どうなったって良かった。どこからか殺人鬼が飛び出してきて、いっそのこと俺を殺してくれたらいいと思ってた。
芳川会長と阿賀松の板挟みになる日々にそれほど俺は憔悴しきっていたようだ。何を食べても泥水のような味しかしない。眠っていても、体中を虫が這うような感触に目を覚ます。起きても眠っていても休む時などはない。
けれど、そんな俺でも唯一、心安らぐ時間はあった。


「……開いてる」


ガーデンテラス。普通なら一般生徒で賑わっているのだが、授業中、その時間帯だけは無人になる。そして、運が良ければ扉も解放されているのだ。
誰もいない空間で、自然に囲まれる。些細なことではあるが、今の俺にとってこれで十分だった。
それに、最近は植木の中に小さな芽を見つけて、それがすくすくと育つさまを見ていると、それだけで胸が躍るようだった。

そして今日も、暇な時間を見てはサボってやってきていたのだけれど、ここ最近ろくに眠れていなかったからだろう。俺は、ベンチに腰を掛けたまま爆睡していた。

どれくらい経ったのだろうか、学園内に鳴り響くチャイムの音に飛び起きる。
空は既に赤みがかっていて、慌てて腕時計を確認すれば今のチャイムが放課後が始まる合図のそれだと分かった。
その時、膝の上で何かがズレた。
いつの間にか、身体の上にはブレザーが掛けられていた。
俺はブレザー着ているし、誰のだろうか。手に取り、襟の内側を確認すればそこには見知った名前の刺繍が刻まれていた。
灘。……灘和真。
灘がここに来ていたのだろうか。辺りを探るが、まだガーデンテラスには人気がない。
変なところ見られてしまったな。気恥ずかしかったが、それよりも、ブレザーを返さなければ。
俺はブレザーを畳み、そそくさとガーデンテラスを後にした。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


一先ず灘にブレザーを返そうかと生徒会室に向かう途中だった。
通路のド真ん中で、いきなり背後から「どこへ向かわれるんですか」と声を掛けられる。
年齢不相応に落ち着いたその声は聞き覚えがある。灘だ。
振り返れば、窓の傍、灘が静かに佇んでいた。
後ろからついてきていたのか、それともそこにいたのか。どちらにせよ灘の気配に全く気が付けなかった俺は現れた灘に素直に度肝を抜かれる。
そして、やはり灘はブレザーを着ていなかった。まだ寒さの残る梅雨始め。代わりに指定のベストを着た灘に、俺は慌てて抱えていたブレザーを渡した。


「あの、灘君、これ。……ありがとう。君のだよね」

「……そうですが、そのためにわざわざ校内歩き回っていたんですか?」

「早く返さないと困るかなって思って……」

「予備がもう一着あるのでお構いなく。それで……ぐっすり眠れましたか?」


やっぱり、寝ているところを見られていたようだ。
無様に大きな口開いて寝てる顔を見られていたと思うと
恥ずかしいが、見られた相手が口数の少ない灘だということに安堵する。


「……うん、お陰様でね」

「随分と、お疲れのようですね」

「そんなことないよ、ただちょっと、寝不足だっただけで……」


灘に弱音を吐いてしまえば、それが会長に伝わってしまうかもしれない。そう思い、慌てて俺は灘の言葉を否定する。
正直無駄なこととは思ったし、あの灘が声を掛けてくるくらいなのでそれは人から見ても相当なのかもしれない。
けど、甘えるわけにはいかない。

灘にちゃんとブレザーを返せたし、目的は果たした。
俺は、灘の視線から逃げるように「それじゃあ、俺、帰るよ」と、頭を下げる。そしてそのまま踵を返した。
灘が追ってくることはなかった。きっと生徒会室の近くにいたということは生徒会の活動があるのだろう。
芳川会長に挨拶できていないのは申し訳ないが、今日は、帰ろう。なんだか、そんな気分だった。

けれど、世の中俺の思い通りにはいかないわけで。
携帯に掛かってきた阿賀松からの電話によって呼び出された俺は、自室で着替える暇もなく阿賀松の部屋に向かうことになった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


