七月下旬。肌に張り付く生暖かい夜の風が心地よくすらあった。
慣れない浴衣は足元が酷く心許ない。けれど、同じ浴衣姿の会長を見ると、気にならなくなる。
それにしても。と、隣を歩く会長を盗み見る。似合っている。背筋がピンと伸びている会長だからか、いつもよりも凛としていて、酷く落ち着かない気分になった。
それに比べて俺はどちらかというと着られてる感強いし、おまけに自分で着替えることも出来ずに阿佐美の手を煩わせてしまったが……。
それでも、お揃いみたいで少し嬉しいなんて思うのは現金だろうか。
「随分と人が多いな」
今回の夏祭りの会場となる神社前。
続く道から出店は立ち並び、紅白の提灯が辺りを照らす。
出店には既にたくさんの人間が集まっていた。
「……そう、ですね」
「はぐれないように気をつけてくれ」
「あ、は、はい……」
確かに、昼間とは違うしこの人混みだ。
一度離れたら再会は大変だろう。
「……いや、違うか」
ちゃんと携帯持ってきてたよな、と手持ちを確認したときだった。そうつぶやいた会長は、俺の手を取る。ひやりとした、固い掌の感触。驚いて顔を上げた。
「……っ、か、いちょ……」
「行くぞ。……まずは腹拵えからするか。君も、晩飯はまだなんだろう」
「は、はい……」
会長は、あくまでいつも通りだった。
手を繋いでる、というにはあまりにも義務的で、それにこの人混みの中では皆が皆俺たちを見ていない。各々が其々祭りを楽しんでる。その陰で、こうして堂々と手をつなぐのは、やっぱり人目がなくても緊張した。
緩やかに脈が加速する。
手、汗でベタベタしてないだろうか。不安になったけど、会長の手は緩まなかった。
人混みを避けるようにして歩く。人の声が、音楽が、やけに遠く聞こえた。たくさん人がいるのに、不思議だ。まるで俺と会長しかいないようにすら思えるのだ。
これが、祭りの効力ということか。
「しかし、人ばかりだな」
「花火もあるとなれば、やっぱり違いますね」
そう、今夜は夏祭りだけではない。近所の海では花火も打ち上げられるのだ。それは、この神社からでも見ることが出来る。それを目的にやってきた人間も少なくないはずだ。
そして、俺達もその中の一人だった。
『君は……花火は好きか?』
今朝、たまたま居合わせた会長と食堂でテーブルを共にしたとき、会長はそんなことを俺に聞いてきた。
そして、現在に至るわけだけれども。
「……迂闊だったな。……齋藤君はあまり人混みが好きな方ではないだろう?」
途中、屋台でカキ氷に飲み物にクレープにりんご飴にと食料を調達し、俺たちは神社から離れた川辺を歩いていた。花火を見るならこの辺りがいい、と会長が教えてくれたのだ。
穴場なのか、人気はあまりない。ベンチに腰を据え、俺と会長は花火が上がるのを待っていた。
会長がそんなことを口にしたのは、会長が何口目かのカキ氷を食べたときだ。
「や、あの、俺は……別に……大丈夫です……その、会長もいますので……」
「……そうか、ならいいが」
そう、会長は安堵したように小さく笑う。
それから間もなく、自分がなかなか図々しいことを言ってしまったと気づいた。
けれど、会長は気にしていないようだ。
「……」
「……」
微妙な沈黙が流れる。
りんご飴を舐めるが、砂糖の味しかしない。もしかしてこういうものなのだろうか。思いながら、俺は、この沈黙をどうにかしようと頭を動かした。
そして、不意に頭に浮かんだ疑問を尋ねる。
「あの……今日は、どうして夏祭りに誘ってくださったんですか?会長も、あまり人混みとか得意じゃないって聞いたんですけど……」
「……どうしてだろうな」
「え?」
「なんとなく、今年は行きたくなったんだ」
