七月下旬。
学園は長期夏季休暇に入り、普段寮生活の生徒たちも大半が実家に帰省したり旅行に行ったりと、学園内は珍しく閑散としていた。

そして、別段実家に帰る予定もなければ旅行の予定もない俺は同様学園に残っていた志摩と課題を済ませるために志摩の部屋に来ていた。
志摩のルームメイトである十勝も実家に帰省しているらしく、志摩は実質一人部屋生活を満喫しているようだ。
いつものようにクーラーの効いた部屋で他愛ない会話を交えつつ、俺と志摩は机を挟んで向かい合っていた。


「齋藤、海行かない?」

「海……?」

「そう、海だよ海。どうせ齋藤も夏休みの間帰省もしないんでしょ?ここも色々あるけど、やっぱり夏なんだから海に行かないと」


不意に、思い出したように提案する志摩は完全に課題に飽きているようだ。指でペンを回しながら、そう机に乗り出してくる。

海、という単語に無条件に胸をときめいてしまうのだから自然の力はすごいと思う。
志摩と海……。
昔から、夏休みに友達と海に行って遊んだという日焼けした同級生たちの話を聞いては密かに憧れていたこともあった。
最後に海に行ったのはいつだろうか、もうだいぶ昔……それも両親たちに連れられて親戚のプライベートビーチに付き合いで付いて行ったくらいか。


「けど、俺……水着とか持ってないよ?」

「そんなの、いつでも買いに行けるでしょ。なんなら今から行く?俺も付き合うよ」

「い、今から?!」


思わず声が裏返ってしまう。
俺の反応が癪に障ったようだ、少しだけ勘繰るような目をした志摩は「何か用事あるの?」と首を傾げる。


「べ、別にないけど……」


流石にアグレッシブ過ぎるというか……。
というか、課題はどうするんだ。


「それじゃあ決まりだね。じゃあ俺、外出届申請してくるよ」

「あっ、し、志摩……」


課題は、と言い掛けたところで言葉を飲み込んだ。
楽しそうな志摩を見るのは、嫌いではなかったし……寧ろずっと上機嫌のままでいてほしいというのも本心だった。

まあ、せっかく誘ってもらえたところに水を差すような真似はやめておくか。
俺は課題のノートを閉じ、さっさと自室から出ていく志摩の後を追いかけた。


 □ □ □ □ □


その日は結局志摩に付き合ってもらって、俺の水着を選んでもらうことになった。
学生寮付属のスポーツショップで選べばいいのではないかとも提案したのだが、「本気で言ってるの?」と志摩に呆れられ、渋々外出する形にはなる。
幸い、学園近くの複合型施設にメンズものの水着の特設コーナーが設けられていたので探す手間も省けたのだが……まさか俺は水着一着選ぶのにここまで時間がかかるとは思わなかった。
昼過ぎに出掛け、寮へと帰ってきたときはもうすっかり夜になっていた。
俺は正直どれでも良かったのだけれど、志摩が「あれはだめだ」「これも色が齋藤向けではない」とか言って色んなものを宛てがってくるのですごい時間かかった気がする。
結局全部志摩に任せきりだったが、案外ちゃんとオレの好みを把握して選んでくれた志摩に驚いた。
ついでに志摩も「齋藤の選んでたら俺も新しい水着欲しくなっちゃったな」とかいい出して、黒地に紫の柄の派手な水着を選んでいた。あの総柄は俺ならば一生履く機会はないだろう……。


というわけで、その日は真っ直ぐ帰宅した俺達は明日海に行こうと約束をして大人しく自室へと戻った。

明日は忙しくなるだろうから早く寝ようと思ったのだが、寝る前の時間に阿佐美から少しパソコンを借りて『海 泳ぎ方』『魚 危ない』などを検索していたらなかなかやめ時が見失い、結局あまり寝れなかった。

そして翌日。
少し早めに起きて準備を済ませた俺は、待ち合わせ時間通りに待ち合わせ場所のラウンジで志摩を待っていた。
志摩は少ない荷物を手に俺の前へと現れる。


「おはよう齋藤……って、すごい隈だね。もしかして寝不足?」


……何か言われるかもしれない。
そうは思っていたが、流石敏い志摩は一目で俺の寝不足に気づいたらしい。
誤魔化すのも変な話だ、俺は素直に白状することにする。


「うん……実はちょっと色々調べものしてて……ほら、海って危険も多いらしいし」


溺れない方法とか、触っちゃいけない海洋生物とかそういうものを調べていたつもりがどんどん脱線していってしまった、というのは伏せておくことにした。


「齋藤って変なところで凝り性というか。そんなに気を張り詰めるような場所でもないと思うんだけど。……まあ齋藤らしいっちゃ齋藤らしいよね」


なんでちゃんと休めって言ったのに休まなかったんだって怒られるかな、と思ったが志摩の反応は俺の想像とは反対だった。
「そんなこと気にしたこともなかった」と寧ろ呆れたように、それでもそう笑う志摩の声は柔らかくて、あ、これはいいんだ……と思いつつ俺は少し恥ずかしくなる。