朝と放課後、灘が送迎にやってくるようになってどれくらい経つだろうか。最初は戸惑っていたが、段々、灘との接し方がわかってきた……ような気がしてきた頃。


「灘君、あの……今日は、生徒会はないの?」

「はい」

「そ、そっか……」


放課後。教室までやってきた灘とともに学生寮へ戻っている間、その時間はやっぱりまだ鬼門だった。
何より、会話が続かないのだ。
何か、何か、気の利いた話題はないだろうか。


「灘君も、いつも退屈だよね……会長に言われたからって、俺と一緒にいないといけないし」


なんて、ようやく口から出てきた言葉はよりによって自虐ネタだった。笑って誤魔化そうとしたとき、灘に睨まれた。
しまった、これ、俺の自虐だけではなく下手したら芳川会長まで馬鹿にしてると受け取られてしまうんではないか。
その事実に気付き、慌てて俺は手を振った。


「あっ、ご、ごめん……別に、悪口とかそういうのじゃないんだけど……!!」

「貴方は退屈なんですか?」

「……え?」

「退屈と仰ったのは貴方ですよね」

「っ、あー……ええと、それは、その……ごめん、そういうつもりはなかったんだけど、俺は……落ち着くよ、灘君と一緒にいると……」


完全に、墓穴だ。
慌ててフォローしようとするが、冷めた灘の目は変わらない。
それどころか。


「……そうですか」


相変わらず感情を感じさせないその声に、言葉に、冷や汗が背筋に流れる。
なんか、全然フォローできてない感じの反応だ……。


「それでは自分はここで失礼します」

「あ、うん、ありがとう……」


結局、弁明することもできないまま自室まで辿り着いてしまった。
俺は灘の背中を見送りながら、心の中でやってしまったと頭を抱える。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「おはようございます」

「お……はよう」


朝。
扉を開けばそこで待っていた灘に少しだけ、拍子抜けした。
もう来ないと思った。
けれどそうか、灘には関係ないのか。
会長からの言いつけがある今、灘がどれだけ俺を不快に思おうがどうすることもできないのだろう。
そう思うと、なんだかとても申し訳ない気持ちとともに居た堪れなさを覚えた。

いつもと変わらない沈黙の中、二人分の足音だけが辺りに響く。
早く教室に着かないかな、なんて考えていたときだった。


「齋藤君、少しいいですか?」

「え?な、なに……?どうかしたの?」


ラウンジ前。
突然灘に呼び止められ、ヒヤッとする。
もしかして昨日のことで何か怒られるのだろうかと身構えたときだった。突然、灘は自分の左手の上に大きめのハンカチを広げた。


「……?」

「よく見ててください」


そう灘がもう片方の手で、ハンカチを思いっきり引っ張った瞬間、灘の左手には先程までなかったはずの小さなブーケが握られていた。


「わ……っ!!」


瞬間、薫る花の匂いに、目を見開く。
一体どこから、どうやって。
素直に驚く俺に、ハンカチをポケットに仕舞った灘はブーケを俺に差し出した。


「これを貴方にあげます」

「……えっ?あ、あの……ありがとう……?」

「……」

「……ほ、本物だ……」


紫と薄紫のグラデーションが特徴的なブーケ、その花には見覚えがあった。
カンパニュラ。昔、園芸部に入っていた頃、春先に育てていたことがある。
まさか灘が手品をしてくれて、更にブーケをくれるなんて思ってもなかっただけに、俺は大分呆けた顔をしていたはずだ。
形のいいそのブーケに目を取られていると、こちらをじっと見ていた灘が小首を傾げた。


「……あの、退屈でしたか?」

「えっ?」


もしかして、というか、やっぱり昨日のことを気にしていたのか。
不安なのか、そんなことを聞いてくる灘に、初めてその感情が読めたような気がして、俺は嬉しくて何度も首を横に振った。


