餌としての役目は果たせたのだろうか。

そんなことをぼんやり考えながら、天井を眺めていた。
阿賀松は朝になる前に部屋を出ていった。疲労感に押し潰されそうになる体とは裏腹に、妙に頭は冴え渡っていた。

灘の任務の手伝いは出来たのだろうか。気になったが、確認する気もない。
最初から分かっていたはずだ。最終的に自分の身を守るのは自分しかいないと。
けれど、それでも、どこか、阿賀松に抱かれてる最中ずっと頭の片隅には灘が助けてくれるのを期待していた。
詭弁だ。けれど信じたいのもあった。
本当に、灘なら助けてくれるかもしれないと。

馬鹿みたいだ。灘だって、そこまで俺に義理立てる必要もない。
……ないんだ。

拾い集めた花弁は元通りになりそうになかった。
押し花にしようかとも考えたが、どうしても阿賀松のことを思い出してしまいそうになり、結局俺はブーケの残骸を袋に詰めて捨てた。


「……」


ごめんなさい、灘君。
謝ったところでどうにかなるわけではない。
それでも、まだ自分がこうなった方がましだった。そう思えてすらいた。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


結局、あれから一睡も出来なかった。

煌々と差し込む朝日を遮るようにカーテンを締め切る。
とてもじゃないが、教室に行って他の生徒に混ざって授業を受けれるようなコンディションではなかった。

昨日同様、迎えに来てくれた十勝に俺は頭を下げる。


「ごめん、ちょっと風邪っぽいから休むよ」

「風邪?大丈夫なのか?なんか薬もらってこようか?」

「ううん、少し休めば大丈夫だと思う。……ごめん、せっかく来てくれたのに」


扉越し、十勝に伝えた。
こんな酷い顔を見せることも忍びなかった。
十勝は余計心配そうにしていたが、だからこそ、「そっか、なら仕方ないよな」と俺の言葉をすんなり受け入れてくれる。


「学校のこと気にすんなよ。それよりも、ゆっくり休めよ」


……十勝は優しい。
本当に体調不良だと思ってるのだろう。けれど、今は深入りしてこない十勝の気遣いが嬉しかった。

その反面、いつもと変わらない十勝にも気になった。


「あの、十勝君。……灘君は?」

「和真なら俺もまだ会ってねーな。生徒会室にも顔出してねーし、多分会長からなんかお使い頼まれてんじゃねーの?」


お使い、という言葉に芳川会長と灘の密談を思い出す。


「……そっか、ありがとう」


気になることはあったが、変に思われるのもあれだ。
俺は十勝に別れを告げ、扉を閉める。

この間のような風邪の症状はないが、休むに越したことはない。寝れるとは思わなかったが、もう少し、横になっていたかった。
少しでも調子を整えたら、学校に行こう。……素直に休みたいのもあるが、灘のことも気になる。
でも、この前みたいに倒れそうになるのも避けたい。とにかく今は休んで、それからのことは後から考えよう。
ベッドの上、横になりながら俺は目を閉じた。

どこからか薫るカンパニュラの匂いを嗅ぎながら、俺は、夢の中へと落ちる。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


次に目を覚ましたときは、昼過ぎだった。
丁度部屋に帰ってきた阿佐美の気配に気付き、それで目を覚ました。
俺が学校休んで眠ってることを阿佐美はひどく心配していたが、朝よりかは幾分マシになっていた。


「本当に大丈夫?今日一日休んでもいいと思うんだけど……」

「いや、流石に今度テストあるし……授業には出ておかないと。それじゃ、行ってきます」

「具合悪くなったらすぐに戻ってくるんだよ」

「うん」


阿佐美に見送られながら、自室を後にした俺は学園へと向かった。
学生寮に人影はない。本来ならば授業があってる時間だ。当たり前だが、それでもこうして一人で通路を歩くのは久しぶりかもしれない。
いつも隣には灘か最近なら十勝がいたからだろう。
一人分の足音しか響かない通路はやけに寂しく感じた。

そういえば、あの時は阿賀松の行動に気を取られていたが気になることを口にしていた。
コソコソ嗅ぎ回ってるとか、どうとか言ってたがもしかしなくても、灘のことを言っていたのだろうか。