「そろそろ行こうか。そうだ、お腹は減ってる?まだ大丈夫そうなら出先で適当に食べようかと思ったんだけど」

「あ……俺は大丈夫だよ」

「じゃあ決まりね」


そして、他愛ない会話を交え、俺達は学生寮を出た。
授業のない休みの日だ、朝早くから行動してる生徒は早々いない。
なんか、レアというか……この空気、嫌いじゃないな。
思いながら志摩の横を歩く。

今日は電車でいくつかの駅を通り、志摩曰く絶対に知り合いには会わないだろうという穴場の海へと向かう予定だった。
電車は朝にも関わらず人は多い。
慣れない交通機関に戸惑ったが、志摩が着いていてくれたおかげでなんとか無事電車へ乗り込むことはできた。

そして、人混みにゆすられること暫く。
目的地の駅で降りれば、正面にはすぐ海が広がっていた。



「う……海だ……」


朝早くにも関わらず、既に先客の姿があった。
サーフィンに着ている者や、遊びに来ている者、様々だがそれでもそれよりも目の前に広がる海に思わず感嘆の声を漏らしてしまう。

我ながらアホみたいな第一声だと思うが許してほしい。
「そうだね、海だよ」と笑う志摩の眼差しが生暖かくてなんとも言えない気持ちになる。


「この辺の近所の人のみぞ知る穴場……だったんだけど、やっぱりこの時期になると人は多いみたいだね」


確かに夏だから仕方ないといえば仕方ないのだが……それでも人気の海に比べればまだごった返してはないので幾分マシに思える。

正午に近づくにつれ、太陽の陽射しは強まっていた。
混む前にさっさと着替えてこようということになり、俺達は海の家の更衣室を借りることにした。

そして数分。
もたもたしながらもようやく水着へと着替えたはいいが、時間が掛かりすぎてしまった。薄手のパーカーを羽織り、忘れ物がないかの確認をして更衣室を出れば既に着替えた志摩が入口横で待っていた。
ちゃんと昨日買った水着を履いてきたようだ、様になっているのが逆にすごい。
「志摩」と声を掛ければ、携帯を弄っていた志摩はそれを仕舞い、振り返る。


「ごめん遅くなって……」

「いいよ。……それよりも、何それ?」

「え?」


それ、と俺の上半身を指差す志摩。
つられて目を向ける。
……どうやら上半身裸で人目に出ることが照れくさくて羽織ったパーカーのことを言っているようだ。


「それ暑くないの?」

「夏用だから涼しいけど……だ、駄目だった……?」

「……まあ……この場合は変に露出するよりは逆にいいのかな」


どうやら志摩はこのパーカーが気に入らなかったらしい。
不服そうではあるが、一人でなにやらブツブツと口にしては納得してる。

男子校の水泳の授業とはまた違うこの状況、女の人もいる前で脱ぐのにはやはり勇気が必要だった。
志摩は気にしてないようだが、そういうところは羨ましいと思う。


「それじゃ、泳ぐ前に海の家で軽く食べとく?」

「うん、そうだね」


海の家。
名前ばかりは知っていたが、実際に訪れることになるとは思わなかった。
更衣室の横、イメージとは少し違うお洒落なお店が佇んでいた。そこにはもう既に水着姿の人間が集まっていた。

……なんか今更緊張してきた。
俺一人だけだったらあの中に入っていくことも難しいだろう。
なんて、高鳴る胸を落ち着かせようと手を握り締めた矢先だった。伸びてきた志摩の手に手首を取られる。


「それじゃ、行こうか」


驚いて顔を上げれば、志摩はいつもと変わらない笑顔を浮かべてみせる。ごく自然な動作で掌を合わせるように握り締められ、「あの」と声が変に上ずった。


「あ、志摩……」

「なに?どうかした?」

「志摩、手……手が……」

「だって手繋がないとすぐ齋藤迷子になるでしょ?」


だから、と指を絡めてくる志摩に指の谷間をすりすりと撫でられぎょっとする。くすぐったい。とかの問題ではない。


「そ、そんなこと……」

「あるよ。……それとも、俺と手を繋ぐの嫌?」

「嫌とかじゃなくて……その、なんか目立ってる気が……」


少なくとも無人ではない今、こうして手を繋いでる人間はカップルと親子連れくらいしかないはずだ。


「皆自分たちのことで精一杯だから周りなんていちいち気にしないよ。それに、俺は別に気にならないけどね」


俺は気になるんだけど……。
言い返したいところだが、そんなこと言えば志摩が怒るのが目に浮かぶ。
けれど、流石にこれは。と一人狼狽えていると、やれやれと言わんばかりに志摩は肩を竦める。