「いつも遠くから聞こえてくる喧騒や祭囃子は嫌いだったんだが、いざ渦中にいるとあまり気にならないものだな」そう、独り言のように口にする会長に俺は「そうですね」としか言えなくなる。
それは、どういう意味なのだろうか。けれど、会長がそう思って、その末に俺を誘ってくれたのなら……それは光栄なことだと思う。
それが、自惚れだとしても。
「俺、こういう風に誰かと夏祭りに来るのって初めてなんです」
「そうなのか?」
「はい。……いつも、花火は家から見えていたので庭に出て眺めてました。夏祭りとかも、夜だし、暗くて危ないからって許してもらえなくて……だから、初めてなんです、こういう風に夏祭りに来るのって」
「……」
「ありがとうございました、会長。……俺のことを誘っていただいて。……多分、一人だったら来ることはなかったと思います」
「……お礼を言うのにはまだ早いんじゃないか?」
そう、会長が口にしたとそれは同時だった。
ドン、と空の上から何かが破裂するような音とともに黒かった空が一瞬にして色づく。思わず立ち上がった。
「っ、わ……」
「ほう、やはりここはよく見えるな」
水面に反射し、キラキラと光る花火に思わず感嘆の声が漏れた。
「す、すごい……」
「……音が煩いな。……おい、大丈夫か?」
「……」
一発目の花火が消える前に、二発目が打ち上がる。遠くで気が抜けるような音がして、続いて大きな花火が空に広がった。それからすぐに三発目、四発目と放たれ、あれだけ黒に塗り潰されていた空は瞬く間に光に塗り潰される。
映像で見るのとは違う。
花火が広がると同時に、足元から体の芯へと響く重低音。臨場感。視界いっぱいに広がる光の海に、言葉を失って、ただ呆然と見上げていた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
次々に打ち上げられる色とりどりの夜空の華を視界に収めようとすることに夢中になっていた。
周りの声も聞こえなくなって、大きな花火が打ち上がったとき。辺りで歓声が聞こえた。心臓が、自分のものではないみたいにドキドキした。
「……あの、会長……」
すごいですね、と、隣にいた会長を振り返ったときだ。
視界が、陰る。
目の前に会長の顔が近づいたとき。
「……ッ、え……」
ドンと大きな一発が打ち上がる。真っ白に塗り潰された夜の空。唇の感触は、確かに本物で。
「かい……ちょ……」
人が、なんて頭は動かなかった。皆、空の花火を見上げていた。俺たちに目を向けてる人間なんて、どこにもいない。
「……綺麗だな」
そう、口にした会長の目には花火は映っていない。
微笑む会長の声は、花火の音に掻き消される。けれど、唇の感触も、熱までも、掻き消されることはなかった。
「っ、な、に、を」
花火の音が、光が、眩しくて。
塗りつぶされる。陰になる会長の表情。けれど、笑っているのはなんとなくわかった。
「……ッ」
会長。会長、どうして。混乱する。
けれど、二度目、顎を掴まれ顔を持ち上げられたとき、俺は、抵抗することができなかった。寧ろ、拒むことすらできなくて。近付いてくる会長に、俺は、ぎゅっと目を瞑る。
その時だ。
「たーーまやーーーー!!!」
聞き覚えのある声が、どこからか聞こえてきた。
「うっせーぞ十勝!耳元で大きな声出すんじゃねえ!!」
「えーっ?五味さんなんか言いましたー?!」
「その声がうるせえっつってんだよ!!」
「やべー!!五味さんの頭花火で光ってる!!やべー!!」
「クッ……」
橋の傍、ギャーギャーと騒ぐ二人組には見覚えがあった。
スキンヘッドの大男と、派手な黒髪の男。間違いない、五味と十勝だ。
「……齋藤君、場所を変えるか」
「えっ、あ、はい……!」
咄嗟に手を握られ驚いたが、ドキドキしてる場合ではなかった。
五味と十勝から逃げるように神社へと戻ってきたときだ。
