《仁科視点》


「……はぁ」


無意識に溜息が漏れる。しまった、と慌てて伊織さんの方を向くけど、伊織さんはこちらのことなど気にも留めず鼻歌混じりにタブレットで遊んでいるようだ。
一先ずは安心するが、全く参考書の内容が頭に入ってこない。
そもそも伊織さん、勉強教えてやるとか言ってたのに途中で飽きてゲーム始めるし、寧ろ逆に集中できないのだけれど……集中力散漫の原因はそれだけではないのは自分で分かっていた。

齋藤、大丈夫だろうか。

俺が心配したってどうしようもない。
分かってるけど、方人さんに絡まれてる姿が脳裏をチラついては離れなくなる。
俺が気にしてどうなる。助けるのか?あいつは伊織さんの恋人だぞ。それをなんで俺が……。
何を勘違いしてるのだろうか、俺は。立場を弁えろ。頭の中で反芻する。
いくら頼られたのが嬉しいからって、吐き違うなよ。あいつは、俺が勘違いしていい相手ではない。


「おい、終わったのか?」


いきなり、タブレットをテーブルに置いた伊織さんがどかりと隣に腰を下ろしてくる。沈むソファーとその声に驚いて、慌てて背筋を伸ばした。


「す、すみません……、まだです」

「なんだ、全然じゃねえか。ここさっき解いたものと同じだろ、別に詰まるようなこと……」

「……す、すみません」

「……テメェ、集中力散漫になってんじゃねーだろうな」


全く埋まっていない伊織さん手作り問題集を見て、伊織さんは露骨に不機嫌を顔に出す。


「俺が見てやってんのに、上の空なんていい度胸じゃねえか」

「そ、そういうわけでは……」

「見え透いた嘘吐くんじゃねえ。俺の目が誤魔化せると思ってんのか?あぁッ!?」

「ご、ごめんなさい……」


テーブルに叩き付けられるボールペンに血の気が引く。
不機嫌な伊織さんにはいつになっても慣れそうにはない。慣れたくもないが。
項垂れる俺に、伊織さんは舌打ちをし、そして俺から問題集を取り上げる。


「元気になったと思えば今度は注意力散漫か。……どうせあれだろ、溜まってんだろ」

「た……」

「あーあ今日はもうやめだ。ここに別のテキストは用意しておいてやった。一発抜いて、頭冷ましてから明日朝までに全部終わらせておけよ」


そう言って、どこから取り出したのか伊織さんは問題用紙の山をばさばさとテーブルの上に置いていく。一晩では到底出来ない程の量だが、それよりも。


「抜くって、何言って……」


「なんだ?ガス抜きの仕方も教えねえとわかんねえのかよ、お前」


伊織さんが何を言おうとしているのか、理解し、顔が熱くなった。溜まってるって、そっちか。
確かに散漫してたのは事実だが、そういう風に見られていたことが何よりも情けない。
何も言えなくなる俺に、伊織さんは大きな溜息とともにソファーから立ち上がった。


「あーやめだやめだ、お花畑になってるお前には何言っても意味ねえからな。……とにかく、その呆けた面俺に見せんじゃねえ」


「あと、夜食はそこに置いてるから」と、サイドボードを指差す伊織さん。なんだかんだそういうところまで面倒見てくれるのだからこのひとは分からない。


「あ、ありがとございます……」

「はーあ、遊びに行くか」


苛ついたような足取りで、伊織さんは部屋から出て行った。扉が閉まる音を聞いて、全身の力が抜ける。
このままでは余計苛つかせてしまいそうだったため、伊織さんの判断は有り難いけれども……明日が怖いな。
問題用紙の山を眺めながら、俺はもう一度息を吐いた。

溜まってる。……欲求不満。
欲求が満たされることすら少ない今日日、ただ呼び出しも喰らわずに眠ることが出来ればいいと思っていたのに。いつからだろうか、それだけでは満足できないようになってしまったのは。

目を瞑れば、齋藤が現れる。方人さんに抱き締められ、体に、肌に触れられる齋藤の顔が。
這わされた指に反応して、歪められる顔が、表情が、こびりついては離れないのだ。


「……ッは」


呼吸を繰り返し、肺の空気を入れ替える。トクトクと次第に加速する心音。落ち着かせようと思うのに、意識すればするほど状況は悪化するばかりだ。

これじゃ、何も変わらない。
何が、気にするなだ。一番気にしてるのは、俺じゃないのか。

窮屈になった下腹部、スラックスの下からでも見て分かるほど盛り上がってるそこを見て、自己嫌悪に陥る。
自惚れてはならない。踏み込んではならない。贔屓してはならない。そのために、避けていたのに。逆にまともに会えなかったせいか、日に日に脳裏に現れる齋藤は自分の願望へと変形していくのが分かった。


「……っ、……」


羞恥で赤くなった頬。上がった息。濡れた目。縋るように、あのか細い声で名前を囁かれれば、それだけで下腹部が更に熱くなる。ベルトを緩め、下着の中に手を這わせる。普通にするときよりも、先走りの量が尋常ではない。下着の中ぬるぬると滑る感触に余計居たたまれなくなるが、止めることは出来なかった。


「……ッ、……ふ……」


齋藤が知ったら、軽蔑するに違いない。俺だって嫌だ。それでも、頭から離れないのだ。だから必然的に『こう』することになる。
頭の中でも、現実でも、いつだって齋藤に触れるのは俺ではない。それでも、齋藤の目はこちらを向いてるのだ。……忘れるはずがない。
掌の中、膨張するそれをひたすら擦る。何も考えたくなかった。ソファーの背もたれに寄りかかり、ただ無心で手を動かした。罪悪感も、全部快感でグチャグチャ塗り潰される。

影に押し倒され、肢体を跳ねさせ、ベッドのシーツの上で藻掻く齋藤が浮かぶ。外に出ることが少ないのだろう。日に焼けてなくて生白いその肌は薄暗い室内でもよく映えるだろう。齋藤は、いくら嫌がっても全部受け入れるのだろう。諦めたような目で。何も言わずに。
そこまで考えた時、頭の中で齋藤と唇を交わしていた影が自分になり、血の気が引く。
瞬間、掌の中、大きく脈打ち、溜まっていたそれは一斉に吐き出された。


「……最悪だ」


なんてことをしたという後悔よりも、妄想とは言え齋藤とキスをした自分にただ嫌悪感が伸し掛かる。
ますます、どんな顔をしてあいつに会えば良いのか分からなくなる。
……バレたら、伊織さんたちに殺されそうだ。
何回目かの溜息を吐きながら、俺は酷い虚無感の中ティッシュで精液を拭った。

普通にそういったものを使って自慰するよりも、齋藤を使った自慰行為は何倍も気持ちよかった。

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