悪気はなかったし悪意もなかった。
本当、ただの不運だった。
紙を切るために鋭利なナイフを手にした栫井と、たまたまその側で十勝たちと話していた俺。
絡んでくる十勝から逃げようとして、そのまま栫井にぶつかる。
次の瞬間には栫井の手から音もなく赤い血が溢れ出し、手にしていた紙は真っ赤に染まっていた。

そして手洗い場。


「あの、ごめん、本当に。ごめんね、ごめんなさい」

「……」


手のひらにぱっくりと開いた大きな傷口から垂れる血を洗い流すために生徒会室を出た栫井についてきた俺はただひたすら謝っていた。
当の栫井はそんな俺をうざったそうにじとりと睨み、再び手のひらの血を洗い流す作業に戻る。
しかし血は止まることを知らず、排水溝へ赤く濁った水がどんどん流れていくばかりで。


「ど……どうしよう、うそ、血が止まらないよ……っ」


涼しい顔をした栫井の代わりに自分が焦っているのが可笑しくて、それでもやっぱり動揺せずにはいられない。
なんだって、自分が作った傷なのだから。

蒼白になって栫井の骨っぽい手を眺めていたときだった。
不意に蛇口から手を離した栫井は滴る水を振り払い、そしてこちらに目を向ける。


「あ、だ、ダメだって動かしちゃ……っ、ひッ」


そう、慌てて赤く汚れる相手の手を掴もうとしたときだった。
ぐいっと、栫井が距離を詰めてくる。
目先に相変わらず生気のない栫井の顔が近付き、心臓が停まりそうだった。


「傷、残ったらどうすんだよ」

「ご、ごめ……」

「謝るくらいなら責任取れよ」


細められた相手の眼を見据え返す。
嫌な予感に身がすくむ。
ポタポタと栫井の指先から落ちる赤い液体を一瞥し、「責任?」と尋ね返そうとしたときだった。

そのまま、唇を重ねられる。


「っんむ、ぅ……ッ」


先程から距離が近すぎていたせいか、不思議とキスされているという実感がなくて、いきなりの栫井の行動より肩を掴んでくる赤く血濡れた彼の手の方が気になって仕方なかった。
柔らかい唇の感触。
それは、思ったよりもすぐに離れる。


「そ、責任」


何事もなかったように顔を離した栫井は、言いながら自分の唇を舐めた。
その言葉で、なんとなく今のキスの意味が理解できた。
つまり、そういうことなのだろう。


「誠意出せよ」


そう、こちらを見下ろす栫井の冷めた眼差しに俺はとうとう反論が出来なかった。
頭の中で反論出来る立場ではないと理解していたから、尚更。





咥内に充満した濃密な血の臭い。
それに軽い吐き気を覚えたが、吐き出すことはなかった。
当たり前のように差し出された血で汚れた手のひらを同様当たり前のように掴んだ俺はそのまま唇を近付け、指先から付け根、掌へと滴る血を舌で拭っていた。


「ふ、……ぅん……ッ」

「傷は舐めんなよ。菌が入る」


相変わらず体温を感じさせない栫井の淡々とした声がする。
その言葉に、数本の指に舌を絡めていた俺は「ふぁい」と舌足らずに返事をした。
瞬間、開いた喉奥へと自らの唾液と栫井の血が流れ込み、眉を寄せる。

鉄の臭いは苦手だ。
頭がクラクラする。


「ん、むぅ……っ」


指先ばっかりしゃぶっていたせいで掌の傷からドクドクと溢れてくる血液にキリがないと感じた俺は慌てて指から唇を離し、そのまま掌に唇を寄せた。
ちろりと舌を出し、傷口の回りに溜まった血液を舐めとる。
すでに乾燥しかけて固まっていた血も拭った。
自分でも異常な行為だとはわかっていたが、今はただ栫井の機嫌を取ることに必死だった。


「……っは、あんた旨そうに血啜るな」


こちらを見下ろしていた栫井は僅かに頬を緩め、口許に微笑を浮かべる。
そして「化け物かよ」と嘲笑った。

その言葉に顔が熱くなるのがわかった。
まるで人間のすることではないと言われているみたいで、確かにそうだなと納得してしまう自分に改めて己のみっともなさに気付いてしまい、酷く、情けない気持ちになる。
それでも俺はやめなかった。
栫井の傷口から出る血が止まるまで犬みたいに跪いて血を舐め取っていた。


そして、その日から俺たちの奇妙な関係が始まった。

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