と、そこまで考えたときだ。
先程まで静かだった通路に、人の声が響く。それも、複数。
エレベーター側のラウンジにはいかにも柄の悪い生徒が数名溜まっていた。
体格や、見覚えのないことから三年生だというのは直感したが……なんだか、嫌な感じだ。どうしてここにいるのか気になったが、関わりたくない。
やっぱり、非常階段を使おうかと踵を翻そうとしたときだ。
どん、といつの間にかに背後に立っていた影にぶつかってしまう。


「あっ、す、すいません……」

「君、齋藤佑樹君だよね?」


慌てて振り返ったときだった。そこには、大柄な生徒が立っていた。耳に開いたピアスに、染めた髪。
間違いない、アンチ生徒会の人間だ。
無意識の内に、俺は後退っていた。けれど、気付けば周りを囲まれていた。


「あ、あの、何か……」


用ですか、と恐る恐る尋ねようとしたときだった。
背後の三年生に脇の下に手を入れられ、そのまま身体を羽交い締めにされる。
しまった、と思うのも束の間。正面に立った男に思いっきり腹を殴られた。


「んぐッ!!」


鳩尾を抉るような重い一発に一瞬頭が飛びそうになる。
口の中に唾液がじわりと滲み、唇から垂れた。
このままではまずい。逃げないと、と思いっきり腕を動かし、背後の男の拘束から逃れようとするが、がっちりとホールドされた上半身はびくともしない。
それどころか。


「っ、ぅ……ッ」


思いっきり頬を叩かれ、全身が、脳が、痛みに怯む。
じんじんと焼けるように痺れる頬。目の前の男は、俺に視点を合わせるように軽く屈んだ。


「お前さ、生徒会に媚び売ってんだろ?俺達にもその媚びの売り方、教えろよ」

「……っ、そんな、知らな……ッ」


言い掛けた次の瞬間、顎が外れそうになる。骨と骨がぶつかるような衝撃と鈍痛。そして大きく揺れる視界の中、どろりとした温かい液体が鼻から流れ落ちる。


「ッ、ぐッ、ぅ……ッ!!」

「知らないじゃねーだろ、知りませんだろ。先輩に対しての敬語の使い方もなってねえのか?」

「……ッ、は……」

「うわー流石先輩こえー」


茶化すような周囲の声に、頭がくらくらする。鼻血が止まらない。呻く俺を見下ろして、皆笑ってる。
思い出したくもない記憶と目の前の光景が重なり、心臓が、握り潰さる。そんは感覚に、目の前が真っ暗になる。

怖い。怖い。誰か。誰か。
助けて。
こんな時間帯、教師も生徒もいないはずだ。それでも、と、強く目を瞑った俺の脳裏に一人の姿が浮かんだ。


「……っ、灘くん……ッ」

「何をしてるんですか?」


俺がその名前を口にしたときだった。
笑い声が響き渡るラウンジに、場違いな程冷めきった声が響いた。

え、とその場にいた全員が固まったときだった。俺の背後、羽交い締めにしていた男が「ぐぁ!」っと声を上げた。同時に、拘束が緩み、何者かに思いっきり身体を引っ張られた。
顔を上げれば、そこには、今まさに思い描いていた人物がそこに立っていた。


「な、だ……くん……?」

「少し離れててください」


と、俺から手を離した灘は間髪入れずにもう一人の三年生の顔面に固く握り込んだ拳を叩き込んだ。
骨が潰れるような音ともに、灘よりも体格のいい男は後方に倒れ込んだ。


「おい、なんでこいつがここに……」

「確か、今学園にいないって……う゛ぐッ!!」


狼狽える野次馬だったが、自分たちの仲間が傷付けられたという事実は把握できたようだ。
数人がかりで灘に遅い掛かるがそれをひょいと避けた灘はそのまま二人の後頭部を掴み、思いっきりお互いの顔面をぶつけ合わせた。
鼻血を吹き出して戦意喪失する仲間に、先程、灘に顔面を殴られた三年生は鼻を抑えながら声を上げた。