屋台の傍。
「おい灘、まだ食うのかよ……お前の胃はどうなってんだよ」
「栫井君も食べたらどうですか。美味しいですよ、このエメラルドスプラッシュマウンテン宇治抹茶わらび餅乗せカキ氷」
「詰め込みすぎだろ……」
「……」
「か、栫井と灘君……?」
何故ここに栫井と灘までいるのだ。
あと灘が食べてる山盛りのカキ氷はあれは食べ終わる前に溶けないのだろうか、と心配していたとき。
「くっ……」
「あっ、か、会長……!」
走り出す会長に遅れを取られないようにと、裏側に当たる屋台通りまで移動してきたとき。
「どうですかそこのイケメンなお兄さん、お姉さん方、この極太チョコバナナ美味しいよー!」
「え、縁先輩……?!」
チョコバナナの屋台で客寄せやってる青い髪の男は紛れもない、縁方人だ。
何やってるんだあの人、しかも店側かよ。……ということは、まさか。と、赤髪のあの男の顔がよぎり冷や汗が滲む。そして。
「はぁ?このクジが当たり入ってないだって?自分が引き当てられないのを言い訳して責任転嫁なんて恥ずかしくないの?ってか業務営業妨害でしょこれ、警察呼ぶけどいいですよね」
し、志摩……?!なんでくじ屋してるんだ?!しかもなんか客に絡まれてる?!
なんなんだ、このメンツの揃い具合は。うちの学校が何か催してるのか、分からないが見つかったら面倒なことこの上ない。それは会長も思ったようだ。
「行くぞ……ッ」
「は、はい……!」
浴衣着て会長と夏祭りに来てることが知られたら後が恐ろしい。俺は会長について逃げ回った。
そして、ようやく辿り着いたのは神社裏だ。
その岩場に腰を降ろし、ようやく息をつく。
「……生きた心地がしないな」
「そ、それにしても……今日はいろんな人と会いますね……やっぱり皆花火見に来てるんでしょうか……」
「……悪い」
「え?」
「……君の、浴衣姿の君を、他のやつらには見せたくなかったんだ」
「……ぁ、えと……ありがとう、ございます……」
俺も、なんて言えなかった。
けれど、少しでも同じ気持ちでいたのは嬉しい。
「……」
「……」
「……ぁ……っ」
段違いの破裂音とともに一斉に複数の花火が空を塗り潰していく。息をつく暇もなく、連発で打ち上がり、全てを振り絞るかのように色を塗り潰す花火。その最後に大輪の華がドンと大きく空を彩った時、花火が終わる。
「……今ので最後だったか」
「……みたい、ですね……」
何もかも忘れ、無心になる。見惚ける。けれど、それも終わった。煙は霧散し、やがて、いつもと変わらない夜空がそこに広がっていた。
静寂。けれど、それは気まずはない。寧ろ一抹の心地よさすら覚えるほどだった。けれど、会長はそうではないようだ。
「悪い。……バタバタして、ゆっくり見られなかったな」
「……また、来年……。来年が、ありますので……」
「……そうだな」
悪いと思ってるのか、会長は元気がない。
確かに、全部見られたらと思ったが、それでも、会長と手を繋いでいた時間は……幸せだった。
「あの……会長、来年も、よかったら一緒に……」
「一緒に、見たいです」俺は、会長の手の上に自分の掌を重ねる。緊張する。けれど、その言葉は思ったよりもすんなりと俺の口から出た。
何事かと目を丸くしていた会長だったが、やがて、ふ、と表情を和らげる。
「……そうだな、また、見に来よう。……今度はもっと静かに、ゆっくり見ることができる場所を探しておかなければならないな」
俺は「はい」と、会長の手を強く握り締める。
来年のことなんか分からない。
けれど、会長が卒業して、俺が三年になった未来。
あわよくば、その未来では、堂々と二人で花火を見れたらいいな、なんて考えてしまうのは我儘なのだろうか。
俺にはよく分からない。
瞼裏の極彩色。
←前 次→