誰が女王を殺した?


 ***

「アリス――って、なるほど、テメエがか」
「誰? 君……もしかしてロゼッタのお友達?」
「ああそうだよ、お前に会いに遥々やってきたんだ」
「ふーん……まあどうでもいいけど。それよりも君、その服汚いね。そんなんでロゼッタに寄らないでもらえる?」
「き……ッ」

 汚い、と三日月ウサギがブチ切れるよりも先にアリスは僕の前にやってきた。ずっと、遠目にしか見たことなかった。白く眩い髪、そしてその髪と同じように色素の薄い睫毛に縁取られた瞳はキラキラと輝いては僕を映すのだ。
 両手で右手を握られたとき、あまりにも急なことにほんの一瞬反応に遅れてしまった。

「ねえ、ロゼッタ、それよりも君のためにローズパイを焼かせたんだ。僕の部屋……ああ、そう、君のお母さんの部屋が丁度空いたから僕の部屋にもらったんだけどそこに用意してるからよかったらお茶会においでよ」

 この男が何を言っているのか理解できない。したくもない。僕はその手を振り払い、「ウサギ」と叫んだのとアリスの背後にウサギが現れるのはほぼ同時だった。隙だらけのアリスのその首にナイフの刃を走らせた瞬間、辺りが白く染まる。そして遅れて何かが爆発するような破裂音が響いた。爆弾ではない。発砲だ。

「チッ……!」
「……ッ! ウサギ!」
「おっと、危ないな……いつの間にそんなところにいたんだろう。君ってもしかして大道芸人?」

 間一髪直撃は避けたようだが、破損したナイフを捨て新しいものと持ち替えた三日月ウサギは「そうかもな」と笑ってみせた。そして間髪入れずにアリスに斬りかかろうとしたときだった、黒い影がいきなり背後で動いた。
 そして、ガキンと再び金属同士がぶつかり火花が散る。鋭く光る剣。そして。

「っと、流石に……そんなナイフと剣とでやり合うのは不利では?」
「遅いよサイス、あと少しで僕の首が飛ぶところだったんだから」
「……すみませんね、ちょっと色々あって」

 ――何故、サイスがここに。
 エースとやり合っていたはずではないか。まさか、と嫌な想像が頭を過る。まさか、いや、そんなはずがない。……けど、じゃあなんでエースがここにいないのだ。
 岩のように身体が、爪先から熱が抜け落ちていく。応戦、いや、僕が入ったら邪魔になる。ならば、と後ずさった時。ドン、と背中で何かにぶつかった。
 具合悪くなるほどの甘ったるい匂い。そして。

「ハッ!……なあにが色々だあ?お前がヘマするからだろうが、お前がさっさとトドメ刺しときゃよかったんだ」

 ――鮮血のように赤い軍服。そして乱れた金髪を掻き上げ、男は僕を見下ろして笑うのだ。

「また会えたな、お嬢ちゃん」
「ジャック……ッ!!」

 最悪だ。背後をジャック、目の前をアリスに挟まれ逃げ場がない。
 それでも、逃げなければ。そう思うのに、この男のせいで嫌な記憶が蘇り判断が鈍りそうになる。逃げなければ。いや駄目だ、分かっている。アリスだけならまだしもジャックが相手で敵う筈がない。おまけに、状況は最悪だ。
 衣類のポケットの奥には眠りネズミからもらった劇薬がある。……これを今使うことは難しい。
 ならば、と三日月ウサギを見た。

「ウサギ! 僕のことはいい!」

 名前を呼べば、サイスの攻撃を避け、そのまま距離を取った三日月ウサギはこちらを見て口元を緩めた。
「行け」と花園の奥を指差す。エースのことを頼んだぞ、と目で訴えれば三日月ウサギは「大胆ね、お前」と笑った。そしてその一瞬、そのまま正反対の薔薇の蔦の引き裂き、そのまま薔薇の奥へと姿を消した。

