「齋藤」


名前を呼ばれる。
耳元を擽る吐息に、体が震える。
嫌だ、声を出さないでくれ。懇願する代わりに首を横に触れば、志摩が笑う気配がした。


「……齋藤」


耳朶を甘く噛まれる。汗が滲む体に躊躇いなく触れる志摩の指先は優しく、時折、徒に腹部の筋をなぞった。
俺は、それに応えることも、動くことができなかった。出来る訳がない。そんなことでもしてみろ、全てが終わる。

唇を噛み締め、息を殺す。全神経が、触れる志摩の指先に集中する。遠くから聞こえてくるクラスメートたちの声に時折体が反応した。
噎せ返るほどの熱気を帯びた体育館倉庫の中、俺は、志摩に背後から抱き締められていた。

どうしてこうなったのか、思い出せない。多分、この暑さのせいもあるのかもしれない。
備品を取りに来ただけなのに、気付けば扉が閉まっていて。誰かが来たのかと思って振り返れば、目の前には志摩がいて、それで――。


「っ、ふ、ぅ……ッ」


耳朶、その溝をなぞるように這わされる舌に思考回路が停止する。すぐ傍から聞こえてくる濡れた音に、脳味噌ごと掻き混ざれるような錯覚すら覚えた。嫌だ、と体を捻る。志摩の腕から逃げ出そうとするけれども、がっしりと腰を抱き締める志摩の腕はちょっとやそっとじゃ外れない。
それどころか、耳の穴の中まで舌を這わせようとする志摩に体が強張った。
あまりのその感触の気持ち悪さに声が漏れそうになり、ぐっと堪える。背骨ごとどろどろに溶かされるような、感じたことのない感覚に急激に不安になる。それでも、志摩は躊躇わない。濡れた音が、唾液の感触が、頭の中を直接犯されるような熱に、堪らず息を吐く。項垂れる。
左耳をそっと摘まれれば、体が恐ろしいほど反応した。舌とは違う、濡れていない、それなのに優しく指の腹ですりすりと耳朶を愛撫されれば、ただの感覚器のはずなのにまるで性器でも触られてるかのような錯覚に陥るのだから甚だおかしい。


「っ、や、め……ッ」


扉を隔てて聞こえる人の声も、バッシュの音も、掻き消される。志摩の息遣いに、濡れた濁音に、全部。膜を直接揺らすようなその近さに、耐えられなかった。力を振り絞り、志摩の腕を掴む。
それに応えるかのように、志摩は、生々しい音を立て舌を引き抜いた。
次の瞬間。


「ッ、あ゛ぁ」


ズッ、と音を立て、唾液を啜られる。背筋が凍るような、内側から這いずるような得体の知れないその気持ち悪さにたまらず声が洩れてしまった。
唾液を飲み込む志摩に、俺はただ信じられないという気持ちでいっぱいだった。息を整える。恥ずかしい場所を触られてるわけではないはずなのに、熱に、浮かされる。視界が滲む。呼吸が絡む。何も考えられない。四肢から力が抜け落ちそうになったとき、志摩に抱き起こされた。
呆然としていた俺は対応に遅れてしまい、呆気なくその唇を重ねられた。獣のように、呼吸を浅く繰り返すことしかできない俺の口から志摩は躊躇いもなく酸素も、水分も、何もかもを奪う。
汗で濡れた皮膚が触れ合おうがお構いなしに、体を密着させ、更に深く唇を重ねてくる志摩。躊躇のない舌先。ただでさえ思考困難な状況下、俺は、ただ受け入れる体制になってしまう。突き飛ばさなくては、誰かが来たらどうしよう、そんなことを考えては、志摩の舌に咥内を舐られ白く霧散した。