「でも、齋藤が嫌だって言うなら……こっちきて」

「……?……っ、わ」


腕を引かれたかと思いきや、肩を掴まれ隣へと抱き寄せられる。


「手は離しておくけど……俺の視界から勝手にいなくならないでよね」


顔を上げればすぐそこには志摩の顔があって、ぎょっとする。まるで子供に対するそれのような過保護な志摩の発言に余計恥ずかしくなってきて、俺は慌てて志摩から顔を反らした。


「わ、わかった……わかったから……その……っ」

「本当に?……齋藤すーぐちょろちょろするから心配なんだよね。……それに、これから人はどんどん増えていくからね。人が多いってことはそれほど面倒の数も多いってことだよ」

「……面倒?」

「変なのに絡まれたりね」


「まあ、俺がいるからそんなことはさせないけど」そう、志摩は口元に薄く笑みを浮かべた。その目は笑っていない。

志摩は変なところで心配し過ぎだと思うのだが、俺が日和ってるのだろうか。海に対して確かに人が沢山ですごいなと思うことはあったが、凶悪事件が起こってるようには思えない。
……海初心者の俺は素直に志摩に従っておくべきなのだろうが。

なんとなく胸の奥がざわつくのを感じつつも、俺と志摩は海の家へと向かった。
もっと屋台みたいな偏見があったのだが、思っていた以上に内装もきちんとしていて、どちらかというと海沿いに立てられた簡易的な作りの料理店といった感じだ。
強烈な陽射しから逃れられたことに安堵しつつ俺たちは二人用の席へと案内される。


「……なんか、すごいね……活気溢れてるというか……」


席に座る。夏や海をモチーフに飾られてる店内もだが、日焼けした店員の笑顔が眩しすぎて直視できない。


「本当に初めて来たんだ。海自体あまり来なかったの?」

「うん……遠目に見ることはあったんだけど、小さい頃一回溺れかけて……それ以来海に近付けさせないようにされてさ」

「……ああ、齋藤のお父さんとお母さん心配したんだね。……それにしても小さい頃の齋藤か、ちょっと気になるな。写真とかないの?」

「な、ないよ……それに、そんな面白いものでもないと思うし……」

「面白いから見たいってわけじゃなくて、齋藤のことだから気になるんだよ」


相変わらず志摩はさらっとそんなことを言うのだからすごい。
小さい頃の俺を見ても何も楽しくないと思うが、確かに志摩の小さい頃が気にならないと言えば嘘になる。……志摩も同じ感じなのだろうか。

暫くもしない内に料理が運ばれてくる。
ソースの匂い。志摩が頼んだたこ焼きだ。
料理を受け取った志摩は俺の分のドリンクを振り分けてくれた。ありがとう、と言えば志摩は「どういたしまして」と笑う。


「でも溺れたってことは泳げないの?……今は大丈夫?」

「うん、最初は怖かったけど……今は流石にもう平気だよ。……浅いところなら」


そう、無意識に声がワントーン落ちてしまった。
そこで何かを察したのだろう、志摩は「なるほどね」と微かに笑う。


「志摩は泳げるの?」

「まあ人並みにはね。齋藤が溺れたときは助けるから安心してよ」

「あ、ありがとう……」


クスクスと笑う志摩に恥ずかしくなってくる。
やっぱりこの年で泳ぐのが苦手というのはあまり人に言わない方がよかったのだろうか。
早速後悔するが、志摩が楽しそうなのでまあ……いいか、という気持ちになる。


「ん……このたこ焼き美味しいよ。齋藤も食べる?」

「いいの?」

「流石に全部食べたら泳ぐとき辛くなりそうだしね」

「……ありがとう。……ん」


割り箸を使い、たこ焼きを一個もらう。
焼き立てなのかすごい熱くて、口の中の皮が焼けないように気をつけながら咀嚼した。
朝ご飯を抜いてきた腹にはソースの味がちょうど良くて、なんというか……。