「お前、待て……ッ!!」

 そしてすぐにその後を追い掛けるサイス。
 そんな二人に動じるわけではなく、アリスは相変わらず薄気味悪い笑みを携えたままこちらを振り返るのだ。

「良かったの? お友達を逃して」
「……お前が用があるのは僕だろ」

 この男は手配書に書いた通り僕は殺すつもりはないらしい。……そしてそれは本当なのだと確信していた。暴れてジャックに捕らえられ再び牢にぶち込まれるくらいならばまだこの男の側にいた方が安全だと分かる。
 ――吐き気はするが、今はただエースのことが気がかりだった。
 そんな僕にアリスは「ロゼッタ」と目を輝かせるのだ。深く、離さないと更に絡められる指に背筋が震える。それも束の間、いきなり身体を抱きしめられるのだ。

「……ッ、お、い……ッ」
「ロゼッタ……嬉しいよ、君が僕の側にいることを選んでくれて……それが、君の選択なんだね」
「……ッ」

 何を言ってるのかわからないが、不愉快だ。離せ、と慌てて胸を押し返そうとして、やめた。今はこいつを油断させる方が先だ。隙きを見せて、こいつの隙きを引き出す。
 そして――殺す。

「……ジャック、サイスの様子を見ててくれないか」

 そう、人の手を握りしめたままジャックに命じるアリス。ジャックがどんな表情をしてるのか確認はできなかった。けど、「了解」と応えるその声は笑っていた。
 助かった、とは到底言えない状況だ。
 それでもまだ諦めていない。

「それじゃあ僕の部屋へ行こうか。……って言っても 城内のことなら、僕よりも君の方が詳しいだろう?なんたって実家なんだからね」

 ジャックがいなければこいつなんて僕と変わらない。現役の兵隊でもなければ、元はただの人間だ。

「……それに、君のパパも心配していたよ。顔を見せてあげないと」

 父のことを口に出され、抑え込んでいた自分の中の殺意が再び膨れ上がるのを感じた。
 この男に対してもだが、それ以上に父……あの男に対してだ。父と呼ぶことすらも吐き気がする。
 ……今はまだ駄目だ。そう掌を握り締め、堪える。
 僕の無事は不本意ではあるがこの男に保証されている。ならば、エースと三日月ウサギの状況を確認してから動くべきだ。
 冷静になれ。そう繰り返し、僕はアリスに手を引かれるがまま秘密基地を後にした。


 逃げようと思えばいつでも逃げられた。
 それほど、この男は僕に対して無防備だった。
 ジャックもいない、他の兵も追い払い一人僕の手を取り軽い足取りで歩いていくのだ。
 やつの口から出てくるのはどうでもいい戯言ばかりだ。正直会話する気にもなれない。
 やつが同じ人間の言葉を話しているように聞こえなかった。
 何も言わない僕にさして気分を害するわけでもなく一人べらべらと話している。

 大広間、見張りの兵隊たちは僕とアリスを見るなりぎょっとするが「ロゼッタが帰ってきたんだ、早くパーティーの準備に取り掛かってくれ」と命じては人払いをさせる。
 軽やかな足取りで無人になった広間を通り抜け、中央大階段を登るアリス。
 その足取りはどんどん早くなる。まるで待ち切れないと言わんばかりの強さで手を引かれ、足が縺れそうになったとき。躓く僕に気付いたアリスは「ああ、ごめん」と申し訳なさげに足を止めた。
 そして、視界がふわりと傾く。

「ぉっ、おい……っ!」
「こうした方が早いだろ?」
「っ、降ろせ!今すぐその手を……っ!」

 あまりにも不敬極まりない。人をまるで子供かなにかのように抱き上げてくるアリスに、向き合うように抱き抱えられるこの体勢に血の気が引いた。
 けれど、膝の下に回された腕にそのまま下半身ごと抱えられてしまえば動けない。自然と近付く顔に息を飲む。アリスは幸せに蕩けたような顔で「嫌だね」と笑った。

