◆ ◆ ◆ ◆ ◆
朝起きて制服に着替える。気怠さはまだ残ってるものの、これくらいなら授業に支障はないだろう。
準備を済ませ、部屋を出るとそこにはいつも通り灘が佇んでいる。
「灘君、おはよう」
そう声を掛ければ、壁に凭れていた灘は「おはようございます」と歩み寄ってくる。
「具合は……もう大丈夫なんですか?」
「うん、お陰様で……あのときはありがとう。その、色々……」
思い出すと、中々恥ずかしくなってきた。
色々情けないところを灘には見せてしまったし、それに、信じるとか、なんか色々嫌なことも言ってしまった。
けれど灘の態度はいつもと変わらない。
「自分が勝手にしたことなので」と、灘は簡素に応える。
「それでは、俺はこれで失礼します」
「えっ?」
「貴方の元気そうな顔を見れて安心しました」
さらりとそんなことを言う灘に呆気に取られてる間にも、灘はぺこりと頭を下げ、立ち去った。
一緒に行かないのか。守ると言っていた灘の言葉を思い出し、驚いて「灘君」と呼び止めようと、手を伸びしたときだった。
「おっはよー佑樹ー」
廊下の奥から聞き覚えのある明るい声が響く。
生徒会書記・十勝直秀はぶんぶんと大きく手を振りながらこちらへと駆け寄ってきた。
「と……十勝君、おはよう」
「悪い悪い、ちょっと寝坊しちゃってさ」
「んじゃ、行こうぜ」と、十勝は肩を組んでくる。
まるで予め待ち合わせでもしていたかのようなそんな十勝の言葉に、つい俺は「え?」と間抜けな声を上げた。
そんな俺に、十勝も驚いたように目を丸くする。
「え?じゃなくて……あ、もしかして聞いてないわけ?今日は俺が佑樹の送迎するようにって言われてたんだけど」
そんなの、初耳だ。頷き返せば、十勝は困ったように首を捻る。
どうやら、嘘は吐いていないようだ。
だとしたら、灘は。
先程まで灘がいた方を向けばそこには灘の姿はなく、食堂へ向かう生徒たちで賑わい始めていた。
「……灘君……」
「和真がどうした?」
「うん……あの、ついさっきまでいたんだけど……」
「え?まじ?今日は会長と次の総会の準備あるって言ってたのに、もしかして、和真もとうとう反抗期か!?」
「……」
楽しそうに笑う十勝だが、正直、俺は笑えなかった。なんだろうか、なんとなく、胸の奥がざわつく。
それに、十勝のことだってそうだ。ずっと灘が送迎していたのに、どうしてこんなに急に。それに灘はなんでそのことを言ってくれなかったのだろうか。
言う必要がないと思ったからか?
もしかしたら見えないところから俺の事を見てるのだろうか。だとしても、昨日の今日、あの宣言があったからか、なんだか釈然としなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
結局、灘とはあれから会えていない。
せっかく少しは灘のことが分かった、そんな自惚れた考えを抱いていたが、今となっては灘のことが分からなかった。
一日や二日、会えなかったくらいでなんだ。避けられてるからってなんだ。そもそも十勝は言っていただろう、灘は別の仕事があるんだと。
わかってはいる、わかってはいるつもりだけど……。
自室。
阿佐美が外出したあとの部屋は余計広く感じる。
「……」
テーブルの上に飾ったブーケを眺め、息を吐く。
灘は約束してくれた。そうだ、信じればいい。他のことなんて考える必要はない。
例え、俺が知らないところで芳川会長と何を話していようともだ。
「……」
『貴方を好きだから、とでも言ってほしいんですか』
「……そんな、つもりは……」
脳裏に蘇る、保健室でのやり取りを思い出しては顔が熱くなる。俺は、期待していたのだろうか。少しは灘の特別になりたかった。そう、自分が考えているのではないかと思うと、居た堪れなくなる。
疚しい気持ちは何もない。俺は、ただ、灘と……仲良くなりたかった。それだけだ。普通に、同級生として、接していたかった。
だからこのブーケをもらったとき、その気持ちに応えてくれたみたいに嬉しかった。のに。
「……」
自分の気持ちがいまいち分からない。
俺と一緒にいてくれた灘を信じたい気持ちと、生徒会役員の一人である灘を疑う気持ち。その二つがせめぎ合っては、ジレンマの棘が胸を突き破る。
こんなんじゃだめだ。気持ちを入れ替えよう。そう飲み物を取りに行こうと立ち上がったときだ。
玄関の扉が乱暴にノックされる。
寧ろそれはノックというよりも扉を殴ってるといった適切なのかもしれない。
響く音に、ドクリと嫌な汗が滲む。
こんな乱暴なノックに俺は心当たりがあった。嫌ってほどに。
「……ッ」
阿賀松伊織。あの男の顔が脳裏を過る。
居留守を使おうかと思ったが、もしも一晩中張られてみろ。部屋を出た瞬間殴られるのは分かってる。
気は進まないが、出た方がいい。
それに、と会長の顔が脳裏を過る。
……これは、会長の望んでいたそのときになるのだろうか。
思いながらも、俺は恐る恐る扉を開いた。
「は、はい……、ッ!!」
瞬間、隙間から割って入ってきた手に扉を掴まれ、大きく開かれる。そして、陰る視界の中。顔を上げれば、そこには高い位置に見覚えのある男の凶悪な笑顔があった。
