自己保身のため過剰に糸を張り巡らせた蜘蛛は自分の糸に雁字搦めになってしまい、そのまま身動きが取れぬまま一生を終える。
愚かだと眺めていた自分の手足に糸が絡み付いていることに気付いたときは、手遅れだった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


感情的になる程、愚かなことはない。
感情に溺れて、重要なものまで見失うとなれば救いようがない。
頭では理解していたはずなのに、なぜだろうか。
あの時、齋藤君の言葉を、目を、思い浮かべるだけで目の奥が熱くなった。全身巡る血が溶かした鉄のように内側から身を焼き付けるような、そんな衝動を、嫉妬と呼ぶらしい。自分には無縁だと思っていただけに、一時でありながらもそれに囚われてしまう自分に嫌気を覚えた。
これでは何も変わらない。
自分がなりたくないと思っていたものと、なんら、変わらない。

脳裏にこびり付いた彼の声が、怯えの色で潤ませた目が、口の中に広がる鉄の味が、蘇る。
その度に、喉の奥が渇き、痛んだ。
……我ながら、愚かだ。馬鹿馬鹿しい。怯える相手に無理に付き纏うのもおかしな話だ。

齋藤君は、会長と会う。
自分の立場を分かってて、その足で向かうという。
ならばその意志を尊重すべきではないのか。自分に、それを邪魔する資格はない。

けれど、あの目は、とても全てを受け入れてるようには思えなかった。


「……」


断られたのに、それでも執拗に付き纏って、それが彼のためになるというのか。彼が望んでいるのはなんなのか。
繰り返し自身に問い質す。けれど答えは出てこない。
それでも、会長が齋藤君を呼び出すとなると、目的は一つだ。
……俺の牽制か。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


『お前は、何も言わないな』


昔、会長に言われた一言が蘇る。
生徒会に入って、数ヶ月が経った頃だった。


『……そうですか』

『十勝も五味も俺には文句を言うぞ。お前だけだ、否定せず、黙々と言われたことをこなすのは』

『何か言った方がよろしいですか?』

『……まあ、言ったところで聞くかどうかは別だが、お前にも思うところがないわけじゃあるまいと思ってな。……ストレスが溜まるんじゃないかという気遣いだ。余計なお世話だったか?』

『不要です。それに、貴方に異論があればここにはいない』

『……そうか。ああ、そうだな。お前はそういうやつだな、灘。すまない、我ながら女々しいことを聞いたな。……忘れてくれ』

『……』


思ってもいない賞賛など求めていないこの人にとっては、行動が全てだ。それは自分も同じだろう。
思うところというのがどういうものかは分からないが、騒ぎを鎮圧するための多少の暴力も時には必要なものだと認知していた。
毒には毒を。暴力には暴力を。
それを良しとしない人間がいる。それでも、自分には極些細な問題だ。
けれどその中央に齋藤君がいるとなったら、途端に喉の奥まで得体のしれないものが込み上げてくる。
殴られて、服を弄られて、他の人間の手が彼の体中に指紋を残すと思うと酷く焦燥する自分がいた。
あの白い喉元に口を付けられる。自分がしたように、緊張で乾いたあの唇に自身の唇を何度も重るのだろう。

情けほど馬鹿らしいものはない、と会長は言っていた。
その通りだと思う。
そのせいで、自分は、正常な判断を下すことが出来ずにいるのだ。
今まで信じていたものが、途端に色を変えてしまう。
その意味は、すぐに分かった。
会長の傍に居られなくなる。その時が、こんなに早く、それもこんな形で来るとは思わなかった。
けれど、何も感じない。
申し訳無さも、怒りも、戸惑いもない。
後悔も、ない。
ただ、生徒会室で過ごした時間は案外嫌いでは無かった。そんなことを考えながら、俺は、四階へと向かう。


『和真は素直だよな』


一年の頃、まだ出会っても間もない十勝君はそんなことを自分に言うのだ。
その時はその意味が分からなかったが、今ならなんとなく分かった。
元より嘘吐くのは得意ではなかった。そのせいで、自分の気持ちを騙すことまでは出来なかったのだろう。

エレベーターを待つ時間も惜しかった。非常階段を駆け上がり、四階へと向かった。
いくつもの角を曲がり、会長の部屋へと辿り着く。
扉の前、ノックをする。すると、扉はすぐに開いた。


「……灘、お前なら来ると思ったよ」

「なら、その理由も分かりますか」

「齋藤君のことがそんなに気に入ってるのか」

「分かりません」

「分からないだと?」

「ただ、今の俺は貴方に付いていけない。そう判断したまでです」

「……そうか、それは残念だな」


そう口にする芳川会長の表情に悲しさの色は見えない。
全て判っていたのだろう。それとも、元々感情の起伏が乏しいか、恐らく両者だろう。


「お前が俺から離れる、それは仕方ないことだ。人の気持ちなどいつ心変わりするか分からない。永遠などという確証はないのだからな。……しかし、齋藤君を手放すつもりはない」

「……そうですか」


そんなこと、最初から分かっていた。この人が自分の手札を捨てるような真似をしないのは、最初から。


「失礼します」


ポケットに忍ばせていた催涙スプレーを取り出し、手で鼻と口を抑えた。その顔面に向って吹きかけた瞬間、辺りに煙が広がる。


「……ッ、貴様……」


会長も俺の行動を読んでいたようだ。顔を塞ぎ、頭を下げるが、それは大きな隙となる。
思いっきり蹴りを入れようとして、受け止められた。


「……ッ相変わらず、荒いな……!」


充血し、涙の滲む真っ赤な目でこちらを睨む会長の顔にいつもの冷静さはなかった。
……小細工で何とかなる人とは思っていなかったが、ここまで化物だとは。
怯むどころか一歩も引かずに立ち向かってくる。
いつもだったら頼もしいのかもしれないが、立場が逆転した今、それはただ厄介以外のなにものでもなかった。

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