「……美味しい」

「良かった。ねえ、齋藤のもちょうだいよ」

「いいよ」


俺が頼んだのはドリンクと、フライドポテトだ。
志摩はひょいっと一個口に放り込む。
そして「あ、わりと美味しい」などと失礼なことを言っていた。


 □ □ □ □ □


軽食を取り、俺達は海の家を後にする。
日陰から出た瞬間、肌を差すような直射日光に思わず顔を顰めた。

サンダルを履いてきたのはいいが、砂を踏む度に熱を感じて思わず引け腰になってしまう。


「それじゃあそろそろ……」


泳ごうか、と続けようとしたのだろう。言い掛けた志摩だったが、何かを見つけたらしい。
海の家の前、固まる志摩に「どうしたの?」と声を掛けれる。


「齋藤、ちょっと待ってて」

「え、え?」

「すぐ戻ってくるから、そこでじっとしててね!」


言うな否や、志摩は海の家の横のお店に入っていく。

……行っちゃった……。
急に一人取り残され、心細さでいっぱいになるがそう長いことにはならないだろう。
志摩に言われた通り、その場から動かずに待つこと数分。

志摩が店から出てきた。


「齋藤、お待たせ」

「志摩……って、どうしたの、それ」


両手いっぱいに抱えるのは浮き輪にウォーターガン、そして首にはゴーグル。ガチャガチャと大荷物を抱えて戻ってきた完全防備の志摩に呆気にとられる。


「レンタルしてたから取り敢えず色々借りてきたんだ。ほら、齋藤の分もあるよ」

「あ、ありがとう……」


言いながら浮き輪とウォーターガンを手渡してくれる志摩。
すごいファンシーな柄だ……子供用じゃないのか?と思ったが大きさ的に大人用で間違いない。
恥ずかしくなるが、下手に溺れるよりかはましだとありがたく頂戴する。


「準備も終わったし、早速あっちの方行こうよ。ほら、あそこなら人少なそうだし」

「そうだね」


というわけで、俺たちは比較的空いてる浅瀬へと移動する。

波の音に焼け付くほどの陽射し、遠くから聞こえてくるセミの鳴き声。
生暖かい風は暑さを掻き立てる。
ようやく海に来たという実感が湧いたような気がする。
ザブザブと浅瀬に入っていく志摩に倣い、一歩踏み出せば波に足を取られそうになる。
ヒヤリとした水の感触は思いの外気持ちよくて、恐怖心よりも『海だ』という感想が先に来た。


「それにしても、すごいね。こういう道具も貸出してるんだね……って、冷たっ!」


言い終わるよりも先に、ウォーターガンを構えた志摩は躊躇なくその引き金を引いた。すっかり油断していた俺は水を思いっきり顔面ひっかけてしまい、慌てて口の中に入った海水を拭う。


「ちょっ、志摩……!」

「ごめんごめん、試し撃ちしてみたら予想以上に勢い良くてさ」

「せめて顔は外してよ……」


というか人に試し撃ちをしないでくれ。
いいたいことは色々あるが、志摩も志摩で浮かれてるのだとしたらあまり強くは言えなかった。
一旦浮き輪を置いた俺はウォーターガンを手に取る。
子供向けの玩具にしてはしっかりとした出来だった。
上部に取り付けられたタンクに水を入れる仕組みのようだけど……。


「齋藤、補給の仕方わかる?ここをこうやって……」

「……こう?」

「そうそう、いい感じだね。これでちょっと遊んでみようよ」


上限ギリギリまで水を補給し、キャップで補給口を閉じる。俺は銃口を志摩に向け、取り敢えずそれっぽいところを触った瞬間。


「って、ちょっ、齋藤!痛い、至近距離は痛いから!」


顔は外したが、思いっきり志摩の脇腹に放出され、志摩に怒られた。……確かに思いの外威力はあるようだ。あと、志摩に仕返しができてちょっとすっきりしたというのは黙っておこう。


「っくっそ、やったな……!」

「あはは……っ、わ、ぷ……っ!待って、志摩……っ!」

「ねえ、海の中逃げるのずるくない?それなら俺だってこれあるしね」

「シュノーケルも借りてきてるの?……って、流石に水中は意味な……うわ、わ……!待って、待って、何そのリュックみたいなタンク?!……俺のと違うよね?!


人目がどうとか気にしてる暇もなかった。
久し振りに大きな声出したような気がする。結局志摩との勝負は引き分け(というよりも何を持って勝ちとするのかも決まってなかったが)ということになった。
途中水の弾丸から逃げるように海の中に飛び込んだり志摩がズルしてバカみたいにでかいタンク付きのウォーターガン持ち出したりと勝負どころではなかったのだ。

全身びしょ濡れになっても気にならなかった。
一頻り遊びまくった俺たちは一旦ウォーターガンを置いて遊泳を楽しむことにする。
のは良かったのだけれど。


志摩に借りた浮き輪の存在は大きかった。
流石に足の付かない位置まで行くと不安になったが、志摩が俺の紐を引いて陸地にまで連れて帰るという約束なので安心して波に揺らされ漂っていた。
……とはいったものの、志摩の姿が見当たらない。
『ちょっと待ってて』と言って泳いでいったきり戻ってこないし……海は気持ちいいが一人になるとどうしたらいいのかわからなくて、無意識に志摩の姿を探してしまうのだ。


