「す、すみません……俺が余計なことしたせいで……」

「別に、齋藤のせいじゃないだろ。……それに、伊織さんの言ってることは間違ってないからな」

「先輩……」

「効率を考えたらそれが一番良いって分かってるんだけど……何もしないっていうのが、なんだか落ち着かなくて……不安になるんだ」


「もう、性癖みたいなもんだろうな」と、仁科は自嘲する。
仁科の気持ちは、分かる。他人が動いているのに自分だけ安静にするということが申し訳なくなるのだ。
けれど、だからこそ余計、仁科の手伝いをしたかった。


「……あの、俺、今日仁科先輩がゆっくり休めるように頑張ります!……なので……あの、なんでも言ってください」


これが今の俺に言える精一杯だった。
阿賀松の思いつきから始まったことだが、阿賀松には感謝せずにいられなかった。
「ありがとう」と笑う仁科の笑顔を見れて、ようやく胸の支えが取れたようだ。


「取り敢えず、部屋に上がれよ。……落ち着かないだろ」

「あっ、はい……失礼します……!」


扉を開けてくれた仁科に招き入れられ、玄関口へと上がる。靴を脱ぎ、踏み入れた。
勉強してる最中だったのだろう。テーブルの上に広げられた教科書ノート類。仁科はそれを片付け、テーブルを空けてくれた。「好きな場所座れよ」と促されるがまま、俺は椅子を借りて腰を掛けた。


「……そうだ、これ……齋藤が用意してくれたの、一緒に食べるか?……飲み物、飲み物っと……」

「俺、用意しますよ」

「それくらい俺がする。……第一、お前分かんないだろ、場所とか」

「ぅ……」

「心配しなくていい。……伊織さんにも怒られるし、今日はちゃんと休むから……これくらい俺にさせてくれ」


ここまで言われたら何も言い返せない。言い返す必要もないのだけれど、具合悪い相手に持て成してもらうのはやはり申し訳ない。
「すみません」と謝罪すれば、仁科は「気にすんな」とだけ答えてくれた。


「齋藤、お前紅茶とか飲めるか?」

「ミルクが入ってるものなら……」

「分かった」


部屋の片隅、簡易台所で飲み物を用意する仁科の後ろ姿を眺める。慣れた手付き。
紅茶、好きなのだろうか。
部屋の中にふんわりと茶葉の薫りが広がる。……なんとなく、懐かしい匂いだった。甘く、それでいて優しくて、溶けていくような。


「……お待たせ。お前の口に合うか分からないけど……ミルクが足りなければこれから足せ」


トレーの上、二人分のティーカップとミルクピッチャーをそれぞれテーブルの上に乗せていく仁科。
「ありがとうございます」とそれを受け取る。
周囲の甘い匂いが濃くなる。

仁科が紅茶が好きなのは、意外だった。
周りには嗜む人間も多かったが、使用人に作らせたり専門店で飲むことが多い人達だったからか、こうやって自分の手で紅茶を淹れる人は初めて見た。
それにしても、温度も丁度いい。熱すぎずぬるすぎない。
普段からこうして用意してるのかもしれない。

向かい側の椅子に腰を掛けた仁科は、紙袋を開け、中を覗き込んだ。それからガサゴソと中身を取り出す。


「……これは、サンドウィッチか」

「あの、片付けの手間が掛からない軽食の方がいいかなって思って……」

「ああ、……ありがとう。丁度小腹が空いてたんだ。早速貰うぞ」

「……はい、どうぞ」


よかった、喜んでくれた。
仁科の笑顔を見れたことにほっと安堵し、容器からサンドウィッチを取り出す仁科を眺める。
けれど、なかなか仁科は一口目を口にしようとしなかった。


「……」

「あの……?」

「っや……なんでもない……なんでもないんだ……」


なかなか食べようとしない仁科に、どうしたのだろうかと不安になる。そして、俺はある日の会話を思い出した。


「あっ、あの、トマトなら……抜いてもらいました」

「……えっ?」

「仁科先輩、トマトが苦手だと聞いたんで……はい、なので、大丈夫です!」


サンドウィッチの中に入ってるかもしれない。そう身構えて、なかなか踏み出せなかったのだろう。
仁科は、「覚えててくれたんだな」と驚いたような顔をし、それから安心したように頬を緩めた。
釣られて、俺もほっとした。


「忘れません……先輩のこと、じゃ、なくて、その……人の好き嫌いとかは……覚えておくようにと母に言われたので」

「……そうか」

「……はい」


なんとなく、気恥ずかしくなったが仁科は気にせず一口目を口にした。それからもぐもぐと二口めも口にする。


「……うん、美味いな」

「紅茶も、美味しいです。……先輩の入れてくれたミルクで丁度良かったです」

「そうか、なら良かった。……人に出したことなんてないからな、不安だったんだけど……齋藤が気に入ってくれたなら、良かった」

「……ありがとうございます……なんか、すみません……先輩の手を煩わせないために来たのに、持て成してもらって」

「俺がしたいからやったんだよ。……それに、手を煩わせてるのは俺だ。……お前だって、やりたいことあっただろ。授業だってあったのに、俺の面倒なんか押し付けられたせいで……ごめんな」

