっぱいになっていたおかげで気付くのに遅れたが、なかなかこの部屋も酷いことになっている。
 部屋の広さといい、数年前、俺が自室として使っていた部屋で間違いないだろうが俺を連れてくると伴って掃除をしたのだろう。
 俺を子供かなにかと思っているのか、和室の中、ちらちらとやたら場違いなほどファンシーな小物が転がっているではないか。
 呆れそうになったが、よく考えればここを出る前も似たような環境だった。
 部屋のものも全て管理され、俺の趣味なんて一切無視されて、そんな我が家が可笑しいと気付いたのは中学生の頃。
 家から離れた、名門と謳われる全寮制男子校に強く薦められたが、当時お兄ちゃん子だった俺は兄から離れたくないという理由で近くの公立中学に入学した。
 それからはもう世界そのものが変わり、同い年の生徒と話せば話すほど自分の置かれている環境が異常だと気付き、高校生になって、ある事件をきっかけに俺は家を出ることを決意したのだが……。

 また、帰ってくる羽目になるとは思いもしなかった。

 全裸からいつものスーツに着替えた兄は「これでいいか」とこちらを振り向く。
 なんでそんなに不服そうなのかわからなかったが、全裸よりマシだ。
 頷き返したとき、「ああ」と兄は思い出したように俺を見る。

「そうだ。今日からまたこの部屋で生活するにあたってお前の遣いを用意した」
「遣い?」

 懐かしいその響きに嫌な予感がし、眉根を寄せた時。同時にパチンと兄の指が鳴らされ、次の瞬間、しゃっと襖が開いた。

「失礼します」

 そう言うなり入ってきたスーツ服の男に、思わず「ひいいっ!」と飛び上がる。
 そして、兄同様自分が全裸だったことを思い出し慌てて布団を頭までかぶった。
 頭まで隠す必要がないと気付き、恐る恐る顔を出せば兄の斜め後ろに立ったその男は目が合うなり深く腰を折る。

「向坂だ。俺の居ない間、お前の面倒はこいつに任せる」

 向坂と呼ばれた男は、「精一杯尽くさせて頂きます」と再度頭を下げた。
 年齢は、兄と同じか下くらいだろう。黒髪の真面目そうな男だったが、兄が紹介してくる人間にまともなやつがいないことを知っている俺はどうも仲良くする気にはなれなかった。
 狼狽える俺に構わず、スーツからなにか取り出した兄はそれを俺へと放った。

「ほら」

 目の前に落ちるそれは最新式の携帯電話だった。

「寂しくなったときや妙な真似を起こす輩が出てきたらすぐに連絡しろ」

 兄の手から直々に渡されるということは既に何かしらの工作が施されていることは明らかで、だからといって拒否れば更に拗れるとわかっていた俺は「……うん」と大人しくそれを受け取ることにした。絶対意地でも使ってやらねーけど。
 なんて企んでいると、先ほど向坂が入ってきた襖が開き、今度は別のスーツ服の男が現れた。

「未奈人様、そろそろお時間が……」

 どうやら兄の秘書のようだ。こわごわと耳打ちする秘書に、特に感情を示すわけでもなく兄は変わらぬ調子で「わかった」とだけ頷く。
 そして、

「佳那汰」

 名前を呼ばれた。

「今日は波瑠香(はるか)の学校が休みだ。お前がいなくなって随分と心配していたようだから、ちゃんと声を掛けておけ」

 兄の口から出た名前に、ぎくりと全身の筋肉が緊張する。
 波瑠香。原田波瑠香――俺の三つ下の妹で、確か今年高校二年になるはずだ。
 実妹もののAVに全身から拒絶反応が出るのは十割方こいつのせいと言っていいほど、俺は波瑠香が苦手だった。昔から。名前を聞くだけで、心がざわつく。勿論悪い意味で。

「……」
「じゃあ、向坂、あとは任せたぞ」

 どうやら、兄は今日は家にいないようだ。無理もない。兄が社会人になった時から多忙な日々を送っているのは知っていた。
 なんの仕事をしているのか今でもよくわからないが、兄がいないことに越したことはない。
 部屋を出ていく兄と秘書に「畏まりました」と頭を下げる向坂さんとともに俺は視線だけでその後ろ姿を見送った。

 兄がいなくなった。いなくなったのはいいが。寧ろ大歓迎なのだが。

「あのー……向坂さん?」
「はい」
「俺、トイレ行きたいんだけど」
「はい」
「……ついてくんの?」
「未奈人様に『便所の小窓から逃げ出す可能性があるから目を離すな』と言い付けられてるので」
「……」

 どんだけ俺はアクロバティックと思われてんだよ。いやまあ確かに逃げるけどさ。

「ついてくんのはいいけど、見んなよ!」

 屋敷内、廊下。
 どこを曲がっても襖が立ち並ぶそこは幼い頃よく道に迷っては泣き喚いていたが、今でも迷ってしまいそうだ。
 目印に障子に穴を開けて行ったら迷わずに済むかもしれない、なんて思いながら背後からついてくる向坂さんに声をかければ、少しだけ困ったように向坂さんは眉尻を下げる。