「よぉ、久し振りだな」
「っ、せ、先輩……」
予想通り。
浮かべた笑みからは阿賀松の機嫌がいいことが分かり、ほっとするが束の間。
そのままズカズカと入り込んでくる阿賀松に、止める暇もなくやつは扉に施錠した。
血の気が引く。
「相変わらずきたねー部屋」
「あっ、あの、詩織なら、いま、ここには……」
「俺が用があんのはお前だよ、ユウキ君」
「俺……ですか……?」
どうして鍵を、なんて考えなくても分かった。いつも、大体阿賀松の方から俺を尋ねてくるなんて目的は一つしかないからだ。
部屋を見渡し、まるで自宅にでも帰ってきたかのように上着を脱ぎ始める阿賀松に嫌な汗しか出ない。
それをソファーへと投げ捨てた阿賀松はこちらを振り返り、笑う。
「最近コソコソ嗅ぎ回ってるのがいるからあんま会いに行けなかったんだよ、悪かったなぁ、寂しかったろ?」
「っ、そんなことは……」
ないです、なんて口が裂けても言えない。
「先輩……っ」
なるべく近付かないように距離を取っているつもりだが、あっという間に距離を詰められれば逃げ場を失う。
つーっと耳朶を撫でられ、ぞわりと身の毛がよだつ。
ここ最近、阿賀松からの呼び出しもなかった。だから安心しきっていた。
それは灘が常に隣にいてくれたからだ。でも、実際は、何も変わっていない。
耳朶に顔を寄せてくる阿賀松に、ぎょっとして身を引こうとしたその瞬間だった。
ぴたりと阿賀松の動きが止まり、すんすんと匂いを嗅ぎ始める。
「……、あの……」
「クセぇな、この部屋……花の匂いがする」
「え」
そんなことを言い出す阿賀松に、俺はテーブルの上にブーケを飾りっぱなしにしていたことを思い出す。
自分の部屋だって香水と煙で臭いくせに、なんでこんなことに一々気にするんだ。嫌な予感がする
そして、案の定阿賀松は俺のテーブルの上に置かれたブーケに目をつけた。
「ユウキ君、お前、前から部屋にあんなもの飾ってたか?」
「いえ……あれは、その、もらって……」
「誰に?」
「っ、それ、は……」
言ってから、後悔した。
普通に自分で買ったと言えばよかったか、でも、どちらにせよどうして急にと勘繰られたはずだ。
バクバクと脈打つ心臓。
絶対、灘の名前は口にできない。
「……ふーん、俺には言えねーってか」
もしかして、諦めてくれたのだろうか。
と、思ったのも束の間。次の瞬間、ブーケを手を伸ばした阿賀松に、真っ青になる。
「っ、何を、するんですか……っ」
慌てて阿賀松の手を掴み、ブーケを取り返そうと腕を伸ばす。けれど、阿賀松はそれを無視してブーケの中に指を突っ込んだ。
あ、と思ったとき。目の前で、白と紫の花々は形を崩して床に落ちる。
「変なものは仕込まれてねぇみたいだな……」
「ぁ……っ!」
「ただのブーケをお前にプレゼントか。随分と良い趣味してんな。……カンパニュラ、ユウキ君には勿体ねーな」
膨らんだ花弁ごと踏み躙り、笑う阿賀松に、目の前が真っ暗になっていく。
怒り、とは違う。得体の知れない何かが、胸を中心にぽっかりと広がっていく。
灘の顔が、脳裏に過る。
灘がくれた、唯一の繋がりが失われたような、そんな喪失感に、言葉すら出なかった。
「っ、……」
「やっぱ、放っておくべきじゃなかったな。……すぐ悪い虫引き寄せてくるからなぁ、お前は」
「……っ、ど、うして……ッ」
なんて、酷い真似を。
花だって生きてるなんてことを言うつもりはない。けれど、まるで自分自身を靴の裏で踏み潰されたみたいに、心臓が締め付けられた。
まだ、でも、間に合うかもしれない。花弁を踏み潰されていないものなら、掻き集めて活け直せば。
そう、床に這いつくばって、一輪のカンパニュラに手を伸ばしたとき、阿賀松に腕を掴まれた。
「何泣いてんだよ、そんなにこれが大切だったのか?」
残った花を拾い上げた阿賀松に、目の前が真っ暗になる。
ダメだ、それは、まだ、まともに花も開いていない。まだ蕾なのに、もうすぐ開花するのに。
そんな俺の抵抗も虚しく、阿賀松の掌の中、それは音もなく潰れた。代わりに、バラバラになった花弁が床に落ちる。
「っ、……なんて、ことを……ぅ、ん、んんっ」
顔を掴まれ、唇を重ねられる。
こんなことをされてそんな気分になれるわけがないのに、それでも執拗に唇を嬲り、貪られた。
阿賀松の胸を強く押し返そうとすれば、手首を捻り上げられ、腰を抱かれる。
「……そんなに花が恋しいならまた買っといてやる。けど俺は花の匂いは嫌いだから、ハーバリウムにしたやつな」
薬漬けの花と活きたブーケは違う。けれど、阿賀松からしてみればどちらも同じなのだろう。
涙の痕を舐め取られ、顔を逸らせばまた唇を塞がれた。
「っ、む……ッ、ん、ふ……ぅ……ッ」
逃げようと後退れば、足の下、ぱきりと小さな音を立てて茎が折れる音がして、辺りに花の匂いがより一層濃厚になる。
優しい薫りに窒息しそうだった。
ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。
繰り返す謝罪が何に対してなのか、最早分からなかった。
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