「そんなことないよ、寧ろ、すごい驚いたっていうか……灘君にこんな特技があるなんて思わなかった」

「自分でできそうなことで、貴方を楽しめられそうなものはこれくらいしか思い当たらなかったので」


「それなら良かったです」と、灘は微かに口角を持ち上げた。笑った、というにはあまりにも微動だったが、それでも、俺には充分だった。


「……行きましょうか。手間取らせてしまい申し訳ございません」

「……う、うん……」


俺に気遣ってくれるなんて。
余計な気を遣わせてしまったのは申し訳ないけど、……嬉しいというのが大部分だった。

貰ったブーケ、どうしよう。部屋に飾りたいな。すぐには枯れないだろうけど、すぐに持って帰らないとな。
灘から貰ったブーケのことを考えるだけで、すごく、ワクワクした。
だからだろう。いつもよりも教室に辿り着く道がすごく短く感じた。


「それでは失礼します」

「うん、またね」


教室前。
灘と別れた。自分のクラスには行かないようだ。別方向へと歩き出す灘を見送っていると、不意に、肩を叩かれる。
振り返ればそこにはクラスメートの志摩がいた。


「齋藤、随分とあれに付き纏われてるね」

「志摩……あれって言い方……」

「大変だね、ヤキモチ焼きの彼氏を持つと」

「……」


もしかしなくても、芳川会長のことだろう。
相変わらず言い方は悪いが、志摩にとっては癖みたいなものだろうし敢えて何も言わなかった。
すると、俺の手元を覗いた志摩はブーケに気付いたようだ。


「……何?その花……?」

「これは……もらったんだ」


答えるか迷ったが、隠すほどのことでもない。
ブーケに再び目を向けた志摩は「ふーん」とさして興味もなさそうに呟いた。


「男相手に花なんて粋なことするよね」

「……そうだね」


きっと、芳川会長からのプレゼントだと思ってるのだろう。
余計な詮索されなくて安堵したが、志摩の言葉には同意せざるを得ない。

それも、灘のような無骨な相手が花なんて。
灘がどんな顔でこのブーケを用意したのか、想像つかなかった。

カンパニュラ。
夏の暑さに弱い、春の花。
花言葉は、確か……。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


余計なことをしているという自覚もあった。
けれど、日頃のお礼をしたかった。
口で言っても、灘に伝わっている手応えを感じなかったから、灘がよく食べている期間限定ものの惣菜パンを買って、俺は、生徒会室へとやってきた。
そもそも、それが間違いだった。


「齋藤君から目を離すな」


僅かに開いていた生徒会室の扉、その隙間から聞こえてきた声に思わず足を止めた。
放課後、部活動も終わり、ほとんどの生徒が学生寮へと戻った後の学園内。明かりが点いているのをみて、まだいるのだろうと思って訪ねてきたのだが中から聞こえてきた声に俺は、すぐに後悔する。


「彼を泳がせておけば必ず奴らが食い付いてくるはずだ。お前はその時を待てばいい。それまでは動くな」

「……分かりました」


聞こえてきたのは、芳川会長と灘の声だった。
バクバクと脈打つ心臓を服の上から抑える。それでも向こうまで聞こえてしまいそうな程早鐘を打つそこに、俺は、動くこともできなかった。
聞いてはいけない会話だと、すぐに分かった。

彼、というのは俺で、それで、奴らというのは。
理解してしまったその瞬間、自分が信じていたものが崩れていくような、そんなショックに堪らず、俺は、逃げ出していた。

分かっていたはずだ。会長みたいな多忙な人が自分に目を掛ける理由がただの善意だけのはずがないと。
分かっていたはずなのに、少なからず本当に純粋な好意を期待していたのも事実で。

全力疾走したせいか、紙袋の中の惣菜パンは、部屋に帰ってきたときにはもうぐちゃぐちゃになっていてとてもじゃないが人にあげれるものではなかった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ 