「おい、こんな真似してただで済むと……」


思っているのか、と声を上げるその最中、男の耳を思いっきり掴んだ灘はそのまま男の顔面を壁に叩きつけた。


「がぁ゛ッ!!」


悲痛な声とともに、男の鼻から更に血が吹き出す。灘に掴まれた耳は真っ赤になっていて、「痛い痛い痛い!」と濁った声で喚く三年生に、灘は顔を近付ける。


「誰の差し金ですか、答えてください」

「っ、あ゛……俺は、知らな……」

「そうですか」


そう言って、更に灘は男のピアスを掴んだ。
ピアスの穴が広がり、血が流れる男の耳に、血の気が引く。それなのに、灘の顔色は相変わらず一つも変わらない、それどころか声も冷淡なままで。


「やっ、やめてくれ、耳が取れる!取れるだろ!!」

「もう一度聞きます。誰の差し金ですか」

「さっ、さい、齋藤佑樹が、今日は……ひっ、一人になるからって……聞いて……ッ」


「誰から」と、灘は男のピアスを更に強く引っ張った。
痛みと恐怖で真っ赤になった男の目には涙が滲んでいた。


「っ、通路の前で……芳川と十勝が話してんのを聞いたんだよ……っ!本当だ!嘘じゃない!」

「……そうですか」


芳川会長が?と思った次の瞬間、灘は大きく手を離した。瞬間、嫌な音ともに三年生は絶叫しながら床の上に転がった。
耳を抑えるその手が真っ赤になってるのを見て、俺は堪らず目を逸した。


「静かにして下さい」


と、灘の声とともに短い男の悲鳴が響き、それから声も聞こえなくなった。恐る恐る目を開けば、そこには気絶しているようだ。床の上、倒れたまま動かなくなっていた三年生に俺は、足が震えるようだった。

再び静粛が戻ったラウンジ。
ゆっくりと、灘がこちらを振り向いた。


「……っ、ぁ……」


感情を感じさせない冷たい目。
その目に見据えられ、身体が、動かなくなる。
一歩、また一歩と近付いてくる灘に、足が縫い付けられたみたいに逃げることも出来ずにいると。
不意に、灘の手が伸びてきた。
その手には、ハンカチが握られていた。


「……すみませんでした」

「……っ、なに、……」

「……約束を、守れなかった」


そう、灘は、そっと腫れ物にでも触るかのように、ハンカチで俺の口元を拭う。赤く染まるハンカチに、自分が怪我をしていたことを思い出す。


「そんなこと……」


今更、何を言い出すのか。こうして助けにきてくれたのに。

目の前にいるのは、たしかに、俺の知っている灘だった。
先程までの冷酷さはない、どこか浮世離れしていて、少し不器用な、人。
そのことに安心した瞬間、全身の緊張の糸が解けた。同時に涙がボロボロと溢れていて、微かに、ハンカチを手にしていた灘の手が反応した。


「齋藤君……」

「っ、……」

「……齋藤君、貴方には俺を責める権利があります」


静かな声、そう口にする灘の目は、どこか、いつもと違った。何かを懇願するような、そんな眼差しに、俺は首を横に振る。


「……そんなこと、できない……っ、俺は、君が来てくれただけで……ッ」

「齋藤君」


お願いします、と灘は、綺麗な部分で、俺の涙を拭った。
どうして、そんな顔をするんだ。まるで、叱られるのを待つ子供みたいな、怯えの色を孕んだ目。
その目に見詰められると、思考が、麻痺するようだった。


「……っ、怖かった」


息を吐き出すように、言葉を口にした。
その言葉に、灘は「はい」と静かに頷いた。


「灘君が来てくれなかったら、俺……っ俺は……」


諦めることも出来ないまま、灘の名前を口にしてしまった。それが何を意味するのか、分かっていた。それでも俺は、灘を呼んだ。
そして、灘は、こうして応えてくれた。
どうしてもっと早く来てくれなかったのか。どうしてあんな約束をしたんだ。どうして迎えに来てくれなくなったんだ。どうして、どうして、どうして。

それ以上は言葉にならなかった。灘を責める資格、俺にはない。全部、俺のせいだ。
俺が勝手に期待して、灘に思い焦がれて、勝手に失望して。
そう思うと途端に馬鹿らしくなって、言葉は嗚咽となって消えた。

