俺が痛覚が麻痺して痛みを感じないのならば、この人は痛みを感じた上でそれをなんともしない人だ。訳が違う。
まともにやり合っても、体力が浪費されるだけだ。今まで会長と一緒にいて、それは分かっていた。

頭を下げ、伸びてくる手を避ける。そのまま一気に部屋に上がり込んだ。
『貴様』とか『灘』とか、怒声を浴びせられる。
無理もない。思いながら、俺は、台所の扉を開き、収納された包丁を一本、引き抜いた。
考える暇すら惜しかった。
ぐずぐずしていたらやられると思ったからだ。迷わず、俺は切っ先を芳川会長の顔に向けて走らせるが、会長はそれを避ける。
頬に一本の赤い線が滲み、次第にそこから垂れるそれは会長の頬を赤く染め上げていく。
その一瞬、時間が止まったようだった。沈黙が走る中、奥の部屋の扉が開いた。
瞬間。


「な、だ……君……?」


聞こえてきた声は、齋藤君のものだった。
酷く久し振りに聞いたようなその声に、ほんの一瞬、隙が生じた。齋藤君の声のする方に、目を向けてしまったのだ。
芳川会長がその隙を見過ごすわけがなかった。
瞬間、包丁を構えた腕、その関節に衝撃が走る。
痛みはないが、腕から下の感覚が全くなくなってしまう。ただぶら下がるその手の中から包丁が落ちた。
咄嗟に逆の手を伸ばし拾うが、普段の利き腕とは違う、その感覚はまさに違和感というやつだろうか。

今度は躊躇いなく、その刃を思いっきり振り翳したとき、「灘君ッ!」と悲痛な声が聞こえてきた。
浅い。けれど、上半身、左肩から胸まで一筋その刃は届いたようだ。赤く染まるシャツに、会長の口元が一瞬、歪む。
同時に背後からぶつかる感触とともに、強く胴体を抱き締められる。


「駄目だっ!」

「……危ないので退いて下さい」

「会長は、灘君のことを心配してただけなんだよ!」


自分がいない間に何を吹き込まれたのか。
泣きそうな顔をしてしがみついてくる齋藤君に、先程まで全身を支配していたどす黒い感情が落ち着いていく。
会長の本性を知っていて、それでも信じるというのか。
愚かだ。……つくづくそう思わずには居られない。
それは、俺も同じか。


「灘君……ッ!」


会長の太腿に刃を突き立てれば、その額から汗が滲み落ちる。そこには普段見たこともないような、笑みが浮かんでいた。レンズの下の汗と血に濡れた凶悪な笑みが。


「……ッ、随分な、真似をするじゃないか……」

「会長、齋藤君を騙せても俺は騙せませんよ」

「くく……ッ、そうか、そうだな……お前はそういうやつだな、少しでも成長したと思った俺が愚かだった……」


そう言うなり、手首を掴まれる。血で濡れた柄はぬるりと滑り、包丁を取り上げた会長はその刃先を齋藤に向けた。
赤く濡れた刃先に、見たこともない顔をした自分が写っていた。
そんなことを思っていると、咄嗟に、体は動く。
胴体、胸に刺さる刃先を見つめ、ああ、とぼんやりと考えた。思ったよりも、鋭い鉄の感触は気持ちよくないものだと。埋め込むそれとともに溢れてくる何かを感じながら、俺は、齋藤君の悲鳴を聞きながら、包丁を抜こうとして、腕が動かないことに気付く。
こういうとき、感覚がないのは不便だな。
そんなことを考えながら、赤く染まった床の上、真っ青になった齋藤君の顔を眺めていた。騒ぎを聞き付けたのかバタバタと足音が近付いてくる。


「灘君っ、灘君……ッ!救急車……早く、救急車を……」


そんなもの、必要ない。どうせすぐに治る。
そう言って、手を握って落ち着かせようと思うのに、体は動かない。口も、動かない。喋ってるつもりなのに、唇が言うことを聞かないのだ。
けれど、他の人間が出て来れば会長も手出しは出来ないだろう。齋藤君のことが心配だったが、それもすぐ、考えられなくなった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

←前 次→
top