「……な、そんなこと……ありません、俺は好きでここに来たので」


ティーカップに口を付ける。ミルクと紅茶が混ざり合い、そのほんのりとした甘さも丁度いい。胸の奥からじんわりと熱が溢れるようだった。
二口目を飲もうと唇を寄せたときだ。


「……齋藤、やっぱりお前……帰れよ」


仁科の一言に、思わず俺は持っていたティーカップを落としそうになった。けれど、なんとか寸でのところでそれは免れた。

けれど……。


「え、なんで……そんな、いきなり……」

「伊織さんには俺から説明しておく。……だから、帰ってもいいんだぞ。……俺といても詰まらないだろ」

「詰まらないなんて……そんなこと、それに、俺は、別に阿賀松先輩に言われただけでここにいるわけじゃありません……っ」

「……齋藤、けど……お前、無理してるんじゃないか?」


仁科の一言に、息が詰まりそうになる。俺は、そんな風に仁科の目に写っていたのか。
少なくとも、俺はちっともそんな風に考えなかった。詰まらないとも思わない。ただ、俺がいることは仁科にとって好ましくないのではないだろうか。そう考えたのは事実だ。
けれど、けれど。


「……ど、どうして……急にそんなこと言うんですか……」


気遣ってくれてると分かったが、伝わらないということがここまで遣る瀬無いとは。信用がないのか。考えたところで、余計虚しくなってきた。


「仁科先輩が迷惑してるのなら……俺、戻ります」

「別に俺はそんなこと一言も……」

「俺は、先輩と一緒にいたいです」


それでも、ダメなら。無理強いしたくなかった。けれど、ここまで言っても伝わらないのなら、それをわかった上「帰れ」と言われるのなら、受け入れるつもりだった。
玉砕覚悟での俺の言葉に、仁科は「あぁ……」と何か言いたげに視線を泳がせた。


「……お前が、そう言うなら……良いんだ」


その言葉は、確かに俺を許していた。けれど、そうじゃない。俺が求めていたのは、聞きたかったのは俺の意思とかそんなことではなく、もっと、純粋な。


「俺がとかじゃなくて……仁科先輩の言葉が聞きたいです」

「……俺の……?」


はい、と頷き返す。面倒なことを言ってると思った。
けれど、それでも聞いてしまうのは仁科の真意が聞きたいからだ。……優しくて、いつでも俺のことを考えてくれる仁科が何を考えてるかを、素直に聞きたかった。


「……俺は…………正直、帰って欲しい」


仁科の言葉に、俺は、息を吐く。
分かっていたことだ。わかってて、覚悟した上で尋ねたのだろうと自問する。
押し黙る俺から目を逸し、仁科は続けた。


「……伊織さんの手前もあるし、それが出来ないのも、齋藤が自分の意思でここにいてくれてるのも分かる。……けど、齋藤、お前がいると、なんか……落ち着かない」

「……っ、わかりました……」

「だから、待てって……ッ」


答えは聞いた、と、立ち上がろうとしたとき、仁科に止められた。掴まれた手首。何事かと仁科に目を向ければ、ばつが悪そうな顔をした仁科が「わ、悪い」と慌てて俺から目を離す。そして。


「帰って欲しくもあるけど……いて欲しいのもあるんだ。……だから、なんか、……その、自分でも意味分からないこと言ってるって分かってる……えーと、その……なんつーか……悪い、いい言葉が見つからない……」


「けど、別に齋藤が嫌だとか、そういうんじゃないんだ。ただ、なんか、緊張して……こんな風に、何話したらいいのかわかんなくて……お前も嫌だろ?俺といたって……詰まらないだろうし……」仁科は、そう言って髪を掻く。照れ隠しをするかのように大きく息を吐く仁科は、言ってから恥ずかしくなったようだ。「あーもう」と、耐えられないとでもいうかのように頭を抱えた。


「……やっぱり、仁科先輩は優しいですね」


俺のために、言葉を一つ一つ選んで傷付かないように考えてくれた。
俺のことも考えてくれた。
仁科の助けになりたくてやってきたのに、逆にその言葉に救われるのだからどうしようもない。
仁科のそういうところが、好きだ。けれど、そう直接口にするのは憚れた。

仁科は、何も言わなかった。ただ、気恥ずかしそうに視線を泳がし、「紅茶、もう一杯飲むか?」と尋ねてきた。
俺は、仁科の好意に甘えることにする。

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