「齋藤」


と、そんなときだ。いきなり海中からシュノーケル志摩が現れ、ぎょっとする。
やけに見つからないと思いきや潜っていたとは……通りで見つからないはずだ。


「志摩……一瞬誰かと思った」

「俺の顔忘れるの早すぎない?……それよりも齋藤、海の中にすごい綺麗な貝殻あったよ」

「貝殻?」

「ほら、これ」


そう、差し出してくる掌よりも大きな貝殻にそっと触れる。海水の匂い。
すごい、立派な貝殻だな。インテリアでありそうなほどの繊細な外装、そして自然に出来たであろう色に見惚れていた。
そのときだ。貝殻の中から黒光りする物体がにゅっと出てきた。


「ひいっ!!」


頭で理解するよりも体が動いていた。驚きのあまりに貝殻を落としてしまう俺に、志摩は楽しそうに声を上げて笑った。


「っ、く、くく……齋藤すごい声だね」

「志摩、知ってたよね?!」

「いやー齋藤びっくりするだろうなーって思って」

「心臓停まるかと思ったよ……!」

「ごめんごめん。……でもほら、綺麗な貝殻は見つけたよ」


本当に悪いと思ってるのかすら疑わしいが、「齋藤にあげるよ」と差し出されたそれは今度は平らな貝殻だった。
太陽の日を浴び、濡れた表層はオパールのように輝いている。

……そもそも志摩のものでもないと思うが、確かに綺麗だ。
また裏側に隠れていないだろうかと疑心暗鬼になりつつもおずおずとそれを受け取れば、そんな俺に「大丈夫だよ、中に何も入ってなかったし」と先回りして教えてくれた。


「あ……ありがとう」


そう、受け取った貝殻を指先でなぞる。つるつるしてて肌触りがいい。志摩はただ笑って俺を見ていた。
なんか……むず痒いな。
嬉しいのは嬉しいのだけれど、なんか、こういうのってこう……俺の偏見ではあるが男友達から貰うものでは無い気がする……。
なんとなく変な空気になったときだった。
空からぱらぱらと小雨が降ってくる。


「え、雨?」

「通り雨みたいだね。……強くなりそうだな」

「って、結構時間経ってたんだね。……もう夕方か」

「砂のお城作りとか、ボートも乗りたかったんだけど流石に時間が足りなかったかな。一旦戻ろうか」

「うん」


強まる雨脚。
俺は、志摩に浮き輪の紐を引っ張られて浅瀬へと戻ってくる。
周りの人たちも突然の雨にざわつきながら各々散り散りになっていた。そんな中、俺と志摩は一旦海の家へと向かうことにする。


 □ □ □ □ □


海の家。
日が暮れていたこともあってか、大半の人間はそのまま帰っていってるようだ。
レンタルした浮き輪やウォーターガンを返却し、俺と志摩は二度目の海の家で休憩していた。


「いやーたくさん遊んだあとのかき氷って最高だね」

「そうだね」


雨は案外早く止んだが、空はどことなく暗くなっている。
天気予報では降水確率はそんなに高くなかったと思うのだが、仕方ない。
かき氷宇治金時味を食べる俺の横、ブルーハワイのかき氷を食べる志摩は「見て、青くなってる?」なんて言って真っ青に染まった舌を見せてくる。


「す、すごく青くなっててなんか逆に体に悪そうだよ……」

「齋藤も緑になってる?見せて」

「ちょ……ちょっと待って……」


慌てて水でかき氷を流し込み、舌を出せば「うーん、まだ駄目だね」と志摩は微妙な反応してみせる。
駄目ってなんなんだ……。


「てか、齋藤なんか顔赤くない?もしかして焼けた?」

「……そう、かも。なかなかずっと日の下にいるってことはなかったから……」

「後でちゃんと冷やしとかないと大変だよ」

「やっぱりそうなのかな……」


なんとなく腕とか赤くなってる気はしたけど、志摩に指摘されるというのはなかなかなのかもしれない。
言われてみれば頬も熱い。ぺたぺたと顔を触っているとき、不意にテーブルに二つの影が近づく。
お店の人かな?と顔を上げた俺はそのまま硬直した。
そこにいたのは露出の高い水着を着た二人組の女の人で。


「ねえねえ、君たち高校生?二人できたの?」

「よかったら混ぜてよ、うちら暇でさ」


もしかして、これは、もしかして所謂逆ナンというやつでは。
どこに目を向ければいいのかわからず、そもそも本当に俺たちに向かって言ってるのかもわからなくて、狼狽える。



「え、あ、あの……」

「悪いけど、俺たち用事あるから」


どうしよう、と志摩に助けを求めるよりも先に、志摩が立ち上がる方が早かった。
相手の反応を見るよりも先に俺の手を掴んだ志摩は「行くよ」とだけ言い放ち、そのままさっさと店を出ていこうとする。


