02
喫茶店を出て、近くの駐車場に停められた花戸の車に乗り込む。車内でも喫煙してるだろうに、車の中は消臭され換気もされてるようだった。
それから花戸に連れられ大学へと向かうが、結論だけを言えば収穫なしだ。兄は数カ月前から授業にも出ていなかったらしい。友人という友人すらいない。顔くらいしか分からない、その程度の知人しかいないのだ。
とぼとぼと車まで戻ってきた俺。運転席へと乗り込んだ花戸は「まあ、仕方ないさ」と優しく声を掛けてくれる。
「あいつはなかなか人に懐かない性格だったね」
「花戸さんは、本当に兄と仲良かったんですね。でも、花戸さんも知らない恋人って……」
「君に恋人のことを教えてくれたっていうそのバイト先の人も相手のことまでは知らなかったんだろう?」
「はい、聞いたんですけどそれ以上は……」
「じゃあ、バイト先の方行ってみようか。とはいえ、元になるだろうけど」
俺が知らない兄が働いていたというコンビニ。
そこへ花戸に送ってもらうことになる。
接客を嫌い、人前に立つことを苦手としていた兄が深夜とはいえ接客していたと知ったときは驚いた。
そのコンビニは兄の家の近くらしい。だから選んだのか分からないが、それでもやはり自分の知らない兄のことを知らされてるようで酷く落ち着かない。
目的地へはすぐに辿り着くことになる。
「ここだよ」と駐車場に停車した花戸の声に慌てて顔を上げる。ごみごみとしたビル街のど真ん中、上の店舗に潰されそうになっているそのテナントにコンビニは存在した。
「あの、俺行ってきます」
「一人で大丈夫?」
「はい、花戸さんにはずっと付き合ってもらったので」
大学の中でも車の中でもずっと煙草を吸わないでいた花戸のことが気になっていた。
そろそろ一息つきたいのではないかと伝えれば、花戸はふわりと微笑むのだ。「そう、ありがとう」と。男の俺でも思わず見惚れそうになるくらいだ、女子なら卒倒してるのかもしれない。
花戸に会釈し、俺はそのまま車を降りる。
コンビニの中には年配のスタッフが一人でレジに立っていた。兄のことを尋ねれば知らないという。夜勤なのだ、知らなくてもおかしくはない。また時間を改めようとしたとき、そのスタッフは他のスタッフにも聞いてくると奥へと引っ込んでいく。
仕事中になんだか大事にして申し訳ないなと思ったが、兄のことをなにか一つでも分かるのならという気持ちを前にはどうすることもできなかった。
それから暫くもしない内にそのスタッフは一人の若いスタッフを連れて戻ってきた。
「君が生天目君の弟さん? ……この度は御愁傷様です」
「……ご丁寧にありがとうございます」
「挨拶が遅れたね。僕は小林。元々夜勤で、そのときはよく生天目君と時間被ってたんだ」
「あの、俺は生天目間人です。……兄がお世話になりました」
「そんなに堅苦しくしなくてもいいよ、僕もただのバイトだしね」
小林と名乗る男は兄や花戸と同じぐらいだろうか、大人しそうな眼鏡の大学生風の男だった。
「そうだ。ここじゃなんだし、休憩室で話そうか。どうせ店長たちはいないし気にしなくてもいいよ」
「……じゃあ、お邪魔します」
小林は丁度休憩時間だったらしい。俺は年配のスタッフに頭を下げ、そのまま小林の言葉に甘えてカウンター奥のスタッフルームへとついていく。
「それで、清水さんから生天目君……あ、君も生天目君なのか……お兄さんのことで何か聞きたいことがあるって聞いたんだけど」
「あの、兄は最近までここで働いてたんですか?」
「いや、先月辞めたよ。……っていってもトんだらしいけど」
「トんだ?」
「ああ、バックレ……えーと、出勤時間になっても店に来なくなってそのまま音信不通って感じかな。まあ、珍しくはないからそんなに驚かなかったけど。……生天目君は勤務態度真面目だったからその話を聞いたとき意外だなって思ったんだよ」
兄が真面目に働いていたということを聞けただけでも弟としてはなんだか嬉しくなったが、それ以上に引っかかる言葉があった。
「急に来なくなったって……」
「一応僕からも連絡入れたんだけど電話にも出なければメッセージにも既読すら付かなくてね、普段即レスだったから驚いてさ」