夢見は最悪だった。
もしかしたら全部悪い夢だったのではないかと思ったが、気のせいではない。
ゴミ箱に突っ込んだ紙袋を一瞥し、俺は汗で濡れたシャツを着替える。

どんな顔をして会長に会えばいいのだろうか。
そもそも、盗み聞きしたのは俺だ。会長たちは気付いていなかったはずだ。
一人で変に意識してしまっても余計怪しまれるかもしれない。

考えれば考える程腹の中と喉元を行き来する吐き気に、全身の倦怠感、目眩・立ち眩み、後頭部をガンガン鳴らすような頭痛。
体調不良かな、と思っても適当に休んでおけばいつの間にかにいつも通りに戻っていた。結局は気の持ちようなのかもしれないと思っていたが、今回はその『気』の方も役に立たなかったようだ。

俺は引き出しの中に仕舞っていた錠剤を数量口に放り込み、それを水で流し込む。
数時間後には落ち着くだろう。そんな気持ちのまま部屋を出たときだった。


「おはようございます」

「っ、ひ」


突然声を掛けられ、堪らず声を上げる。
振り返れば、扉の横、灘和真は静かに佇んでいた。
ここ最近は灘が送迎をしてくれていたのでこれもいつも通りと言えばいつも通りなのだが……どうしても昨夜の生徒会室での会話が蘇り、俺は、ろくに灘の顔を見ることができなかった。


「……お、おはよう……灘君」


なるべく普通に返してみるが、変に声が裏返ってしまいとボロボロだ。
灘も、会長に言われて俺を監視してるんだ。
そう思うと、なんだか、今までは不気味ながらも頼もしかった灘の存在が、俺にとっては恐怖でしかなくなる。


「酷い顔色ですが、具合が悪いのではありませんか」


尋ねられる。
こちらを覗き込んでくる灘に、俺は、咄嗟に顔を反らした。


「そうかな……?大丈夫だよ、ありがとう」

「……」

「……そろそろ行こうか、遅刻しちゃうよ」


逃げ出したい気持ちを抑え、あくまで平静を装った。
変に灘を避けて勘付かれるような真似だけはしたくない。
そういう風に心配するのも、今後の作戦に支障が出ると考えているからだろうか。そう思うと、何もかもが嘘のように感じてしまって、正直……気が気でなかった。


「……そうですね」


灘は、いつも通りだった。
もともと余計なことを話すようなタイプではない灘との登校は相変わらず静かで、会話がない。普段ならその沈黙もさして気にすることはなかったのだろうけど、今はただ、自分の心音が相手にまで聞こえていないか。それだけが心配だった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


いつも通り教室まで送ってもらい、それから教室で授業を受けることになる。
けれど、教師の声は右から左へと抜けていき、頭の中ではやはり、芳川会長の言葉が反芻していた。
芳川会長は、阿賀松から俺を守ると言っていたが、嘘だったのだ。俺はただの餌に過ぎない。ならば、自分の身は自分で守るしかない。
そんなことを考えては、時間は過ぎていく。
昨夜は動揺していたが、大分落ち着いてきたようだ。心の中は不思議と静まり返っていた。

それにしても、薬の効きが悪いのだろうか。朝からガンガン鳴っていた頭痛は止むどころか悪化してるような気がしてならない。それに、吐き気も。
もう一度、薬を飲むか。でも、そうなると何か喉に通さないとな……。
そんなことを考えている内に午前の授業が終わり、チャイムが鳴り響く。
一斉に動き出す中、クラスメートの志摩がこちらに歩み寄ってきた。


「齋藤、長かったね永江の授業……って、どうしたの?顔色悪くない?」

「……そうかな。多分、朝抜いたからそれのせいかもしれない……」

「朝食べなかったの?駄目だよ、ちゃんと食べないと元気でないよ?食べに行こうよ」

「……いや、ちょっと用事あるから……ごめんね。また誘ってよ」


人と向かい合って食べる気になれなかった。
心配してくれる志摩に手を振って、俺は教室を出た。
休み時間は灘が来るまで動くなと言われていたが、少しくらいいいだろう。そこまで制限されてはプライベートもあったものじゃない。