「あっ、ちょっ……志摩……!す、すみません……」


俺は女の人たちに頭だけ下げ、志摩のあとを追いかける。
志摩の腕を掴む力は強く、店を出ても志摩は俺を離そうとはしなかった。
もたもたとその後を追いかけようとするが、サンダルの中に砂利が入って踏んでしまう。


「し、志摩……待って……」


その痛みに思わずそう志摩に懇願すれば、志摩は足を止めた。そして、俺の前に座り込む。


「……何か踏んだの?足あげて」

「ちょっと……砂が入ったみたいで……ツ……っ」

「……砂利に混じって破片ぽいの踏んでるね。そこまで歩ける?」


そう、ベンチを指さした志摩は「無理そうなら肩貸すよ」と続ける。
どうやら足の裏を切ってしまったらしい。痛みはするが、死ぬほどではない。俺は「大丈夫」とだけ続け、ベンチへと移動する。

怒ってる……よな、やっぱり。
ベンチに腰を下ろせば、志摩は俺の横に座る。「薬を買ってくる」とか志摩は言っていたが、正直そこまで大袈裟な怪我でもない。薬はいらないけど止血するまで待っててほしいと志摩に言えば、渋々であるが志摩は俺の言うことを聞いてくれた。

……微妙な沈黙が流れる。
さっきまでの楽しい雰囲気はどこにいったのか、原因はわかっていた。さっきの女の人たちだろう。あれをきっかけに志摩の機嫌が悪くなったのは明らかだ。


「志摩……あの、さっきのは……」

「ああ、あれね。ああいうのは無視でいいんだよ。……人が齋藤と話してるときに割り込んでくるなんて、部外者のくせに図々しすぎ。齋藤もあいつらに謝る必要はないし」

「ご……ごめん」


普通、ああいうのは嬉しいものではないのだろうかと思ったが俺の感性の問題だろうか。
十勝なら大喜びして相手しそうなものだが、志摩はその逆らしい。相当頭に来てるようだ、その言葉の節々に刺を感じる。


「……もしかしてさぁ……少し残念だな、とか思ってる?」

「お、思ってないよ!……ただ、初めてだったから……びっくりして……」

「本当に?」

「本当……だよ……」


本当は勿体無い気もしたが、そんなことを言ってみろ。志摩の反応が怖くてそんなことする気にはなれなかった。

……せっかく、さっきまで機嫌良かったのに。
余程邪魔された事が不愉快だったらしい、俺にも非はあるが、それにしてもそこまで潔癖になるものなのだろうか。


「なんだ、結局齋藤も男なんだね。……水着にしか目え行ってなかったし。顔ブスなのも全然気にせずデレデレしてさぁ……」

「そ、そんなことは……」

「あるでしょ。……誤魔化すのも下手すぎだし、わざとなの?」


言い過ぎだと思うが、ここで彼女たちを養護したら火に油だ。俺は何も言わずにうつむいた。
どうしたら、いいだろうか。志摩に機嫌を直してほしいという気持ちは大いにあった。
けれど。


「……そろそろ帰ろうか」


そう、ベンチから立ち上がる志摩。
あ、と思ったときには体が勝手に動いていた。俺は志摩の腕を掴み、引き止める。
細められた目がこちらを向いた。


「待って……志摩……っ」

「……何」

「あの、俺、やりたいことあるんだけど……」


 □ □ □ □ □


気付けば日はとっぷりと暮れ、既に辺りは暗くなっていた。


「やっぱりこの辺りは日が落ちると真っ暗になるね。……そっち大丈夫?」

「う、うん……志摩、バケツってここでいいのかな」

「うん、そこに置いて」


言われたとおりに水を汲んだバケツを砂浜の上に置いた。


――最後に、花火をしたい。

そうワガママを言ったのは俺だった。
てっきりきっぱり断られると思ったのだが、志摩は仕方なしといった様子で俺に付き合ってくれる。
水着から着替え、近くの売店で花火を買い込んだ俺達はこうして再び浜辺へと戻ってきていたのだが……夜の海がここまで暗くなるとは思わなかった。


「それにしても、齋藤からこういうのやりたいって言い出すの珍しいよね。……俺のご機嫌取りのつもり?」


テキパキと花火の準備をしながら、志摩は自嘲気味に尋ねてくる。
分かっててわざわざそんなことを聞いてくるのだからいい性格をしていると思う。


「……それもあるけど、俺がしたいっていうのは本当だよ。……小さい頃から火遊びは危ないって言われてこういうのはやったことなかったんだ」

「本当、可愛がられてきたんだね」


棘がある言い方ではあるが、悪い気はしなかった。
……少しは機嫌良くなってるのだろうか、表情がコロコロ変わる志摩はわかりにくいけど、志摩もこうして楽しんでくれようとしてるのだと思うと嬉しい。