「ほ、他に……その、店に来なくなる前になにか変な様子とかなかったですか? 悩んでるとか……その……」
「うーん……そうだな……」
なんでもいい、なんでもいいから思い出してくれ。藁にも縋る気持ちで小林に尋ねれば、「ああ、そういえば」と小林は何かを思い出したように手を叩いた。
「こんなこと、弟君に話していいのか分からないんだけど……生天目君、お客さんからよく色々絡まれることが多くてね。ほら、やっぱり目立つっていうか……モテるんだよね、よくレジ前で連絡先聞かれてはすごい冷たくしてたけど」
「……っ」
「まあそれくらいは可愛いもの……まあマシだったんだけど、冬くらいかな。生天目君のシフトが終わるまで店の駐車場で出待ちするやつがいてさ、それも男だよ? ……本当あのときは気味悪すぎて朝になって人通りが多くなるのを店で待ってたこともあったな」
聞けば聞くほど頭に来るのが分かった。小林に対してではない、兄に心労を掛ける連中にだ。
昔からだ、兄が絡まれやすいことは知ってた。異性からも、同性からも。その度に俺は早く大きくなって兄を守れるようになりたいと幼いながらに思ったことがあった。けれど、結果がこれだ。過去の話だとしても冷静でいられなくなりそうになる。
「……おっと、ごめんね。お兄さん、亡くなったばかりの君に話すようなことじゃ……」
「いえ、大丈夫です。……それより、その男の顔とか……」
「ああ……その、顔はよくは見てないんだよね。情けない話、そのとき僕もびびっちゃってさ。声を掛けることもできなくてただ店の中からちらって背中を見てたぐらいで……それに、辺りは暗かったから」
ごめんね、と小林はうなだれる。
寧ろここまで聞けただけでも大きい。他になにかないかと聞き出そうとしたが、めぼしい情報はそれくらいだった。
「あの……休憩中なのにありがとうございました」
「いや、いいよ。寧ろこれくらいしか力になれなくて申し訳ないね。そうだ、また何かあったらきてくれてもいいから」
「はい、ありがとうございます」
小林に見送られながらも店から出たとき、丁度店前では花戸が煙草を吸っていた。俺が出てくるのを見るなり、咥えていた煙草を灰皿スタンドに捨てる。
「終わった? ……その顔は何かいい情報でもあったのかな?」
「はい。……あの、お待たせしました」
「全然待ってないよ、大丈夫。それじゃ、詳しい話は車の中で聞こうかな」
はい、と花戸に促されながらも俺は車の助手席に乗り込んだ。隣に花戸が乗り込む。シートベルトを締めながらふと顔を上げたとき、カウンターでこちらを見ていた小林と目があった。真っ青な顔をした小林が視界に入った。
なにかあったのか。気になったが、それよりも先に花戸が車を出発させた。
……ああ、連絡先聞いておけばよかったかな。
けれどここなら実家からもなんとか自転車で来れる距離だ。今度また話を聞きに来よう。そんなことを思いながら、今度は兄の暮らしていたというマンションへと向かうことになった。
花戸に連れて来られたのは兄の住んでいたというマンションだ。
閑静な住宅街、決して大きくはないマンションがそこにはあった。
俺は予め親から預かっていた鍵を使って玄関のオートロックを解除する。それから、マンションのロビーへと足を踏み入れた。
それからエレベーターへと乗り込む。
「緊張してる?」
静まり返ったエレベーター機内。花戸に問い掛けられ、首を横に振った。
「いえ。まだ実感はないです」
「じゃあお兄さんに会いに行く感覚かな」
「……そうですね」
葬式も、火葬も全部嘘で、この先、兄が部屋にいて俺を待っててくれてるんじゃないか。そんな風にまだ考えてしまうのだ。
花戸は「俺もだよ」と小さく微笑み、目を伏せる。
暫くしてエレベーターは停止した。
五階。兄の部屋がある階だ。
俺はポケットから取り出した鍵を手に取った。鍵には昔流行った子供向けアニメのキャラクターのキーホルダーが一つぶら下がっている。まだ俺が幼い頃、初めてもらった小遣いで兄へプレゼントしたものだ。……俺の好きなキャラで、兄は全然興味なかっただろうにまだ持っててくれたのだ。
ぐ、と胸が詰まりそうになるのを堪え、俺はエレベーターを降りた。
