何してても満たされることはなかった。
穴の空いたバケツに水を注がれてこぼれて溢れてその穴を塞ごうとすればするほど穴は大きくなり、両手では覆えなくなる。どんどん溢れていく水を掻き集めることも叶わない。周りの子供たちはなみなみと水が注がれた綺麗な容器を抱えては笑ってる。俺のこれは、なんなのだろうか。その内、水すら注がれなくなった。壊れた使い物にならないバケツは役目を果たすことすらない。
代わりのものを用意しようとしても、水はない。だから、自分で必死に探した。けれど、どの代用品を使おうが、満たされることはなかった。

何をしても無意味だとわかっていた。何をしても満たされることはなかった。一時的にいっぱい注げたように見えても、すぐにそれはすり抜けていく。


「本当、馬鹿みたいだ」


久し振りに兄から連絡があったのだ。
最後にあったときはまだ俺が中等部に通っていたときだったと思う。音大に通いながらも指揮者として活躍する兄は卒業してから本格的に海外で活動するようになる。それから暫くは会ってなかったのだが、たまたま次の公演が日本であるということで実家に顔を出していたらしい。

俺は、兄が嫌いだった。虫唾が走る。祖父からも可愛がられ、両親からの寵愛も受け、俺の持っていないものも全部持っている兄が。
そしてそれを当たり前だと思っている兄が。俺のことを虫けらかなにかのように見る兄が。

兄からの連絡を受け取ったのは俺の専属の弁護士だ。弁護士が預かってきた保釈金で留置場から出たときだ。弁護士の携帯に兄から連絡が入ったのだ。『方人を呼べ』と。

小さい頃、俺は兄が怖かった。
冷たくて、偉そうで、俺を何やっても駄目なやつだと蔑んで笑う。だからあいつが寮生活になったときは安心していたのだが、それでも俺が今になってあいつからの誘いに乗ったのは昔とは違うと自分で確認したかったからだ。
幼い頃の俺は、逃げ場を探すので精一杯だった。自分が劣ってるのだと、欠落品だと認めれなくて、周りから逃げていた。けど、元より生まれ持っていたものが違う、それは努力で埋まる差ではないと受け入れた今、兄を受けいられるような気がした。だから俺は、兄に呼び出された店へと向かった。

全室個室の料亭のとある部屋に兄はいた。
「久し振りだな」という挨拶もない、俺の姿を見たあいつは疎ましそうに眉根を寄せ、そして息を吐くのだ。


「また馬鹿みたいなことしてるのか。これ以上母さんたちに迷惑を掛けるのをやめろ」

「馬鹿みたいなことって?」

「その髪も、今回のこともだ。お前みたいなやつが弟というだけで俺の評価も下がる。迷惑なんだよ、母さんたちに何したか知らんが、今回だって保釈金など払う必要もなかったはずだ」

「待って待って、久し振りに会ったのにそんな言い方はないじゃん。それに、俺だって何も言ってないんだよ?勝手にあっちが金用意してくれただけだしね」

「どの口で……俺がいない間随分と好き勝手しておいてよく言う、面汚しが」

「はは、悲しいなぁ」


不快、不快。何一つ変わってない。傲慢。自分が一番だと思ってる。ああ、不愉快だ。頭の中で針の刻む音が響く。息を吐き、堪えろ。殺してやりたい。二度と指揮棒を握れないようにその指を全部。腹の中で爆発する。堪えろ。