「……今度は齋藤からキスして?」


「舌、絡めるやつ」と、志摩は笑う。酷く久し振りに志摩の声を聞いた気持ちだった。
何を言ってるのだろうか、この男は。俺が、そんなことをすると思ってるのだろうか。だとしたら、少しでもそれに従う男と見られたのなら、情けないことこの上ない。
そう思う反面、無意識に口を開きかけていた自分に戦慄する。空気に、熱に、酔いそうになる。寸でのところでそれに気付いたのは、遠くから聞こえてきたホイッスルの音があったからだ。
二人きりの世界ではない。ここは、いつ誰が来てもおかしくない共有の空間、体育館倉庫だ。

できない、と口にする代わりに首を横に振ったとき。
志摩の表情から笑みが消える。
そして、濡れた唇に指を這わされ、ぐっと口を開かされた。


「早くして」


目が笑っていない。背筋が、込み上げていた熱が急激に冷えるようだった。恐ろしくなって、俺はそれでもできないと首を横に触れば、今度は胸倉を掴まれ、ぐっと顔を寄せられる。少しでも顔を動かせば、キスが出来るような距離なのに志摩はそれをしない。
コロコロと表情が変わる志摩に今更困惑などしないが、それでも躊躇ってると、腰に回されていた手にいきなり股の間に手を、指先を差し込まれる。ジャージ越し。股間を思いっきり掴まれ、目を見開く。汗がドッと滲んだ。

ここで、最後までしてもいいの?
そう、志摩の唇は確かに動いた。本気だ。本気で、志摩は最後まで出来ると思っている。指先に篭もる力に本気を感じ、俺は、それ以上強く出ることはできなかった。圧倒的に不利な状況下。従うのが賢明だと思ったからだ。
恐る恐る突き出した舌先で、志摩の唇を舐める。子供のような拙い舌の動きに志摩はただ俺の反応を見ていた。
恥ずかしい。耐えられ難い状況で、俺はいち早くこの場所から抜け出すために志摩の唇を抉じ開け、舌を差し込んだ。熱い。頭がどうかなりそうだと思った。
無反応の志摩がもどかしくて仕方なかった。どうやって動けばいいのかも分からない、体を寄せるように、顔を寄せる。必死になって志摩の舌を探り、舌先がそれに触れた瞬間、先程までとはまた違う感覚が込み上げた。


「っ、ん、ぅ……ふ……」


屈辱的、死んだ方がましだ、なんで俺がこんなこと。頭の中でぐるぐる回る。自分がどんな顔をしてるかなんて考えたくもなかった。汗が、額から滑り落ちる。
そっと、いつの間に背中に回された志摩の手は優しく背筋をなぞった。
志摩の舌が動く。あ、と思ったときには深く舌を絡め取られていた。グチャグチャと絡み合う咥内。さっきまでとは嘘みたいに、反応してくれる志摩に安堵する自分が可笑しくてたまらなかった。


「ッ、ぁ、ふ」


腰まで辿り着いた志摩の手が、そのまま臀部へと這わされる。ウエストから下着へと滑り込んでくるその手を払う暇もなかった。臀部の谷間の更にその奥。ぐにぐにとその窄みの周囲を指で押され、腰が震えた。


「っ、……ッ!」


最後までしないって言ったはずじゃ。
躊躇いもなくそこに触れる志摩に視線で訴えかければ、志摩は、「わかってるよ」と囁き、そのまま俺の顎先、首筋へと顔を埋めた。

瞬間、濡れた肉厚の舌が首筋にべろりと這わされる。


「ッ、や、っ、ぅ……ッ」


不意打ちに声を漏らしそうになれば、伸びてきた、志摩の手に口元を抑えられる。


「ほら、声、我慢しないと。……皆に聞かれてもいいの?」

「……っん、ふ……ッ、ぅ……ッ!」

「……でしょ?なら、我慢しないとね」


そう、志摩は優しく笑う。まるで子供に言い聞かせるような声音に思わず頷きそうになる。
そうならざるを得ない状況にしてる張本人はこの男だというのに。

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