兄の部屋の前、既に清掃を終えたのだろう。立入禁止のテープもなにもない。俺は鍵を使って扉を開く。そしてドアノブを掴んだ。
茹だるような暑さの中、首筋に冷たいものを感じた。
大丈夫だと、実感などないと花戸に応えたばかりなのにも関わらず。熱を含み、ぬるくなったドアノブを握り締めたまま手が止まってしまう。
あれほど煩かった蝉の声が遠く聞こえた。
「俺が先に行こうか?」
「…………、いえ、大丈夫です」
「本当に?」
「………………」
声にはならなかった。頷き返せば、花戸は無言で一歩引くのだ。
……俺は感傷に浸りに来たわけではない。兄のために来たのだ、こんな調子でどうする。そう自分を叱咤する。肺に溜まった空気を吐き出し、数回呼吸を繰り返した。
……覚悟なんて、あるわけない。できるはずがない。
今だってまだ兄の死を受け止めきれないのだ。
ドアノブを捻り、そして扉を開いた。瞬間、部屋の中に溜まった熱気がぶわりと溢れ出す。
俺は込み上げてくるものを必死に抑え込み、玄関へと踏み込んだ。広い玄関ではない、俺が靴を脱ぎ上がるのを確認して、花戸も続いて足を踏み込んだ。
部屋の中は片付けられていた。
捜査のためか分からない、けど、兄は元々綺麗好きだった。どこか神経質なところすらあったくらいだ。部屋の装飾品すら一つもなにもない。殺風景な玄関を抜ければ、通路の先には狭い部屋があった。
広いいえではない、この先が兄の自殺した部屋になるのだろう。胸の奥がざわつく。手汗が滲むのを拭い、扉を開いた。
そこには玄関同様、殺風景な空間が広がっていた。
冷蔵庫とベッドと机、そして備え付けのクローゼットだけが置かれた部屋の中。俺は違和感を覚える。
「…………」
「……相変わらず殺風景だね」
「……ここが、兄の部屋……?」
「うん、そうだよ。……君のお兄さんが生活してた部屋だね」
兄はよくパソコンを弄っていた。けれど、この部屋にはそれすら見当たらない。
それに、微かだが兄の匂い以外のものが混じってる気がした。
「花戸さんが前に遊びに来たときも『こう』だったんですか?」
「ああ、そうだね。あいつは無駄なものを嫌ってたから」
「……兄は、生活に困窮してたんですか?」
パソコンを買うお金もない、とは思えない。そもそも一番最初に買い揃えてもおかしくないと思っていたからこそ、違和感が強かった。それに部屋を見た限り家具にも金を掛けてるようには見えなかった。クローゼットの中には昔見たことがある服がハンガーにかかってるくらいで、ブランド志向にも見えない。冷蔵庫の中も冷凍食品があるくらいだ。
「困窮って、どうだろうね。あいつは贅沢するようなタイプには見えなかったし、貯金でもしてたのかな?」
「……そう、ですか……」
違和感は強くなる。デスク周りには兄の読みかけらしい小難しい本が並んでる。
「……それにしても暑いな、冷房のリモコンはどこだろ」
言いながら冷房の方まで歩いていく花戸。俺は目の前の本を適当に手に取った。分厚い本は相変わらず専門用語が並んでいて、俺には理解できそうにない。
……これは、確かに兄の好きそうな本だけど。何故だろうか。
兄の部屋なはずなのに、兄の部屋に思えなかった。
そのとき、部屋の冷房が動き始める。
「涼しくなるまで時間掛かりそうだね」
「……そうですね」
「俺、涼しくなるまで少し外に出てるね」
煙草休憩なのだろう、そのまま外へ出る花戸に「わかりました」とだけ答えた。
そして俺は再び部屋の中を探索し始めた。
兄の所持品の中に携帯がなかった。
そんはずがないのだ。小林も兄と連絡取る仲だったと言っていたし、まだどこかにあるはずだ。
この時点で俺は嫌な予感を感じていた。それはあくまでも予想に過ぎない。
兄の自殺はただの自殺ではないのではないか。
携帯は誰かに隠されたのではないか。
小林からストーカーの話を聞いたからだろう、そんな思考がずっと俺の頭に過ぎってはぐるぐると回っていた。
クローゼットの中、かかっていた上着のポケットから何まで全て確認する。机の引き出し、キッチンの棚、何もかも調べた。けど、見当たらない。
兄も持っていない、兄の部屋にもないとなればどこだ。
風呂場、トイレへと向かい、トイレの貯水タンクの蓋を開けたとき。息を飲んだ。
「……っ、……」