「……それで、わざわざそんなこと言うためにこんないい店取ってくれたわけ?」

「勘違いするな。このあと別室で知り合いと会う予定になってる。お前は、そのついてだ」

「…………へえ?」


そして、目の前のテーブルの上に投げつけるように出されるそれは厚みのある封筒。顎でしゃくる兄に、俺はそれに手を伸ばした。中には、札束が入ってる。


「なにこれ、お年玉には早すぎんじゃないの?」

「手切れ金だ」

「は?」

「お前には学園卒業したらうちの戸籍から外れてもらう。二度と家に立ち入ることも許さない。住む場所くらいその金あれば探せるだろ」

「…………」

「この書類にサインしろ。お前とは切らせてもらう。俺だけじゃない、お祖父様、母さん、父さん……全員だ。
金輪際俺の家族に近付くな」


 ◆ ◆ ◆


笑えるだろ。本当、家族だとか、なんだとか言ってこんな紙切れ一枚で縁が切れるのだ。本当、傑作だ。わざわざ海外から兄貴呼んできてこれだ、本当。アホらしい。


「吐き気がするよなぁ、兄さん」


ガソリンで浸した札束を兄貴の口に捩じ込む。潰れた顔では見開いてんのかわからないが、もがもがとなにか言ってる。


「知ってた?俺、あんたに憧れてたんだ。あんたの演奏が好きで好きで……死ぬほど嫌いだった」

「ん゛、ぐ」


兄のスーツから取り出したシガレットケースを手に取れば、兄の目の色が変わる。そこから取り出した一本のタバコを咥えた。


「でももう俺たちは家族じゃないんだし、この金だって俺の好きに使えって言ったのは兄さんだもんな。なら、お言葉に甘えさせてもらうよ」


ジッポライターで着火したタバコ。最後の餞別だ。俺はそれを兄の口に放り込んだ。


それから、俺はその場を後にする。後方から聞こえてくる悲鳴と火が燃えるような音、夜の街は紅く照らされている。生温い風がやけに肌に絡み付いてきた。
近付いてくるサイレンの音を聞きながら、俺はシガレットケースから取り出したタバコを咥え、火を着けた。広がる苦味に、「マズ」と思わず呟く。

何かが変わるのだろうかと思ったが、実際はどうだ。何も変わらない。あいつがいなくなったところで、何も満たされないのだ。
もう、兄がどんな顔をしていたのかすら覚えていない。スーツの色も、なにも。

どこからか聞こえてくるのは懐かしい曲。……ノクターン嬰ハ短調『遺作』――まだ俺が幼い頃、兄がピアノで弾いてくれたのを思い出す。あれが、最初で最後の兄との二重奏だった。ろくな旋律にすらなっていない拙い演奏に兄は合わせてくれた。俺はそれがすごく嬉しくて、そのあと何度も練習しては兄に二重奏を強請ろうとしていた。
けれど、俺と遊んでるのを知った母親が兄を呼び出し叱っていた。その日からだ、兄が、俺の知ってる兄ではなくなったのは。

やはり、音楽は嫌いだ。余計なことまで思い出してしまう。死に顔すら覚えてないのにだ。我ながら滑稽だ。

兄から貰った手切れ金。兄は好きに使えといった。ならば、と俺は駅前の楽器屋に足を踏み入れた。適当なヴァイオリンを買って、ケースを手に店を出る。そして、俺は電話を掛けた。


「なあ、伊織。今時間大丈夫か?……ああ、ちょっと付き合ってほしいことがあるんだ。お前にしか頼めないこと」


何年ぶりか、下手したら十年は経ってるのではないだろうかと思う。上手くできる自信もない。けれど、これしかない。俺がしたいこと。最後に、自分が何を感じるのか。何がしたいのか。……その結果、どうなるのかが知りたい。好奇心だった。

伊織と待ち合わせ場所へと向かう。
足がなかったのでタクシーに乗って運んでもらった。お釣りを数えるのも面倒で、札を置いて車を降り、俺はその店に入った。そして、俺を出迎えたのは。


「……なあ、遅すぎんだよ」


伊織と、その周りには警察官。全員、銃口を俺に向けている。ああ、とすぐに察した。一般客の姿は見当たらない。
「手を挙げろ、持っているものを床に置け」なんて、必死な顔して叫ぶ警官がおかしくて、爆弾でもなけりゃナイフでもない、ただ弦楽器が入ってるだけなのにこんなにびびってんだ。おかしいよな。つい笑ってしまいながら、俺はケースを床に置き、手を挙げた。


「遅すぎんだよ、お前は」

「だよなぁ、お前は五年前からずっと誘ってくれてたんだもんな」


「馬鹿が」と伊織が吐き捨てた声は警察官たちの声に掻き消された。抵抗しないってのに取り押さえられる。あいつは最後まで憐れむような目で俺を見ていた。


「二重奏はお預けだな」


数年は、難しそうだな。という俺はあいつに届いたかは知らない。けど、まだ自分にもやりたいことができた。
それだけで十分だ。


 【おしまい】

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