「しかし、その、毎朝欠かさず採尿をするように言われてまして」
「いいから!しなくていいからそんなの!」

 どんだけ徹底してるんだよ、あいつは!俺の担当医師か!
 今はいなくなった兄に見張られてるような気がしてならない。というか実際見張られているのだろうが、ここまでくると俺の我慢も限界に達するわけで。

「いくら佳那汰様でも困ります、未奈人様の言いつけを守って頂けないと」

 俺への態度を決め兼ねているのだろう。どこか腰の低い向坂さんだが、その言葉は兄の犬だと公言しているものと同じだだからこそ、ここにきてずっと兄に振り回されていた俺の我慢の尾はあっさりと断ち切られる。

 通路のド真ん中。
 ぴたりと足を止め、振り返った俺は向坂さんを睨み付けた。

「向坂さん、あんた今誰の召使だよ。俺だろ? ……俺の命令を優先させろ」

 昔からだ。皆、いつでも兄の意見を尊重する。
 確かに兄は頭がいいし俺は馬鹿なことも重々承知しているが、やはり、コンプレックスが刺激されないというわけでもない。だとしても、向坂さんには関係ない話だ。
 つまり俺のヤツ当たりなわけで、びくりと肩を震わせそのまま硬直する向坂さんに、『またやってしまった』と後悔する。当たったところで、向坂さんに罪はない。

「……悪い、でかい声出して」

 なんだか急に恥ずかしくなって、俺は小さく謝罪し、そのまま歩き出した。
 大人気なかったかな。これだからお兄ちゃんにガキ扱いされるんだろう。気をつけなければ。
 もっとクールに、もっとクールに、と暗示のように呟きながら俺はお手洗い場へと向かって足を進めた。
 後ろからついてくる向坂さんが、どんな顔をしているのかも知らずに、ただ前を向いて、ひたすらに。

 ◆ ◆ ◆

 便所を出たあとは食事のために広間へと通された。

「では、こちらがお夜食になります」

「ああ」と頷き返し、俺は畳の上へと腰を下ろす。
 広いローテーブルの上、ずらりと並べられた和食は少しだけ懐かしい。
 昔はこのテーブルに家族がずらりと並んで食べていたのだが、一人となるとかなりこう、あまりにもテーブルが広すぎて落ち着かない。

「向坂さん、飯は?」
「いえ、自分は……」

 なんとなく気になって声を掛けたとき、ぐるぐると向坂さんのお腹が鳴る。
 じわじわと赤くなる向坂さん。思ったよりも、恥ずかしがり屋なのだろうか。
「すみません」と慌ててお腹を抑える向坂さんに、俺は取皿に適当なおかずを乗せた。

 そして、

「ほら」
「そんな、それは佳那汰様のために用意されたお夜食です。自分なんかに…」
「いいから。別に誰も文句いわねえから。ほら、遠慮すんなよ」

 妙に謙った向坂さんに半ば押し付けるように取皿を渡そうとした時だ。

「お待ちください、佳那汰様」

 襖が開き、板前が現れる。見たこともない、若い男だった。新しい板前だろうか。うちの板前は全員包丁を持たせたら任侠映画の人物みたいな貫禄があるおっさんばかりだったような気がするが、俺が居ない間に入ったのかもしれない。

「そんなこともあろうかと、ちゃんとこちらの方で向坂様の分の料理も用意させていただいてます。佳那汰様は自分の分をきちんと食べてください」

 言いながら、慣れた手付きで配膳する板前に向坂さんは「えっ、いいんですか?」と目を丸くした。
 合いの手を入れるようにきゅるるとお腹が音を立てている。

「向坂様はいつも頑張ってますからね。お腹が減っては佳那汰様の面倒を見ることなんてできませんよ」

 なんとなく癪に障る物言いをする板前だ。
 目の前にやってくる板前をじとりと睨めば、なんとなく違和感を覚えた。

 ……なんか、この板前、どっかで会ったような……。

「あ…じゃあ、すみません。一口だけ……」

 そう、ほくほくしながら箸を手にした向坂さんが一口ぱくりと用意された料理を口にした時だった。
 ごくりと喉仏が動いたと思えば、次の瞬間、向坂さんは「うっ」と呻く。
 そして、バタンと音を立てそのまま後ろに倒れ込んだ。そう、倒れた。

「っ?! こっ、向坂さん?!」

 慌てて駆け寄ろうとしたときだ。

「あはははっ、ちょろいちょろい!」

 その一部始終をにこにこと眺めていた板前は声高らかに笑う。
 やけに記憶に残るこの癪に障る笑い方は…まさか!

「っ、お、お前は……」

 白目剥いて倒れる向坂さんを抱え起こした俺は、そのまま恐る恐る板前を見上げる。

「佳那汰様、会いたかったです」

 目があって、板前、もとい板前に変装した中谷翔太は被っていたズラを剥ぎ取った。そして、服から取り出した眼鏡を掛ける。
 ちょっとやそっとじゃ忘れられない派手な赤い髪は間違いなく翔太で。

「生きていたのか、翔太…!」
「お陰様でね」

「というか勝手に殺さないでくれるかな」と肩を竦める翔太は引きつったような笑みを浮かべた。

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