「火、貸して。箱入り息子なら付け方わからないでしょ」

「う……お願い」


屈み込んだ志摩は砂の上にバケツキャンドルを設置する。花火と一緒に買ってきたライターを渡せば、志摩はそれに着火する。
瞬間、暗かったそこが一気に明るくなった。


「わぁ……」

「齋藤、何から何まで感動しそうだね」

「だ、だって……」

「分かってるよ。俺も、齋藤が楽しそうにしてるの見るのは嫌いじゃないし……寧ろ楽しいしね」


キャンドルに照らされた志摩の横顔が笑ってるのを見て、胸の蟠りがすっと解けていくのを感じた。
……俺もだよ、という言葉は喉まで出かかって飲み込む。
俺は、志摩みたいにうまい言葉を口にすることは出来ない。けれど、同じことを考えてることがここまで嬉しいとは思わなかった。


「……ほら、齋藤。火つけてみなよ」


ぼんやりと揺れるキャンドルの火を眺めてると、不意に袋から花火を取り出した志摩はそれを俺に手渡した。
俺はそれを受け取る。
棒状のそれのどちらが火を付ける部分なのかもわからず、持ち手を何度も変えたりしてると伸びてきた志摩の手に、手を重ねられる。


「……っ、し、志摩……」

「違う、ここを千切って火をつけるんだよ」

「えと……こう……?」


促されるがまま、志摩の言われた通りに火に近付ける。
瞬間、先端部から火花が勢いよく弾け出す。


「っわ……わ……わ、わ……!」

「っふ、くく……齋藤すごい腰引けてるよ」

「志摩、あ、勢いすごいよこれ……!火事にならない……?」

「燃えるものに向けなきゃならないよ」


狼狽える俺を横目に、志摩は花火を手に取り着火する。
すると俺のもの同様、明るい色の火花が勢いよく噴き出した。


「齋藤見て、こっちはピンク色だよ」

「すごい、本当に花火だっ」

「感動するところそこなんだ」


独特の硝煙が広がる。煙とともに色鮮やかな火花が辺りを照らす。「動かしてみなよ」と志摩に言われ、恐る恐る揺らしてみれば鮮やかな光が目に焼き付いて不思議なことになっていた。
と、夢中になってるのも束の間。
次第に火花は萎んでいき、とうとう音もなく消える。


「……ぁ……」

「ほら、齋藤二本目。……まだたくさん買ってきたからどんどんやらないと終電間に合わないよ」

「あ、う、うん……!」


そうだ、まだ沢山残ってるのだ。
分かっていても花火が一本尽きるごとになんとなく物悲しさを覚えるのだから不思議なものだと思う。
俺は志摩から受け取った二本目に火を付ける。
すると、先程よりも勢いがある、大きな火花が噴き出した。


「すごい……さっきと違う形だ」

「そりゃあ種類によって違うからね。……ほら、これとか」


言いながら、丸い形の花火を手にした志摩は着火し、それを砂浜へと投げる。瞬間、その独特の形状の花火は激しく弾けながら足下を這いずり回った。


「ひっ!わ、危な、志摩、危ないって!」

「大丈夫だから、そんなに焦らなくても。……あーあ、終わっちゃった。俺、これネズミ花火好きなんだけどね。短いのが残念なんだよね」

「ネズミ花火って言うんだ……」


市販の花火だけでも本当にいろいろな花火があるんだ……。
沈黙した花火の残骸を拾い上げ、志摩は予め用意していた水バケツの中に放り投げる。
ネズミ花火に気を取られてる間に俺の持っていた花火も寿命を迎えていたようだ。俺はそれをバケツに入れる。


「齋藤は……これとか好きそうだよね」

「あ……それ……」

「線香花火。……くらいは知ってるかな?」


志摩に尋ねられ、何度も頷き返す。
映像作品でよく見かけていたが、実際に見るのは初めてだった。


「本当は最後にとっとくかなって思ったけど……まあいいや、一緒にやろっか」


二本の線香花火を手にした志摩は、その片割れを俺に渡した。
他の花火に比べると細く、頼りなさげなものだった。
ぺたぺた触ってると、俺が迷ってるのかと思ったようだ、「ここに火を付けるんだよ」と志摩に教えてもらう。


「あと火をつけたらあまり動かしちゃ駄目だよ。すぐ落ちるから」

「う、うん……」


胸が高鳴る。
他の花火も楽しいし、どんな火花が出るのだろうかとわくわくさせてくれるが……それらのとはまた別の高鳴りを覚えるのだ。
二人並んでキャンドルの前に座り込む。
つけなよ、と志摩に視線で促され、俺はそっと志摩に教わった通りに火を付けた。