それに、所詮は監視するためだと思うと、素直に言うこと聞く気にもなれなかった。

覚束ない足取りで、売店へと向かう。
売店に行けば何かあるだろう。とにかく、それで空腹を凌いで……それから……それから。

そこまで考えた時、視界がゆっくりと傾く。膝から力が抜けていきそうになり、身体が、思うように動かなかった。
倒れる、と思ったときだった。
床に落ちるその寸前で、身体が動きを止める。
腰にがっしりと回された腕、驚いて顔を上げれば、そこには灘和真がいた。


「……灘、君……?」

「大丈夫ですか」


そう一言。尋ねられ、俺は、何も答えられなかった。何と答えればいいのか分からなかったのだ。
口籠る俺に構わず、灘は俺を抱き抱える。


「な、だ君……」


近い、と手を動かすが、「暴れないでください」と余計身体を強く抱き締められた。
衣類越し、密着する上半身。売店前、行き交う生徒の目がただ痛かったが、灘はそんなこと気にも留めていない様子だった。


「……言いたいことは色々ありますが、移動します。ゆっくり身体を休めることが出来る場所へ連れていきます」


「いいですね」と、小さく、灘は続けた。
俺が首を横に振っても、灘は俺を降ろしてくれないのだろう。なんとなく、そんな気がした。
悔しいが、一人で立つことが出来ないのも事実だ。俺は、頷き返すことで精一杯だった。


 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


「少しは落ち着きましたか」

「……うん」

「熱、朝の時点で気付かなかったんですか?」

「……一応、市販の薬は飲んでたし、元々、微熱っぽい日が続いていたから……」


保健室のベッドの上、側の椅子に腰を掛けた灘の視線を感じながらも俺は返した。

保健室に運ばれてから、俺の熱を図った養護教諭は「風邪ね」とばっさり一言で切り捨てた。
それからというものはあっという間で、冷却シートを額に貼られた俺はこうして半ば強制的にベッドに寝かされることになっているわけだが。


「灘君……あの、ごめんね、わざわざここまで付き合ってくれて……もう、大丈夫だから……」


正直、俺はこうして灘と面と面向かい合ってることが耐えられなかった。
少なからず俺は灘を疑っていた。今だってそれは変わらないけれど、それでも、俺の事を心配してわざわざ連れてきてくれたのも事実だ。これが俺を懐柔するためというのなら天晴だと手を叩きたいくらいである。

自分が恥ずかしかった。
素直に灘の優しさを受け入れることが未だに出来ない自分が。


「自分のことは気にしないで下さい。授業なら、免除してますので」

「……でも……感染るかもしれないし」

「風邪なんて引いたこと、小学生の頃以来ありません」 


だから大丈夫です、と灘は続ける。

……俺は、灘が分からない。灘を信じたいという気持ちはある。けど、芳川会長とのやり取りを見てしまった今、以前のような気持ちで灘と向き合うことが出来なかった。


「それとも、貴方は俺がいない方がいいですか」

「……その聞き方は、ずるいよ」


灘は、感情を顔に出さない。その分、行動に全て出る。
けれどその行動すら、灘の意志ではないと思えば、なんだろうか。酷く寂しい気持ちになるのだ。


「……灘君は、どうしてそこまで俺を気遣ってくれるの?」


大人しく寝ておけ、と頭の中のもう一人の自分が声を上げる。
けれど、そんなことを尋ねてしまうのは熱に浮かされているからだろうか。
霞む視界の中、灘の黒い目が、こちらをじっと見据えた。
困っているのか、珍しく、その返事には『間』があった。
灘の返事待てずに、続けて尋ねる。


「芳川会長に、言われたから?」


その言葉に、灘の動きが止まる。
ああ、と思った。言わなければ良かったと。
熱のせいで判断力が低下してるのかもしれない。灘の表情に、俺は後悔した。


「……やっぱり、なんでもない」


気にしないで、と逃げるようにシーツを被ったときだった。伸びてきた手に、シーツを捲られる。
ベッドの上、覆い被さるようにこちらを覗き込んでくる灘に一瞬、息が止まりそうになった。


