灘君に連れてこられたのは空き部屋だった。
保健室に連れて行かれると思っていただけに、どうしてここに来たのかその真意が分からず、灘から降りた俺は呆然としていた。


「灘君……あの……ここって……」

「移動に時間を掛けるよりも一先ず姿を隠して手当をする方が最善と判断しました」

「……そっか」


殴られた頬に痛みよりも熱を感じるようになった頃、腫れてきたのか、うまく喋れない。
くぐもった言葉でも灘には伝わったらしい。
灘はこちらを一瞥し、それから、乱雑に置かれていた椅子を指して「座って下さい」とだけ告げた。

空き教室は、余ったテーブルや椅子などを仕舞うための場所になっていた。
埃っぽくはないが、散らかった室内は少し落ち着かない。
言われるがまま、近くにあった椅子に腰を降ろした。


「ハンカチを濡らしてきます。すぐに戻ってきますのでここで待機をお願いします」

「あ……ありがとう……」

「……」


灘はこくりとだけ頷き、そのまま教室を出た。灘のいなくなった教室内、先程まで収まりかけていた全身がズキズキと痛み始める。
さっきとは別の緊張で頭を持って行かれていた分、灘がいない今本来は感じるべき痛みがきてるのだろう。
痛みは大したことではない。けれど、さっきの灘の姿を、目を、思い出すと心臓がギリギリと痛んだ。

やり過ぎなのではないか。
助けてくれた相手にそう思うのは悪いことなのだろうか。分からないが、それでも、怖い。今になって、やけにそれは鮮明な形となって襲い掛かってくる。
助けに来てくれたときは嬉しかったし、すごく安心した。けれど、それと同等、それ以上に。


「今戻りました」


扉が音もなく開き、灘の静かな声が響く。
驚きそうになりながらも、俺は「早かったね」と灘に声を掛けた。


「出来る限り急いで戻ってきました。……顔を見せて下さい」


そう言って、側の椅子を引いた灘は俺と向かい合うような形で座る。
伸ばされた手が、その手に握られたハンカチが傷口に触れないように、腫れた頬を冷やしていった。
冷たい、けど、熱と混ざり合ってすぐにぬるくなる。
けれど、気持ちいい。


「……痛みますか」

「ううん、大分落ち着いてるかな。……ちょっと、まだ熱持ってるみたいだけど」

「……」

「それよりも、灘君は、怪我とか……」

「自分は問題ありません」

「……そっか」


灘の制服、その下の白いシャツにところどころ赤い染みが出来てるのを見て、俺はつい目を逸した。笑うしかなかった。
灘があそこまで躊躇いのない人間だということを知らなかった。人間誰しも知らない一面があって当たり前だと分かっていたけど、表情も変えずに他人を痛め付ける灘を見て、胸の奥が酷くざわつく。

どうしよう、どんな顔をすればいいのか分からない。
対する灘は全然変わらない様子で、じっとこちらを覗き込んでくるのだ。


「……あの、灘君……」

「これ」

「え?」

「……いつ、付けられたのですか」


いきなり、ぐっと、襟を開かれたかと思えば、そのまま首筋をなぞられ、驚く。
一瞬、灘がなんのことを言っているのか分からなかったが、昨夜、阿賀松に同じところに歯を立てられたことを思い出し、血の気が引く。


「そ、れは……その、見えないから、分からないよ……」

「これは歯型ですね。それも深い。皮膚を破ってるせいで、ところどころ瘡蓋になっている」


やっぱり、昨日のあれか。
忘れていたのに、余計なことまで思い出し、ドクドクと心臓が脈打つ。


「……先程の男ではない。傷口の様子と他の痕の濃さからして時間が経っているように伺えますが」


「齋藤君」と、灘の双眼がこちらを静かに睨む。
腹の裏側まで見透かすようなその眼差しに、言葉がでなかった。誤魔化しも嘘も通用しないと分かったからだ。


「……阿賀松伊織ですか」


灘の口から出た固有名詞に、心臓が大きく跳ね上がる。
掌に汗が滲み、目が泳ぐ。


「っ、……違うよ……」


咄嗟に、嘘を吐いた。
なんで嘘を吐いたのか、分からなかった。それでも、認めたくなかった。相手が阿賀松だとバレていない今、まだ、大丈夫だと思ってしまったのが原因だろう。
灘に、ただの餌だと思われたくなかった。今なら、その時自分の思考がそれで占められていたのだと分かる。
灘の目が、こちらを見た。それでも、俺は、誤魔化した。


「違う……これは、先輩じゃない……」

「では、どなたですか」

「……それは、言えない。言いたくない……」

「……」


我ながら、聞き苦しいと思う。けれど、阿賀松じゃないと分かれば、灘には関係ないことだ。あくまでもこれは俺の問題だと、そう言い張れば、微かに灘の目が微かに細められる。


「なぜ、嘘を吐くのですか」

「嘘、じゃないよ。けど……」

「都合が悪いことでもあるんですか?」

「……っ、灘君には、関係ないだろ……」


口にしたあとに、急激に後悔した。頭の中、昇っていた血が一気に引いていくような、そんな冷ややかな空気に、俺は、唇を噛みしめる。けれど、本当のことだ。あくまで、灘が会長に命じられているのは阿賀松と俺のことだ。
ならば、と思った時。灘の手から、ハンカチが落ちる。床にぽとりと落ちるそれを目で追った矢先。
腕を、掴まれる。身体を強く引っ張られ、浮く腰。
え、と思った次の瞬間、首筋に顔を埋めた灘。同時に硬い感触が皮膚に食い込み、瞬きをしたとき、それは鈍い音を立てて皮膚を破り、内側に入り込んできた。

カンパニュラが潰れたときのあの濃厚な甘い匂いが、周囲にぶわりと広がった。
そんな気がした。

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