「……っ、わ……」


思わず、声が漏れる。
想像していたよりも小さな火花だったがそれでも一生懸命弾けるそれを見て、つい頬が緩んだ。


「か……可愛い……」

「……そうだね」


口に出したつもりはなかったが、志摩の返答に思わず呟いてしまっていたことに気づき、恥ずかしくなる。
それでも、志摩は茶化さずにただ静かに聞いてくれた。

静かな夜の海。
聞こえてくる波の音に混ざって、ぱちぱちと弾ける線香花火を見つめるその時間は永遠のようにすら感じた。
けれど、勿論花火には寿命があるわけで。


「……ぁ」


火は弱まり、とうとうぽとりとその頭は地面へと落ちた。
瞬間、現実に引き戻されるような錯覚を覚える。


「……線香花火は地味だけど、その分目が離せなくなるから不思議だよね」

「そうだね。……けど、やっぱり俺は線香花火……好きだな」


志摩は何も言わずに笑った。

それからも、二人きりの花火大会は続いた。
楽しいし、視覚も彩られてるはずなのに、どこか寂しく思うのはやはり終わりがくるとわかっていたからかもしれない。

夏休みとはいえ、無断外泊するわけにはいかない。
花火やり尽くした俺たちは片付けをし、それから電車へと乗り込んだ。

流石に終電ギリギリ、というわけではないが学園の最寄り駅に到着した頃には既に消灯時間前になっていた。

……かなり遅くなってしまった。
途中つい睡魔に負けて船漕いでしまっていたが、目的の駅につくと志摩に起こしてもらいなんとか下車する。

全身に残る疲労感、日焼けで火照った体。
けれど、どちらも心地よくすらあった。
まだ海の潮と花火の硝煙の匂いが残っているような、夢心地のまま学生寮へと帰っていく。


学生寮、三階。


「今日はたくさん遊んだね。……齋藤明日昼過ぎまでぐっすり眠ってるんじゃないの?」

「……かも知れない。今日はすぐ寝れそう」


瞼裏に焼き付いた色とりどりの花火の色は夢にまで出てきそうなくらいだ。
俺の部屋まで送ってくれた志摩は、欠伸を小さく噛みしめる。そして、笑った。


「そうだね、ゆっくり休みなよ。……俺も、久しぶりに齋藤独り占めできて嬉しかったよ。途中で邪魔は入ったけど」

「ひ、独り占めって……」

「違った?」

「……違、わないかもしれないけど……」


なんだか語弊がある気がしてならない。
……が、楽しそうな志摩を見てると何も言えなくなるからずるい。
口ごもる俺に、志摩はふっと笑う。
そして、志摩が近づいてきたと思いきや額になにかが触れた。


「おやすみ、齋藤。……また明日」


ちゅ、と音を立て、唇を離した志摩は笑った。
俺が固まっていると、構わずそのまま踵を返して自室へと帰っていく。

……最後の最後で、志摩は、いつもずるい。
これでは逆に寝れなくなるだろう。
別の火照りを帯びる額を拭いながら、俺は逃げるように自室へと帰った。

幸い阿佐美は帰省中のため顔を合わせずに済んだ。
その日は寝れないかもしれないと思ったが、サイドボードに置いた志摩から貰った貝殻からする海の香りが案外安眠効果を齎してくれたらしい。改めてシャワー浴びてベッドに潜れば、その日は泥のように眠りこけることになる。


 ■ ■ ■ ■ ■


「……」


齋藤は、本当に何も知らない。何も見たことない。知識だけ取り入れてても、実際は全てが手探りで、色んなものを見てはその目を輝かせるのを見て『もっと色んなことを教えたい』『一緒に見ていきたい』そう思ってしまう。

庇護欲、とはまた違う。
なんだろうか、齋藤の嬉しそうな顔を見てると自分でもよくわからない感情に胸が占められるのだ。


『志摩、見て、すごい……きれいだよ』


普段内気であまりはしゃがない齋藤がそう屈託なく笑いかけてきた瞬間、何も考えられなくなる。
自分でも呆れる。けれど、目を閉じても齋藤の笑顔が反芻されては眠りにつくどころか頭が冴えてしまうのだ。

……本当、あいつが居なくてよかった。
帰省中の同室者を思い出す。あいつがいたらこうして思い出に耽ることもできやしない。

……齋藤、俺は、もっと齋藤を色んなところに連れていきたいし、色んな齋藤を見たい。誰にも見せたことのない表情も、全部俺だけに見せてほしい。齋藤の初めてになりたい。
……齋藤。

どんどん自分が欲深くなっていく。
齋藤といると、調子が狂う。最初はただの時間潰しになればいいと思ったのに、いつからだろうか。いつの間にか全部が齋藤に繋がっていた。
齋藤も俺と同じように俺のことでいっぱいになって俺のことしか考えられなくなったらどれほどいいのだろうか。

開きっぱなしの窓から生ぬるい風が吹き込む。
今日一日のことを思い返してる内にいつの間にか窓の外は明るくなっていた。


夏のまやかし。


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