蓋の裏側、そこには明らかに隠すようにガムテープで固定されていた携帯が貼り付いていた。
何故、こんなところに。意図がわからず狼狽えたが、兄のもののはずだ。俺は爪でガムテープを引き剥がした。そして、蓋から携帯端末だけを引き剥がす。既に充電は切れているようだ。けど、充電さえすれば普通に使えるはずだ。画面は傷ついていたし背面はガムテープがくっついたままではあったが、見つかっただけでもまだましだ。けれど同時にただ事ではないことだけは頭で理解できていた。
そのとき、玄関の方で扉が開く音がした。どうやら花戸が戻ってきたようだ。
そうだ、花戸にも伝えなければならない。
「間人君、トイレにいるの?」
「はい。花戸さん、見つけました!」
「見つけたって?」
「所持品にもなかった兄の携帯が――……」
ここにあったんです、とトイレから出ようとしたとき。
目の前、通路に立ち塞がるように立っていた花戸がトイレの中へと入ってくる。あまりにもいきなりで、思わずぶつかってしまった。
「すみません」と、咄嗟に一歩引いたときだ。携帯端末を掴んでいた手、その手首を掴まれる。
「……っ花戸さん……?」
「流石、侑の弟だ。……俺が何度探しても見つけられなかったのに、こんなに早く見つけてくれるんだもん」
「そんなこと……」
ないです、と言い掛けたときだ。俺の手から携帯端末を取り上げた花戸はそれを開きっぱなしの貯水タンクへと放り投げた。
ちゃぷんと音を立て、そのまま底へと沈んでいくそれに全身から血の気が引く。
何を、なんで、どうして。疑問を覚えるよりも先に、慌てて携帯を取り出そうと伸ばした腕ごと掴まれる。あまりにも強い力だった。
何が起きてるのか、花戸がなにをしてるのか理解できず、頭の中が真っ白になる。
「あれだけ処分しろって言ったのに、本当馬鹿だな。あいつは」
頭の中、警笛が鳴り響く。
言葉よりも早く、それよりも携帯を早く取り出さなければと花戸の腕を振払おうとするが敵わない。それどころか。
「おいで」
「花戸さん、携帯……っ」
「そんなもの必要ないよ」
どうして。何故。
口の中から水分が乾いていくようだった。トレイから引きずり出される。
タンクの底に沈んだ携帯が気がかりだったがそれでもどうすることもできない。
花戸に引っ張られてやってきたのは先程の兄の部屋だ。乱暴に部屋の扉を開いた花戸はそのまま俺から突き飛ばした。バランスを崩し、ベッドの上に転ぶ俺の目の前。ベッドへと乗り上がった花戸に頭を撫でられた。
「……っ、は、などさん……?」
「頭、打たなかった? 大丈夫?」
言いたいことは色々あるはずなのに、まだ混乱してる。
花戸の意図が分からない。
濃くなる煙草の甘い匂い。優しく頭を撫でられ、そのまま頬へと伸びてきた指先に思わず全身が震えた。花戸の指から逃げようと身を引いたとき、僅かに花戸の瞳が揺れた――そんな気がした。
それも束の間、花戸は優しく微笑むのだ。
「君は本当に危なっかしいな。侑が君を大事にしてたのもわかるよ。過保護なくらい、大事にしてた」
兄の名前に思わず顔を上げたとき、唇をなでられる。ぞっとするほど優しく、だからこそ困惑した。
なんだか嫌な予感がして花戸さん、と呼びかけようとしたとき。
ちゅ、と当たり前のように唇を重ねられる。
最初は触れるだけの口づけだった。けれど、それを繰り返す内に次第に花戸の触れる手に力が入るのだ。
俺は、逃げることも忘れていた。唇になにかぬるりとしたもの触れ、そこでハッとする。それは花戸の舌だった。
「……っ、ふ……ぅ……」
咄嗟に花戸を付き飛ばそうとするが、伸ばした手首ごと掴まれ、更に後頭部に回された手に頭を抑え込まれるのだ。長い舌が唇を割って侵入してくる。
何故、花戸にキスされてるのか。
息苦しさの中、ただじっとこちらを見据える花戸の目から視線を逸らすことができなかった。呼吸をするタイミングすらわからず、舌を絡められ、深く優しく執拗に愛撫されるのだ。
溜まった唾液を飲み込むことすらできず、唇の端からとろりと溢れそうになる。それを花戸は舐めとるのだ。そこでようやく俺は空気を吸うことができた。
「っ、なにを、するんですか……っ」
「言っただろ、侑のこと教えてあげるって」