伸びてきた手に、抱き締められる。否、背中を軽く抑えられると言うべきか。
ぎこちない手付きで、灘は、子供でもあやすかのように何度も俺の背中をさすってくれた。


「……灘、君……」

「……すみませんでした」


灘の薫りが、する。
こんなに近付いたのは初めてではないかと思うほどの近距離に、落ち着き始めていた心音は跳ね上がる。トクトクと早鐘打つ心臓に、その音が灘に伝わっていないか不安になったが、束の間、灘はすぐに俺から身体を離した。


「……手当しないといけませんね」


灘の熱が残った身体に、一抹のもの寂しさを覚える自分に気付き、息苦しくなる。
そんな場合ではないというのに。
そうだね、と慌てて頷き返そうとしたときだった。「その前に」と、灘は俺の肩をそっと掴み、そのまま身体を退かした。
そして、


「まだ動く気力があったんですか」

「あぐッ!!」


俺の背後、倒れていた男の手を思いっきり靴底で踏み付けた灘。
その手には刃渡りの長いナイフが握られていて、その柄ごと踏み躙る灘に、骨と硬質なそれが擦り合い、折れるような音が聞こえた。
あまりの容赦のなさに息を飲んだが、それ以上に、もし灘が男がナイフを取り出したことに気付かなかったときのことを考えると血の気が引いた。
おかしな方向へと曲がった指を無理矢理剥がし、ナイフを取り上げた灘はそれを手に、男の首に突き付ける。そして、どこからともなく携帯を取り出す。


「すみません、至急、校舎一階正門側通路にお願いします。生徒同士が喧嘩をしていたので仲裁に入りました。一応落ち着いてますが、ナイフを所持してます。何人か負傷してるようなので数人こちらに回して下さい」


一方的に託し上げ、灘は通話を切る。


「……仲裁って……」

「間違ってはいないでしょう」


いけしゃあしゃあと応える灘は、突きつけたナイフをそのまま床に叩きつけ、男の無事な方の腕と床を縫い付ける。
滲む赤。声にならない悲鳴を上げる男に、灘は更にその柄を踏み、深く突き刺した。
ナイフを抜こうとすればするほど傷口が広がるようになってるようだ。暫くなんとか藻掻いていた男だったが、諦めたようだ。動かなくなる。


「それよりも、移動しましょう。……貴方の怪我が心配です」

「う、うん……」


俺よりも重症の人が何人もいるように思えたが、誰かが来るならそちらに任せた方が安心だろう。
少なくとも、灘よりかは。

なんて考えていると、突然灘がこちらに背を向け、座り始める。


「……」

「……?どうかしたの?灘君」

「背中、乗ってください。運びます」


まさか、おんぶするつもりなのか。
突拍子もない灘の行動に、慌てて俺は手を振った。


「えっ、いや、いいよ、俺、重いし……」

「早く乗ってください」

「ぁ……う……いや、でも……」


そもそもおんぶされる程の怪我もしていない。が、灘は何を言っても聞かなさそうだ。こちらをじとりと見てくる灘に、俺はぐっと息を飲む。


「お、重いよ……?いいの?」

「無問題です。酔い潰れた五味先輩を運んだこともありますので」


それは確かに……、無問題そうだ。
この年で誰かに、それも同い年の灘におぶってもらうなんて恥ずかしいが、拒否権はないようだ。
恐る恐るその背中に触れ、なるべく負担を掛けないように背中にくっついた。


「……疲れたら、降ろしてくれていいから」

「分かってます」


そう、背中にしがみついたとき、灘はそのまま立ち上がった。大きく視界が揺れ、いつもよりも高い視点に、目の前に見える灘の頭部に、なんだか非常に落ち着かない。


「……」

「だ、大丈夫……?」

「はい」

「……なら、良かった」


何一つよくはないが、「やっぱり降りてください」と言われることを期待していた俺はそのまま歩き出す灘になんだか生きた心地がしなかった。
願わくば、誰にもこの姿を見られませんように。
灘の背中、広いな。なんて思いながら、俺は灘に運ばれるがままになる。

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