(齋藤佑樹視点)


息を吐き、呼吸を整える。落ち着け。落ち着け。平常心だ。
そう必死に口の中で呟き、自分に言いきかせるけれど。


「……っ、ぅ……」


じわりと、視界が歪む。大したことではない、ただ触れることを嫌がられただけだ。頭で理解していても、涙が滲む。
あんな仁科、見たことなかっただけに余計。


「齋藤君、みーつけた」


瞬間、背後から聞こえてきた声に、全身が強張った。
人気のないラウンジの中。慌てて振り返れば、そこには縁が立っていた。どうして縁が、というよりも、こんなタイミングで縁が現れたことに血の気が引く。
慌てて涙を拭った。


「ッ、ど……、どうして……先輩がここに……」

「君と奎吾が揉めてるのを丁度見てね。……大丈夫?」

「だ、大丈夫です……それに、別に揉めてなんて……ないですから」


ごし、とまた涙が滲みそうになる目元を袖で拭ったとき。
縁に手首を掴まれた。


「……目、腫れてる」

「は……ッ、離して下さい」

「そんなに、奎吾のこと好きなの?」


静かな声はまるで子供をあやすかのように優しくて、柔らかくて、俺は、一瞬縁の言葉の意味が理解できなかった。
顔を上げれば、こちらを覗き込む縁と目が、視線が絡み合う。
胸の奥まで見透かされてしまいそうなその真っ直ぐな目に、俺は、視線を逸らしてしまった。


「……そ、んなこと……何、言って……」

「俺じゃダメ?」


縁の指が、手首をなぞる。
浮かび上がった血管を辿るように這わされるそれに、冷や汗が滲む。心臓が、早鐘を打つ。


「俺なら君を拒絶することはないよ。君が嫌われることを恐れる必要もない。どんな齋藤君でも、俺は受け入れるよ」


「だって、俺は齋藤君の全部が好きだから」いつもの縁の軽口だ。誰にでもそう言ってるに違いない。
分かっているはずのに、言葉に詰まったのは自分を甘やかしてくれる言葉が欲しかったからか。


「だから、齋藤君がこういう風に一人で泣くこともない」


けれど、胸に響かない。どんなに都合の良い言葉でも、俺が求めていたものでも、違うのだ。意味がないのだ。
だって、俺が嫌われたくない相手は、避けられるのが怖い相手は、縁ではなく。


「や、やめてください……っ、そんなこと言って……」


「俺は、本気だよ」


逃げないと、と思った矢先、手首を強く引っ張られ、抱き寄せられる。瞬間、視界が遮られ、唇に触れる感触に背筋が凍る。


「っ、ん、ぅ……っ!」


愛撫するかのように唇に舌を這わせ、唇を吸われる。吐息が、混ざる。
わかっていたはずだ、分かっていたのに、すぐに逃げなかった俺の自業自得だ。少しでもその優しさに判断を遅らせた俺の、自業自得。


「……っ、は、分かんないかな……俺、すごい君のこと本気なのに……君は奎吾のことしか見てないんだもん、酷いよね」

「や、め……ッ、先輩……ッんん……ッ」


唇ごと言葉を遮られ、舌で口の中をねっとりと舐められる。顎を掴む縁の指に力が入る度、頭がクラクラとした。呼吸すらままならなくて、舌を引き抜かれた瞬間唾液が零れそうになるのを縁が指で拭った。
そして、笑う。


「辛いなら俺が全部忘れさせてあげるよ、何も考えられなくなるまで愛してね」


首筋を這う指が、そのままスッとシャツの襟の下へと潜り込んでくる。そのまま、服を脱がされそうになり、咄嗟に俺は縁の胸を強く押し返した。


「っ、や、だ、やめてください、縁先輩……ッ」


ビクともしないどころか、そんな俺の反応を見て楽しんでる気配すら感じた。焦れ、思いっきり「先輩ッ!」と頬を平手で打った時、縁は動きを止めた。
あ、と思ったが、謝らなかった。平手打ちした方の縁の頬は赤く染まる。


「……俺のこと、奎吾の代わりにしてもいいんだよ」

「……っ縁先輩は、仁科先輩じゃありません……縁先輩に代わりなんて、出来ません」


俺を甘やかしてくれる相手なら誰でもいい。だから仁科の優しさに甘えてしまうのかもしれない。そう考えたときもあった。
けれど、今回のことではっきりと、それは形を現した。

暫くの沈黙の末、縁は破顔する。怒られるかもしれない、気分を悪くするかもしれない。そう思ってただけに、縁の反応は意外だった。


「……あーあ、ついてないなぁ。……本当は、ここで君を泣き止ませて俺の部屋の寝室まで連れて行く予定だったのに」

「な……」

「だってよ、奎吾。お前の耳にもちゃんと届いてたよな、齋藤君の言葉」


え、と思ったとき。縁はラウンジの入り口に目を向ける。
そこには、入ろうか入らないでおこうか迷ってる、仁科がいた。


「あーあ、本当こんな役回り程辛いことはねえよなぁ。奎吾、お前のせいで俺は完全に齋藤君に振られたんだからな。……ちゃんと、向き合えよ」


俺から手を離した縁はそのまま通路の方へと歩いていき、すれ違いざま、仁科に耳打ちをする。
その言葉ははっきりと聞こえなかったが、それよりも、いつから仁科がそこにいたのか分からないからこそ余計、不安になった。

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