「な、灘君……?」

「貴方はなんと答えてもらいたいんですか」


感情のない瞳に、冷めた声。
突き放すようなその言葉に、俺は、息を飲んだ。
不快に思わせたのか、いや、もしかして、俺が会長を疑ってると思われたのか。分からないが、顔を隠すものがなくなり、手のやり場に困った俺は、咄嗟に、ベッドを掴んだ。


「貴方を好きだから」


伸びてきた手が、手首ごと、手を握り締める。骨ばった感触に、身体が竦んだ。吐き出されたその無機質な言葉に、俺は、「え」と目を見開く。
灘の目は、いつもと変わらず冷たい光を放っていた。


「と、でも言ってほしいんですか」


手首裏、その筋をつっとなぞられれば、全身が震える。
近付いてくる顔に、鼻先に、俺は、逃げることも出来なかった。
そんなつもりはなかった。のに、灘にその言葉を告げられた瞬間、胸が一層騒がしくなったのに気付いてしまう。


「……っ、灘君、あの……」

「昨日、生徒会室に来ていたのは貴方でしょう、齋藤君」

「……えっ」

「……会長は気付いていませんでしたが、すぐに分かりました」


「貴方が去ったあとは花の甘い匂いがする」と、灘は俺の首筋に鼻先を近付け、囁く。
気付かれていた、とわかった瞬間余計心音は煩くなる。それ以上に、この状況に、体勢に、距離に、頭が真っ白になって、何も考えられなくて。


「聞いたんでしょう、貴方が何なのか。……俺の役割を」

「……っ、本当、なの……?本当に、俺の事、誘き寄せるための……」

「本当です。貴方は俺達にとって、格好の餌です。貴方にはそれだけの価値がある」


重ねられた手が酷く冷たく感じるのは、熱のせいだけだろうか。
きっと、違う。こんなに近いはずなのに、灘の思考が読めない。何も、感じないのだ。


「……何故、そんな顔をするのですか?貴方にしか出来ない役目がある、それは、寧ろ喜ばしいことなのでは」


不思議そうに首を捻る灘に、ああ、と思った。きっと、俺と灘の思考には天と地ほどの差があるのだろう。
役目、課せられた任務。言い方を変えれば、灘の考えは納得もいく。けれど、実際、俺の役目は言ってしまえば餌だ。魚を誘き寄せるためだけの餌。そこに意志もなんも必要ない。


「俺は……どうなるの?誘き寄せて、それで……見捨てられて……」

「……貴方は勘違いしています」


ぎし、とベッドが軋む。顎を掴まれ、無理矢理上を向かされた。覗き込んでくる灘に、嫌でも目が合うようなその体勢に、耐えられず首を捻るがすぐに正面を向かされた。


「あくまでも誘き寄せるまでが作戦です。貴方には指一本触れさせません」

「っ、そんなこと……」

「俺のこと、信じられないなら結構です。ですが、貴方が拒否しても俺は貴方を守ります」


「それが、自分の役目なので」そう続ける灘。その語気は僅かだが他と比べて強く感じた。
そう言って、絆すつもりなんだ。頭ではそう思ったが、その言葉に、真っ直ぐにこちらを見据える目に、強く握り締めてくる手に、何も言えなくなる。
飲み込まれる、灘に、その空気に。


「……俺は、君のことを……会長を……信じれないって言ってるのに?」

「はい」

「……そんなの、おかしいよ……灘君だって、嫌じゃないの?そんなの……」

「嫌ではありません」

「……っ」

「それとも、貴方は嫌ですか。俺と一緒にいるのは」


包み隠さない、どストレートなその言葉に、熱に充てられた頭はぐわんと揺れた。気がした。
本当に、灘は、ずるい。嫌になれたなら、こんなに悩むことなんてなかったんだ。ずっと。もっと、最初から。


「……嫌じゃ、ない」


カンパニュラ。
夏の暑さに弱い、春の花。
その花言葉は……感謝、誠実、不変。


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