濃厚な血の匂いに、溢れ出す熱に、目の前が眩む。
灘君、とその頭を引き剥がそうとするが離れない。
それどころか、手首を取られ、裏側、手首に浮いたその血管に歯を立てられ、全身が竦む。今度は、皮膚を突き破ることはできなかったが上目がちにこちらを見る灘のその目がいつも以上に冷たくて。
下手な真似をすれば、今ここで食い破る。そう脅されているようで、呼吸すらままならない。


「っ、灘、君……」

「助けを呼びますか」

「……っ、え……」


静かに尋ねられ、言葉に詰まる。
静まり返った教室の中、音もなく、濃厚なその匂いが充満していく。
こうしてる間にも止まらない血はシャツに染みていく。
灘は、正常ではない。そう思うのに、なぜだろうか。灘の問に、即答することはできなかった。
助けを呼べ。俺では、灘に敵わない。現時点で怪我を負わされたんだ。早く、誰かに、止めてもらえ。
頭でそうもう一人の自分が声を張り上げる。けれど、こちらの奥まで覗き込むようなその眼差しに、何も考えられなくなる。
応え倦ねた矢先、視界が翳る。夕陽で赤く染まった灘の顔は、相変わらず無表情で、何も読めない。
けれど、その目から目を逸らすことが出来なかった。

周囲の音が遠くなる。
触れる唇。後頭部にそっと回されたその無骨な指。それから逃れようと思えば逃れられたのだろう。
けれど、また、噛まれる。そう思うと、体が竦んだ。

まるでこの空き教室だけが外界から切り離されている、そんな錯覚を覚える。


「……っ、は……」


呼吸を忘れる。薄皮越しに伝わる灘の体温と混ざり合い、唇が溶ける。そんな錯覚を覚える。
角度を変え、何度もキスをする。執拗に、輪郭を確かめるように、何度も、俺達はキスをした。
時間感覚もなかった。ただ、逃れることも抵抗すること出来なくて、それ以上に、灘から流れてくる心音がトクトクと早鐘打つのが分かって、灘も緊張してるのだろうかと思うと、回された手を振りほどくことが出来なかった。

灘から傷付けられたことも、こういう風に灘から何かをされたことは……初めてだろう。花は俺が強請ったようなものだった。けれど、これは、違うはずだ。

逃げないと。ダメだ。これ以上は、駄目になる。
……俺も、灘も。

首筋、顔に、熱が集まる。
失血のせいで、頭がぼんやりして何も考えられなかった。それでも、この状況の異質さは理解していたはずだ。

気がつけば、灘の襟にも俺の血がついていて。お互い赤く染まったシャツに、灘は「洗わないといけませんね」と呟いた。キスのことについては、何も言わない。けれど、呆けて動けないでいる俺を見て、灘は「大丈夫ですか」と声を掛けてくる。


「……灘君、どうして……」

「なぜ、キスをしたのかということですか」

「……っ」

「それは、返事をし兼ねます」


「ですが」と灘は口を小さく開けた。
貴方が嫌がらなかったから、とそんな声が、風とともに聞こえた。ような気がした。

灘が噛んだ痕が完治するのには時間が掛かった。
かなり深く突き破っていたのもあったが、切り傷のように皮膚が裂けていて、瘡蓋がなくなるのには結構な時間が必要になった。
俺からしてみれば、生傷の一つや二つ、大した問題ではない。それよりも誰に負わされたかだ。

灘と一悶着あってからも、灘はいつも通りだった。いつも通りの無表情、生徒会室に篭り、淡々と職務を全うする。
変わったことといえば、送迎には以前のように灘が来るようになったことだろうか。
俺としてはあまり、顔を見たくない相手ではあったが、灘は特に気にしたようすもなく「おはようございます」なんて言ってみせるのだ。

どんな顔をして会えば良いのか、悩む暇すら与えなかった。
何もなかったかのように、けれど今まで通りではいかなくなりながらも、日々を過ごす。
首筋の怪我を絆創膏で塞ぎ、授業を受ける。
けれど、やっぱり、いつも通りというわけにはいかなかった。決定的に俺と灘はあの日、食い違ってしまっていた。
そうその事実を再確認することになったのは、あの日から一週間も経たない頃だった。
芳川会長からメールが入った。
その日は日曜日で、授業はなかった。朝目を覚ましてテレビを見ていると、メール受信を知らせる携帯に気づき、すぐに確認する。『話したいことがある』と。『暇なときでいいから一人で俺の部屋にきてくれ』という内容だった。
それを受けた俺は、断る理由もなかった。
俺は、すぐに着替え、会長の部屋に向った。
正確には、向かおうとしていた。


「おはようございます」


扉を開けば、聞こえてきた声にギクリと全身が強張る。
顔を上げれば、そこには、扉の前に立つ長身のシルエットが一つ。休日だというのに制服を着込んだ灘和真に、嫌な汗が滲む。今日は学校自体が休みなので迎えに来る必要はないのに。というか、いつから。


「どちらへ向かうのですか」


混乱する俺に向けて、灘はそう静かに問い掛けてくる。
声を荒らげるわけでも掴みかかってくるわけでもない。それでも、確かに全身を押しつぶすような静かな重圧に、俺はその場に縫い付けられたみたいに動けなくなった。

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