だからってこんな真似、と言い掛けて全てを理解した。
瞬間、全身から熱が抜け落ちていく。
「侑は好きだったよ、俺とのキス。それ以外は相性最悪だったけどね」
とん、と伸びてきた指に胸を叩かれる。
心臓が跳ね上げ、考えるよりも先に花戸を殴ろうとして――気付いた。殴ろうと握りしめた拳は振り上げることも許されなかった。
「っ、離せ! あんた、あんたが……っ!!」
「まあ、落ち着きなって。君は恋人を探してるって言ってたけど、俺と侑は付き合ってないよ。……だから、君に嘘を吐いたわけじゃないんだ」
「そんなの」
詭弁だ、と言いかけたとき。「確かここに」とベッドに取り付けられた引き出しから何かを取り出した。それを見て、血の気が引いた。
それは黒いゴムロープだ。その束を手にした花戸は俺が抵抗するよりも早く、ベッドの頭に取り付けられた縁へと両手首ごと縛り付けるのだ。
必死にロープから抜け出そうとしてもびくともしない。それどころか、血流が阻害されるほどの強い縛りに指先の感覚がびりびりと痺れていくのが分かる。
「……っ、離せ」
「声、震えてるね。……うん、やっぱり君たち兄弟は似てないよ。君の方があいつよりも可愛い」
何を言ってるのか理解できない。このようなタイミングで褒められ、よりによって兄と比べる目の前の男が同じ人間だと思えなかった。
腕で身を守ることもできない。無防備になった上半身、滑るように伸びてきた手のひらに脇腹から脇までを服の上から撫でられる。
やめろ、と声が震えた。その胸元、抱き締められるように顔を埋める花戸に全身から血の気が引いていく。
「線香の匂いがする。……あのときもそうだったね。線香と、畳の匂い」
あのとき、と言われ兄の葬式で出会ったときのことを思い出した。涼しい顔して俺の申し出を受けたと思うとあまりにも図々しく、慄く。
それ以上に、だとしたらこの男が兄の携帯を沈めた理由も自ずと浮かび上がるのだ。
「っ、あの携帯に見られたら都合が悪い……だから沈めたんですか?」
「君、もしかして俺が君のお兄さんを自殺に追い込んだって思ってる?」
「それは……」
「違うよ、殺したのは俺。……君とまた会いたかったから」
「――、――」
は。と、開いた口が塞がらなかった。
花戸は変わらない笑顔のまま続けるのだ。俺をじっと見詰めて。口は笑ってるのにその目の奥は一切笑ってはいない、薄暗い瞳には酷い顔をした自分の顔が反射していた。
「あいつの葬式なら、流石に君も来てくれるだろって思ってね」
「本気で、言ってるんですか」
「そうだよ。俺は君には誠実でありたいと思ってるからね」
目の前がぐにゃぐにゃに歪む。理解できない。意味が分からない。目の前の男が兄を殺した?ならなぜこんな平然としてるのだ、何故俺に言うのか。
――俺も、この男に殺されるのか。
頭の奥がカッと熱くなり、咄嗟に花戸を蹴ろうと藻掻くが体重の乗った足はびくともしない。
それどころか、「元気だね」と腿を撫で上げられひくりと喉が震えた。
「……う、そだ」
「信じるも信じないも好きにしたらいいよ。俺は強制しない」
「っ、あんた、最悪だ」
「君のせいだよ」
その一言に胸の奥がずん、と重くなる。一瞬、抵抗を忘れたときだった。
顎を掴まれ、再び唇を塞がれた。伸びてきた手に服を脱がされる。抵抗などできなかった。ベッドが軋むのをお構いなしに縁ごとぶち壊してやろうかと思ったのに、動かそうとすればするほど手首が余計きつく締め上げられるだけだ。
花戸の唇に噛み付けば、花戸は僅かに目を細めた。口の中に広がる鉄の味。そして、花戸はそれに怯むわけでもなく更に口付けを深くする。
着ていた薄手のシャツを託し上げられ、剥き出しになった胸に花戸の薄い手のひらが乗せられた。
「全部、君が悪いんだ。君が俺に侑を殺させた」
それはなにかの呪詛のように繰り返される。浅くなる呼吸。そんなはずがない、そう思うのにこの男の顔を見ると何も言い返せなくなるのだ。慈愛に満ちた、優しい目。人を殺すようには見えない笑顔。
「侑は俺から君を守ろうとして、死んだんだよ」
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