「……っ、無礼者が……!」
「ああ、ごめん。……これもマナー違反?……難しいなあ、王子様っていうのは。……これでも俺……いや、僕も君に怒られないようにマナーは学んできたつもりだったけどやっぱりロゼッタみたいにはできないな」

 そう、困ったように笑うアリスだがその目でわかる。心の底から困ってるわけではない。怒る僕を見て愉しんでいるのだ、この男は。
 声から、目からそれが滲んでいた。

「けど、それって今夜までの話だよ」

 見覚えのある扉の前までやってきたアリスはそう言って大きく開いた。赤く薔薇を模した美しい彫刻が施された扉は間違いない、母の部屋だ。
 その扉を開いた瞬間全身に甘ったるい匂いが包み込む。

「さあロゼッタ、見てご覧。君の家のパティシエに作らせた。君はローズパイ、そしてローズヒップティーが好きだって彼に聞いたんだ」

 部屋の中央、アンティーク調のテーブルの上には二人で食べるにはあまりにも多すぎるローズパイが置かれていた。
 僕の肩を掴み、半ば強引に椅子に座らせたアリスはそう僕の両肩を撫でる。

「少し遅いがお茶会を始めよう。
 ――邪魔な奴らはもういない、二人だけのお茶会だ」

 遠くで時計の鐘の音が響いた。



 向かい側に腰を掛けるのはアリスだ。
 自分はフォークに手をつけることなくただ僕を真っ直ぐに見据え、目が合えばただ薄く微笑む。

 異様な空間に吐き気がした。
 母の部屋にこいつがいることにだ。
 この部屋は完全な私室だ、母の部屋に入ることは身内である僕でも父でも許されない。……許されなかった。それをこの男は我が物顔で入り浸り、まるで自分のもののように扱う。吐き気がした。
 紅茶のリラックス作用も関係ない。母との思い出も、記憶も全てこの男に塗り替えられる。

「……どうしたの? ロゼッタ」
「…………」
「もしかしてお腹がいっぱいなのかな?」

 お前みたいな得体の知れないやつが用意した物など口にできるわけがないだろう。できるか。ふざけるな。喉先まで出かかった言葉を飲み込む。紅茶の中身をぶち撒けてやりたかった。お前のせいで母が死んだと、お前は人殺しだと。この手で殺してやりたい。何度も陶器の破片でその目も心臓もズタズタに潰してやりたい。
 憎悪で心の臓まで黒く塗り潰されそうになる。
 今なら、できる。この怒りに身を任せることもできた。最悪駆け付けた兵に殺されるかもしれない。それでも三日月ウサギならエースを助けてなんとかしてくれるだろう。エースならば王を殺すことも容易いはずだ。そもそも僕はこの男を一矢報いることができればそれでいい。
 拳を握り締めたとき、指先に何かが当たった。……毒薬の小瓶だ。そうだ、こいつの食べるものにこれを仕込めば確実に殺せる。殴りかかるよりかは遥かに現実的だ。それでも、簡単に死なせてやるかという気持ちとせめぎ合い頭の中が、心の奥がぐちゃぐちゃになっていく。

「ロゼッタ?」
「……ッ!」
「……せっかくのティーが冷めてしまうな。新しいものを用意させようか?」

 誰かを呼びに行くつもりか。
 チャンスだ、と息を飲む。

「ああ、僕は……湯気が立つほど熱いものではなくては口に合わない」
「へえ、そうなのか。……でも君って猫舌じゃなかったっけ?」
「……ッ、今は違う」

 そもそもなんでお前が知ってるんだ、と疑問に思ったとき。アリスは「待ってて」と立ち上がり部屋から出ていくのだ。
 ――今だ!
 そう、やつが部屋を出ていったのを見計らいポケットから劇薬の入った小瓶を取り出した。
 蓋を開き、やつの側に置いてある紅茶の中と、念の為ローズパイに数適垂らす。色はないので怪しまれないだろう。全て使うか迷ったが、あとからまた使う機会が嫌でもくるはずだ。
 僕は再びポケットに仕舞い、自分の席へと腰を下ろした。
 間もなくしてアリスが戻ってきた。その手にはティーロトリーが押され、そしてその上にティーポットが載せられている。

「お待たせ、ロゼッタ。すぐに用意するから待っててね。君のためにここの執事……名前をなんて言ったかな、あの双子の……そう、ダム……ディーだっけな? まあ、どちらかに聞いたんだよ。ほら、見ててね」

 言いながら、もたつきながらも新しいティーカップに紅茶を注ぐアリス。あまりにも不慣れ、見ていられない。が、そんなことよりも僕はアリスの口から出てきたその名前に意識を持っていかれた。
 トゥイードル・ディーとトゥイードル・ダム。
 双子の執事の顔を思い出す。数年前に父が連れてきたこの城では新参者の執事だが、そうか……あいつらは父に可愛がられていた。母は素性の知らない彼らにお茶を淹れさせず、昔からいる執事長やシェフが用意したものだけに口をつけていた。
 それが気に入らなかったのか。だからアリスなんかと仲良くしているのか。あの双子も敵なのだと思えば不快感で髪を掻き毟りたくなる。
 ……まだ幼かった僕に『クイーンには秘密だよ』と度々おやつをくれた二人のことを僕は少しでも信じていたかった。いや、まだ分からない。無理矢理アリスに命じられただけかもしれない。一人思案してると、どうやら悪戦苦闘の末ようやく用意できたらしいティーカップを僕の目の前にそっと置くアリス。

「さあ、どうぞ」

 そう用意されたティーカップには当たり前だが湯気が立っている。……熱そうだ。
 さっきは咄嗟に無茶振りして注文したが、あくまでも退席をさせるための嘘だった。けど、自分からケチ付けて飲まないのも怪しまれるだろう。
 それよりもだ。

「……お前も席についたらどうだ」
「ああ、そうだね」

 促せば、アリスは向かい側のチェアに腰を掛ける。そして再び頬杖をついて僕が飲もうとする様子を見てるのだ。何をしてるんだ。早く飲め。それを飲むんだ。一口でもいい。

「……お前は飲まないのか」

 逸る気持ちを抑え、そうなるべく怪しまれないように尋ねれば「そうだね」とアリスはティーカップの持ち手に指をかける。
 きた、と顔を上げたときだった。アリスはそのまま中に入った紅茶を床のカーペットへと捨てたのだ。

「僕、薔薇の匂いって嫌いなんだよね。吐き気がして気持ち悪くなっちゃって」

 薔薇色のカーペットにシミが広がっていく。
 そしてその紅茶が捨てられた一部がまるで色が抜け落ちたように白く変色するのを見て、「ん?」とアリスが小首を傾げた。
 しまった、と思ったときには遅い。アリスは立ち上がり、僕が手にしようとしていたティーカップを奪った。そして。

「ぁ……ッ!」

 再び、アリスは躊躇いなく紅茶を捨てる。真紅のカーペットにもう一つ大きなシミが滲む。けれど、そのシミは広がりはすれどもう一方同様色が抜け落ちることはない。
 しまった、流石に気付かれたか。
 鼓動が跳ね上がる。汗が滲む。アリスの表情から笑顔が消え失せていくのを見て全身が冷たくなる。そして、アリスの双眼はゆっくりとこちらを向くのだ。

「……良かった、君の方は無事だったんだね」
「ぁ……アリス……」
「ああ、分かってるよ」

 あのとき毒を盛れたのは僕しかいない。
 立ち上がるアリスはそのまま宥めるように僕の背中を撫でた。その冷たい掌に感触に背筋が震えた。

「……ディーとダム、あいつらの仕業だな」

 その声は一切笑っていない。いつもの軽薄な響きもなかった。

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